糸瓜咲て 痰のつまりし 仏かな

痰一斗 糸瓜の水も 間にあはず

をとといの へちまの水も 取らざりき


正岡子規が、亡くなる直前に書いた絶筆三句。

客観的で写実的な俳句を目指していた子規は、最後に、自らを指して「仏」と詠んだ。

(結核で)痰が詰まり、庭にある糸瓜(へちま)の水を飲もうとするが、それすらも仏様には間に合わなかったと彼は詠んだ。


若林で見た空


絶筆三句をはじめて知ったのは高校3年生の時。ボクは、子規の俳句に対する信念に、心揺り動かされた。

死ぬ間際になっても、己の信じる俳句を詠み続ける。子規のそんな姿勢が、次代の作家たちに熱い思いとなって受け継がれた。中でも、雑誌「ホトトギス」と「アララギ」は、あまりにも有名だ。


ボクは、若かりし頃。静岡で「あらら」という雑誌を出していた。

もちろん、同人誌。本屋さんでも販売してもらった、この同人誌のあららの名は、「アララギ」からいただいたものだった。


若林で見た空


今日、子規庵に行った。

子規が愛した庭と、俳句を書き続けた部屋。

そして、文豪たちが集う部屋を訪ねた。

その部屋に立って、すっと空気を吸うと。

時は一瞬明治に遡ったような気がした。

庭には今でも彼が愛したケイトウと、へちまがちゃんと育てられていた。


昨日の夜は、新橋でお酒を飲んだ。

新橋駅は、父方の曽祖父が駅長を務めた駅だと聞く。

その頃は、ちっちゃなちっちゃな駅だっただろうけど。

昨年、昨日とその駅に下りて、その賑わいに驚く。

曽祖父が見たらその変化に腰を抜かしてしまうかもしれない。


東京を歩くと、歴史を感じる。

歴史とは長さではない。

日本が本格的に動き続けた、近現代史の時間は短いけど。

そこに凝縮した出来事の大きさを眺めたらそれは、計り知れない。