ドラえもんが差し出すのび太への救済の手は、むしろのび太の独り立ちを妨げる行為にあたるのではないかという意見がある。

のび太がだめなのではなく、のび太をダメにさせているのはドラえもんなのだという意見である。確かに、ある意味当たってる。

ドラえもんの道具は、のび太によってろくでもない使い方をされ、それにより多くの人々が迷惑を被る。またそれは、のび太自身にも跳ね返る。

ドラえもんストーリーの多くの文脈は、そうしたレトリックで描かれている。


ドラえもん。彼の立ち位置は、終始一貫している。

それは、のび太の味方であるということである。のび太がどんなに失敗を繰り返しても。ドラえもんだけはのび太の味方であり続ける。

それは、彼がロボットだからなのか。

彼が、まじめで誠実なロボットだから、のび太を守ろうとしているのか。

否、そうではない。ドラえもんには、心がある。怒りもあるし、喜びもある。

そこにドラえもんが国民的ヒーローとして長い間愛され続けた理由がある。

彼は、ロボットでありながら、人間以上に人間的なのだ。


若林で見た空


さてここで、自分自身をリフレクションしてみよう。

自分は、どのような立ち位置で生活をしているか。その置かれた立場の一つの場面の中で、確固とした揺ぎない立ち位置を保持しているか。疑問である。

ボクは、何を終始一貫しているのか。

そこに触れた時初めて人は、自分の生き方を見出すのかもしれない。

吉田拓郎さんは歌っていた。

「私には私の生き方がある それはおそらく自分というものを 知るところから始まることでしょう」と。


ブログを書き始めて3年が経つ。

ボクは昭和を書き続けている。それは、昭和に対する郷愁の思いから始めた作業ではあるけれど、いつしかボクの立ち位置を模索する作業の場へと移り変わった。

何を信じて生きているのか。

何を支え、何に支えられて生きているのか。

それを見直す機会は、ボクらにありふれた日常の些細な課題を解決するための指針を与えてくれる。


だからボクは、今でも若林で見た青い空を思い出しながら、この文章を書き続けたいと思ってる。

この拙い文章を書き続けることにより、今、ボクはボクであり続けているようだ。