京都府宮津市の真名井神社では、もともと穀物の神・宇賀魂(うかのみたま)が祀られていた。
それは、海部家の祖先の徐福〔火明(ほあかり)〕が持ってきた中国の「社稷(しゃしょく)の神」の名前が変わった神であった。
それは稲魂(いなだま)ともいう穀物の神で、応神大君時代の渡来人・秦氏が建てた稲荷神社の神とも共通する信仰であった。
ところで徐福は、秦国に滅ぼされた斉国の王族の子孫であった。
斉の王族は、消えたユダヤ十支族といわれる人々の一族だ、との言い伝えがある。
それで、道教にはユダヤ教の影響があるという。
真名井神社の真名井とは、「恵の泉」という意味である。
そのマナとは、旧約聖書に書かれているユダヤ人の脱エジプトの故事にちなむという。
そのことを暗示するかのように、真名井神社では少し前までは、ユダヤのシンボルの六芒星の神紋が使われていた。
海部家では、宇賀御魂を良い神であると宣伝して広めようとした。
しかしそれは渡来系の神であるため、和国ではあまり尊敬されず、人気が出なかった。
エジプト第7の災い〔出エジプト記〕
そこで雄略大君の時代に、真名井神社に遷座した豊の月神の名を利用して、「豊受大神」という神名をつくり出した。
豊受の「受」の字には、「宇賀魂」の意味が込められていた。
また、「豊」の字を使うと、穀物が豊かに実る様子が連想されるという利点もあった。
海部家では、真名井神社で豊受大神を祀っていることを宣伝した。
そしてこの神を伊勢で祀ろうと画策し、協力者を探し始めた。
現在、真名井神社の境内の奥には、石神が祀られている。
その説明文では、「塩土(しおつち)爺〔亦名住吉同体〕」と書かれ、その下に小さい字で、「大綿津見神、亦名、豊受大神」と書かれている。
塩土爺
この文の「住吉」とは住吉神社のことで、その社では海神三神を祀っている。
住吉神社の祭神については、『先代旧事本紀』に次のように書かれている。
底津少童(わたつみ)命 中津少童命 表津少童命
この三神は 阿曇連(あずみのむらじ)らが斎(いわ)い祀る筑紫・斯香(しか)神である。
少童命とは、徐福とともに来航した少年・少女〔海童〕たちの霊である。
『古事記』には、この神は綿津身の神〔海神〕と同じだと書かれている。
此三柱綿津見神者 阿曇連等之祖神以伊都久神也。
此の三柱の綿津見の神者は、阿曇連等の祖神(おやがみ)なりて以(も)ちて伊都久(いつく)也。
また記紀には、上記三神と対になって底筒男(そこつつのお)命、中筒男命、表筒男命が生まれ、住吉〔墨江〕の大神となったと書かれている。
つまり、斯香神と住吉神は、同じ神であることを示している。
故 阿曇連等者 其綿津見神之子 宇都志日金拆命之子孫也。
其底筒之男命 中筒之男命 上筒之男命三柱神者 墨江之三前大神也。
そして、阿曇連らは、その綿津見の神の子の、宇都志日金析(うつしひかなさく)の子孫である。
また底筒之男、中筒之男、上筒之男の三柱の神は、住吉神社に祭られている三座の大神である。
住吉神社と少童命の関係は、一寸法師のお伽話に次のように取り入れられている。
むかし、ナニワ〔大阪市〕の里に、婆やと爺やが住んでいた。
その家には、子供がいなかった。
婆やはさびしく思って、ある日、住吉神社に行った。
そして明神に、「子供を下さい」と祈った。
翌朝、目が覚めると、婆やのお腹の上に、小さな男の赤ん坊が乗っていた。
背丈が一寸〔約3㎝〕だったので、一寸法師という名前をつけた。・・・
この話の一寸法師は、徐福集団の海童のことを例えている。
一寸法師〔御伽草子:国会図書館所蔵〕
阿曇連については、新撰姓氏録の右京神別下に「海神綿積(わたつみわたつみ)・豊玉彦神子、穂高見(ほたかみ)命の後」と書かれている。
「阿曇」とは「海住(あまず)み」の発音が縮まった苗字で、海部氏の親族であると言われる。
住吉神社をつくったのは、海部氏の分家の津守氏であった。
津守氏については、新撰姓氏録の摂津国神別に「火明命〔彦火明、徐福、饒速日〕の後」と書かれている。
つまり、阿曇氏と津守氏は同族であった。
整理すると、塩土爺と少童(わたつみ)命は異名同神であり、徐福集団の先祖霊であった。
徐福集団は宇賀魂を信仰したので、塩土爺や少童命を祀ることは、宇賀魂を崇拝するのと同じことになる。
宇迦之御魂神
真名井神社で、塩土爺と住吉神、大綿津見神が、豊受大神〔宇賀魂と宇佐の月神の合体神〕と同体であると説明されているのは、上記のような理由による。
さぼ