古代出雲は、西出雲の王と東出雲の王が交代で、主王〔オオナモチという役職名〕と副王〔スクナヒコという役職名〕を決めており八代目のオオナモチが、「大国主命」〔正しくは八千矛〕で、その時のスクナヒコが「事代主命」〔正しくは八重波津身〕であった。

 

 

 

 

 

 

旧出雲王家直系子孫の斎木雲州著『古事記の編集室』によると、出雲国造・ホヒ家の果安(はたやす)が出雲王国の歴史を記紀から除くことを提案し、右大臣により承認された。

 

出雲王国史を書く代わりに、国造果安がそれを出雲神話に変え、記紀に加えることになった。

 

その後、果安は徐福の名前を記紀に使わないように、忌部子人に頼んだ。

なぜならば、徐福の名前を聞くと、徐福が出雲で行った悪事を、出雲人が思い出すからだった。

 

果安は徐福をスサノオの名に変えて、記紀に書くことを子人に求めた。

事実上、記紀の記事決定の中心は、官史編集の経験の長い忌部子人だった。

 

奈良時代に、各地の風土記が作られた。

提出された各国の風土記が、記紀と食い違う箇所があるために、焼却処分された。

 

その話を出雲国造・広島は、子人から聞いた。

そこで、残っていた下書きを基にして、『私撰出雲風土記』(733年)を書いた。

 

この記録では、古事記の作為に合わせて、出雲王たちの事跡が神話に作り変えられた。

また、ホヒ家が有利になるように、書き改められた。

右差し 国造果安と出雲神話

 

 

斎木雲州著『出雲と蘇我王国』によれば、物部王朝を築いたイクメ〔垂仁〕大王は、物部十千根を出雲国造に任命した。

するとホヒ家のウカヅクヌ〔鵜濡渟〕は怒って、家族を連れてヤマトに押しかけ、ウカヅクヌの功績が十千根より勝ると主張した。

 

功績のあった向家の野見宿祢を、ホヒ家の人だと嘘をついた。

ホヒ家が国造になる方が、出雲は良く治まると言い張った。

 

その説得により国造家はホヒ家に変えられた。

 

『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば、崇神天皇の御代、天穂日命の十一世孫・宇迦都久怒(うかつくぬ)を国造に定めたとある。

 

出雲臣については、『新撰姓氏録』の右京神別上に「天穂日命十二世孫、鵜濡渟命の後」と書かれている。

 

旧事本紀や新撰姓氏録に書かれているように、初代国造にはウカヅクヌが任命された。

 

全国の国造という役職は、奈良時代には無くなったが、ホヒ家が国造の名を使うことを許可されたことは、効力を発揮した。

 

国造の名称を使い続けたホヒ家を、古代の初めからの頭だと思う幻想を、イズモ人が持ち始めた。

 

イズモ王朝の旧王家は、記紀によって神話化されたために、向家と神門家の権威は次第に忘れられた。

 

杵築大社の敷地は向家の所有で、神殿は神門家の所有であることも、イズモ人は忘れてしまった。

 

神主の国造家が最高の権威者のように後世では思われるようになった。

 

 

 

出雲国造家の系譜図〔毎日新聞/Hatenaブログ〕

 

 

 

『出雲と蘇我王国』によると、出雲国造十一世の出雲振根は、ホヒ家ではなく西出雲の王家・神門臣家〔郷戸家〕の人物。

 

飯入根は、ホヒ家でも出雲振根の弟でもなく東出雲の王家・向家〔富家〕の人物。

 

3世紀以後は、ホヒ(穂日)家に出雲臣の苗字を使うことを富家が許したので、国造家になったホヒ家は、出雲臣家〔出雲臣氏〕と書いた。

 

甘美韓日狹(うましからひさ)と子の鵜濡渟(うかづくぬ)は、ホヒ家・天穂日命の子孫。

 

襲髄〔野見宿祢といわれる〕と淤宇宿祢(おうのすくね)は、東出雲の王家・向家〔富家〕の先祖だという。
 

つまりは、この系図はホヒ家と神門臣家〔郷戸家〕と向家〔富家〕の人物を習合させた系図といえる。

 

富士林雅樹著『仁徳や若タケル大君』によれば、西出雲王家・郷戸(ごうど)家を憎んでいたホヒ家広島は、郷戸家を神門臣家と書いた。

王家を臣家と書いたことで、変だと思われた。


西出雲王家は昔から「ゴウド家」と呼ばれ、もともとは「郷戸家」の字だったという。

 

つまり『私撰出雲風土記』に書かれていた「神門」や「神門臣」の名は、国造家がつくった誤説であった。

 

郷戸家の本拠地は、最初は飯石郡三刀屋(みとや)郷〔雲南市三刀屋町〕にあり、そこの屋敷の跡が三屋神社〔祭神:八代目大穴持・八千矛王〕になった。

郷戸家はそこで、南から来る敵に備えて大きい屋敷をつくり、兵士を集めていた。

そして、三刀屋の屋敷と木次の丘で南からの街道〔現54号線〕をはさみ、敵の侵入を防ぐために見張っていたという。

 

 

 

三屋神社〔雲南市三刀屋町〕

 

 

 

その木次の方には高い丘があり、そこに郷戸家の墓が複数つくられた。

古代には、先祖の霊が敵の侵入を防ぐという考えがあった。

それが、木次の丘に墓がつくられた理由であった。

 

奈良時代に中央から国司が派遣され、国造という役職が無くなることが懸念された。

国造家は、新たに神社を建てて神主になることを富家と郷戸家に希望した。

そして、杵築大社〔明治4年 出雲大社に改称〕が建てられることになり、富家は費用を出して、神社と神主の住居の土地を用意した。

郷戸家の方は、山を多く所有していたので、良い材木を神戸川に流して運び、社を建てた。

そのため、以後は郷戸家が杵築大社の大工の棟梁になるという習慣ができた。

 

また、当時西出雲王家では三屋神社が一番重要な神社であったが、国造家の希望により、八千矛王の神霊を杵築大社に遷座することになった。

また縁結びの神である幸神(サイノカミ)の神霊も祭った。

杵築大社ができてからは、そちらに参拝に行く人が多くなり、三屋神社の方は寂れてしまった。

戦国時代には、大国主を枯死させたスサノオを祭ることになった、と大鳥居に示した。

 

ウィキペディアによると、杵築大社は、平安時代前期までの祭神は「大国主神」であったが、その後、神仏習合の影響下で鰐淵寺は杵築大社〔後の出雲大社〕の神宮寺を兼ね、鰐淵寺を中心とした縁起では、出雲の国引き・国作りの神は「素戔嗚尊」とされていた。

 

このように中世のある時期から17世紀頃までの祭神は「素戔嗚尊」であったため、1666年 毛利綱広が寄進した銅の鳥居(四の鳥居)に刻まれた銘文には「素戔嗚尊者雲陽大社神也」と記された。

 

 

 

銅の鳥居(四の鳥居)に刻まれた銘文〔杵築大社〕

 

 

 

1667年 出雲国造家により神仏分離・廃仏毀釈を主張し寺社奉行に認められ、これに併せて祭神は「古事記」「日本書紀」などの記述に沿い「大国主大神」に復した。

 

出雲国造家は南北朝時代に千家・北島両家に分家した。
それ以降は月交代で杵築〔出雲〕大社の祭祀を執った。

しかし明治時代になって、当時の政府が第80代出雲国造の千家尊癖氏を出雲大社大宮司に任命してからは、千家国造家が宮司を務めている。

 

そして、千家神主が自分の先祖を祭るようになり、その後、大国主木主〔位牌〕や、縁結びの神サイノカミの木主も、取り去ってしまった。

 

さぼ