大学生の頃。
一人暮らしをするボクの元に、母親からの小包が定期的に送られてきた。
小包の中には、ミカンがたくさん入ってた。
ボクの住む静岡市は、当時みかん生産がとてもさかんだったから。
そしてそれ以外に、インスタントラーメン、インスタントカレー、カップ麺。
いろんな食べ物が入ってた。
食べるものに困らないように・・・。母の優しさが身にしみた。
本当はいけないことなのかもしれないけど、その中には手紙も入ってた。
元気でいるか 街には慣れたか 友だちできたか。
淋しかないか お金はあるか 今度いつ帰る。
さだまさしさんの歌「案山子」のような内容がそこにはいつも書かれていた。
そして少しだけど、お金も入ってた。
以前にもブログに書いたけど。ボクが大学生活後半にさしかかった頃から、我が家の商売は大きく傾いた。大手資本の会社に太刀打ち出来ず、個人経営の商家が軒並みつぶれていった時代。
我が家も例外ではなかった。
父が、命より大切にしていた顧客台帳は、みるみるうちに薄くなった。
お金が入らない。人を雇い、羽振りの良かった生活は一変し、我が家は不況の泥水をがぶ飲みするような状態に突入。そこに、父の大病が重なった。
母は、一人で商売を切り盛りした。でも、我が家のお金は底をついた。
生活をするだけでやっとの収入生活を、母は黙って受け入れ、商家を守った。
そして、父の二度目の入院とともに、ボクへの仕送りが止まった。
それでも、時々母からの手紙の封筒の中には、ほんの少しだけど。
お金が入ってた。
ボクはそのお金を使えなかった。
父親の入院費を捻出するだけで四苦八苦する母。爪に灯をともすような暮らしの中から、母はその暮らしを振り絞って、ボクにお金を送ってくれる。
ボクは封筒の中から出てくるわずかなお金を取り出して、それを貯金箱に入れた。
涙がボロボロ出てきて、止まらなかった。
本当なら、すぐに静岡に戻り、長男のボクが商売の手伝いをしなければならないのに。
ボクはわがままを言って、東京の大学に残った。
そしてそれを、笑って許してくれた母。
「お前が気の済むようにしなさい。」母の口癖だった。
男の子は、どんなことでも気の済むまでしなさい。途中で止めたら、悔いしか残らない。
小学生の頃から、ずっとずっとそう言われてボクは育ってきた。
そしてその時も。「気が済むまでさせてくれ」と母に頼んだ。
学生時代後半の思い出は。
ほろ苦いことが多かった・・・。