そのシンガーは、アマチュアだった。

しぞーかの七間町にあるライブハウス。

そこで歌うシンガーは、30歳を超えた大人の男性だった。

彼の歌声を初めて聴いたjは、心の中に消せない傷をつけられた。そんな風に感じた。

「この人はなぜ、こんな小さなお店で歌っているのだろう」。

水色の雨も、たそがれマイラブも、かもめが翔んだ日も、jの中ではその場で霞んだ。

自分の生き方に、ちっちゃな悩みと戸惑いを覚えた短大1年生のjは、大人の社会への入り口に立っていた。

そんな彼女の心を揺らすシンガー。彼の歌声は、jの心の襞にまですーっと入り込んだ。そしてjの心を優しく温めた。

jはその日からシンガーのファンになった。でも、彼女の気持ちはその後、ファンで止めることが出来なくなった。

シンガーの歌をずっと聴きたい。

私の前で。私一人に向けて、私だけに歌ってほしい。そう思うようになった。

jはシンガーに恋をした。それは今までなかった感覚だった。

jに温めて欲しい。

 

 

 

それから彼女はライブハウスに行く時は必ず、花束を持って行くようになった。

 

シンガーのステージが終わった時、手渡すために。

彼はいつでも最後にこの歌を歌った。

バットフィンガーのウイザートユー。

その歌を聴くたびにjの瞳は自然と濡れた。そして一雫。必ず温かい雫が彼女の頬を伝った。

シンガーはその後、ひたむきなjを受け入れた。

一緒に食事をし、一緒に時を過ごし、一緒に温めあった。そしてjのために。

j一人のためにシンガーは歌うようになった。

 

でも。

jはその後、知ることになる。

シンガーは病を抱えていた。それはシンガーを苦しめる頭の中の小さな出来物。

シンガーは会社員をしていた20代の時、営業先でいきなり意識を失った。そして救急車で搬送された病院で知らされた事実は彼の気持ちをひどく痛めつけた。彼は会社を辞めた。そして、歌うようになった。

生きてることを実感するために。そして生きていることを残すために彼は歌い続けた。

jはその事実を聴いた時、またも泣いた。溢れ出る涙。止めようとしても次から次へと出てくる涙。

人を愛することは、人を泣き虫にさせることなのだと知った。

高校時代までは真面目で、みんなの憧れの的だったjは、シンガーと出会い「泣き虫」になった。