小学生56年の受け持ちの、O田先生は、キビシイ先生だった。
漢字の書き取りをやらせると、とめ、はね、はらいを虫眼鏡で点検するような人だった。
とても悲しいことに、ボクの文字はその教育にはそぐわなかった。
何しろ、ボクの文字は頭でっかちで、形もヤバイ。とめ・はね・はらいなんてもってのほか。そんなものを鉛筆で表せる芸当を、ボクはあいにく待ち合わせていなかった。
だから。ボクの漢字のテストはいつもいつも零点だった。
O田先生は、「GINクン。もっとちゃんとした字を書きなさい。」とよく言った。
ありがたいその忠告。でもボクは、その忠告に残念ながら応えることはなかった。
6年生の時。
国語でごんぎつねの勉強をした。
ごんというキツネは、頭をゴンと叩かれてゴンという名前になったわけじゃない。
そんなことはみんな知っている。たんすにゴンとも関係ない。それも、みんな知っている。
そして、このごんと、兵十というおじさんの心の繋がりをつづった悲しいお話がごんぎつねだ。
ごんぎつね。ボクは、この物語を読んで感動した。良質な悲劇は、子どもの心を育てるのに役立つなぁ。と、子どものくせにそう思ってこの物語を読み終えた。そこまではよかった。ただ、その後に問題は起こった。
O田先生は、ごんぎつねをテーマにした絵を図工で描けと言い出したのだ。
いわゆる合科授業だ。O田先生は、国語と図工を合科した。
なんて迷惑な話だろう。ボクはそう思った。何しろボクは、文字を書くことと絵を描くことが極端にマズイ子どもだったから。
ボクが書いたゾウとキリンとラクダは、一般の人間には区別が付かなかった。
どれがゾウだろう。どれがキリンだろう。みんな四本足だから区別が付かない。ゾウとキリンとラクダ。それぞれの足の数を皆変えてくれたらよかったのに。真面目にボクはそう思った。
つまりそのくらいボクの絵の才能はある意味、画伯級だった。
ラファエロもピカソもシャガールも舌を巻く位の画伯級だった。
そしてそのボクが、悲しいごんぎつねのテーマを絵に表したのだから、結果は目に見えていた。
ごんぎつねはタヌキだった。兵十は、サルだった。
サルが鉄砲でタヌキを撃っている。誰が見てもそう見える画伯作のごんぎつねの絵を描き上げ、ボクはO田先生に恭しく差し出した。
O田先生はその絵を見て悲しそうだった。
とめ・はね・はらいが出来ないボクの筆力を、甘く見ていたからだ。
これで彼女も、教育の難しさを身を持って感じ取ることが出来たであろう。
ボクの絵は。彼女が一人前の教師に成長するために、貴重な教えとなった。