アラハバキ王国とは、古代大和政権の皇太子であった大彦が北に逃れ、その子孫が奥州に日高見国を建てた。

のちに「日ノ本国」を称した。

その国の王は、安倍氏や安東〔安藤〕氏を名乗った。

右差し 安倍王国のアラハバキ信仰

 

 

日ノ本国は東北地方を中心として、蝦夷地からカラフトと千島全島を支配していた。

当時の中心地に、日本中央の碑〔青森県東北町千曳神社近辺〕を建てたが、日ノ本国の範囲は多賀城碑に刻まれている。

 

日ノ本国が名を変えたアラハバキ王国は最後には、津軽半島の西北部を都とした。

その時まで独立国であった。

その後、鎌倉時代になって執権政府に服属した。

本州全部が初めて統一されたのは、この時であった。

 

その頃に元寇があって、安東船は執権政府に頼まれて玄界灘まで攻めた。

秋田で採取した石油を付けた松明の火を、夜に蒙古船に投げ込み、多くの船を焼いたという。

 

怒った蒙古船が追いかけて来て、敵兵が津軽半島に上陸した。

安東水軍は彼らをゲリラ戦で破った。

戦死した蒙古兵の兜が、戦利品として残されている。

津軽の子守歌にも、蒙古の言葉が使われている。

 

おら家の めご子ぁ 泣くなじゃよぉ

泣けば海から 蒙古来るね

泣かねば山から 父もどる

泣くなじゃ 泣くな

 

 

 

蒙古軍兜〔津軽半島〕

 

 

 

アラハバキ王国は、そののち安東水軍の貿易で栄えた。

当時は、十三湖の西の岬に都があった。

そこは南から来る敵を防御する形になっていた。

 

1341〔興国2〕年に大津波を受けて、後ろの十三湖と共に姿を変えた。

 

 

 

大津波の後の十三湖の地形〔十三浦港(十三町)〕

 

 

 

その十三湖が、後世に発掘された。

中央に東西に土塁が築かれ、その北に安東氏の館と政治の会議場があった。

 

南北に通じる道に沿って、店が40軒ほど並んでいて、その両端に漁師や農家の家があった。

土塁の南北に、5王に相当する館が5・6箇所あった。

 

そのアラハバキ王国には、邪馬台五角城と呼ばれる五角形の城があった。

アラハバキ王国時代には、王国の組織は安東家が大王で、その下に小王が5人で構成されていた。

蝦夷地にあった小城は、五王制の影響で五角形に造られた。

 

 

 

邪馬台五角城跡

 

 

 

外側には五角の防御土手があり、中心に小高い邪馬台城があった。

本城の周りに砦があり、そこから侵入する敵に矢を浴びせる形になっていた。

 

この城の砦部分は、アイヌの砦にも似ていた。

巻き貝状に、中央が高くなっていたという。

邪馬台城の本丸は亡くなっていたが、城跡は明治時代まで存在したという。

 

 

 

チャシの山﨑岬〔アイヌが築造した施設〕

 

 

 

幕末の蝦夷地・函館〔当時の字は箱館〕には、五稜郭という五角形の西洋式城が築かれた。

邪馬台城と五稜郭城の二つの城は、形がよく似ている。

 

 

 

函館五稜郭城

 

 

 

函館の五稜郭城は、邪馬台五角城の形を真似て作られたのかもしれない。

徳川幕府の重臣には、アラハバキ国王と同族の阿部氏や安藤氏がいた。

彼がヨーロッパに同じ形の城があるので、それを真似て造らせたのかもしれない。

 

とくに安藤氏は、代々幕府の重職に就いていた。

1860年に桜田門外ノ変で井伊大老が亡くなった後は、安藤信正が老中になった。

この頃に、五稜郭は造られ11月に完成した。

 

榎本武揚がオランダ留学をしたから、その時知った五角形の西洋式城郭を造るように幕府に依頼したのかもしれない。

 

さぼ