徐福は1回目に土井ヶ浜遺跡に渡来していた可能性がある。

その時は出雲王国軍に攻撃され、徐福たちはシナへ逃げ帰った。

しかし、徐福は和国で王になりたいという願望が強かったので、1回目の反省から、2回目は子供たちを連れて行けば、出雲王国では攻撃されないだろうと考えたらしい。

さらに、前もって宝物を持って行って挨拶しておけば、より安全であるとも考えた。

ところが、斉国は滅ぼされたので、その計画を実行するための権力と資金がなかった。

 

徐福は、始皇帝が不老長寿の薬を求めているという話を聞き、これをうまく利用したらしい。

 

始皇帝は、紀元前219年に、東部の郡県を巡行した。

シャントン(山東)省の泰山で封禅(ほうぜん)の儀〔シナ統一の功績を天に報告する儀式〕をした後、自らの威徳をたたえる碑を立てた。

その期間に、徐福が始皇帝に謁見を求めた。

瑯邪(ろうや)台〔山東省〕には、この2人の出会いの石像がある。

 

 

徐福(右端)が始皇帝に奏上している光景を再現した群像(写真・王衆一)

 

 

 

徐福の言動については『史記』「秦始皇本紀」に記されている。

 

28年〔紀元前219年〕、始皇帝は東部の諸郡県を巡行した。

・・・瑯邪山に登り、3ヶ月も留まった。

そして山に瑯邪台〔台館〕をつくらせた。

・・・そのとき、斉人の徐市〔徐福〕らが上書して述べた。

 

海中に三つの神山があり、名前は蓬莱と方丈(ほうじょう)・瀛(えい)州と言います。

〔蓬莱は倭国であり、方丈は韓国の済州(ちぇじゅ)島で、瀛州は沖縄だと言われる〕

 

島上に仙人が住んでいて、仙人は不老長寿の仙薬を持っています。

身心を清め、けがれなき童男童女を連れて仙人を求めたいと思います。

 

そこで、〔始皇帝は〕徐市をつかわし、童男童女数千人をおくって、海に出て仙人を探させた。

 

始皇帝は、ユダヤ人の子孫と言われており、モーセに似た指導者であった。

始皇帝以前のシナでは、王族や高官者の親族や親しい者が優先される政治がなされており、不公平感が強かった。

始皇帝は、モーセの十戒のように法律で人民を統治したので、不公平感が無くなり人気が出たという。

彼が初めてシナ全土を統一できたのは、そのことが理由の一つであった。

斉を滅ぼした始皇帝が、泰山にのぼり天を拝んだのも、ユダヤの宗教の影響であった。

 

 

泰山〔中華人民共和国駐日本国大使館の公式Twitter〕

 

 

 

斉の王族もユダヤ人の宗教を信仰していて、泰山を聖山と崇め、山の上でモーセのように天を拝んでいた。

その共通点から、始皇帝は徐福を信頼したらしい。

 

徐福は始皇帝の説得に成功し、巨額の資金を手に入れた。

そして、始皇帝の命令で童男・童女を集め、船を建造し始めた。

 

『漢書』の「地理志」に、千童県という地名が書かれているが、その地名は370年間続いた。

唐代の書『元和郡県図志』に、次のように書かれている。

 

饒安県(じょうあんけん)はもと漢の「千童県」で、徐福が衣食や舟と梶を準備し、数千人の童男と童女を集めて訓練し、航海の準備をした所である。

 

現在そこは滄洲省塩山県「千童鎮」となり、そこには徐福集団の日本渡海を記念して立派な千童祠が建てられている。

 

 

千童祠〔滄洲省塩山県〕

 

 

紀元前209年、秦の学者である徐福は、秦の始皇帝の命を受け、数千人の少年少女と百人の労働者や戦士を集めて燕山から出航し、扶桑(現在の日本)への渡海を成功させた。

 

原文:https://kknews.cc/history/8ooa8nl.html

 

山東半島には、徐福が蓬莱を目指して出航したことを記念して、ポンライ〔蓬莱〕と名づけられた町もある。

 

 

徐福と童男・童女たち〔千童祠〕

 

 

山東半島が面する黄海では、晩秋以降には東南方向に吹く強い季節風がある。

それは、アナジと呼ばれる。

船に帆をかけるとアナジに押されて、船は海上をすべるように進むことができる。

 

徐福が向かうとされた三神山のうち、和国以外には、徐福集団が住み着いたところはない。

文化の進んでいたシナから、済州島や沖縄に住みたがる筈はない。

 

彼らが向かった先は、和国に間違いない。

日本には、徐福にまつわる伝承の地が各地にあり、その子孫だという人が今も多勢いる。

徐福の来日は確実な事柄であり、史実だと言える。

 

徐福が率いた船団は、アナジに吹かれて、楽に玄界灘に達することができた。

玄界灘からは東に日本海を進めば、出雲方面に着くことができる。

 

徐福は、ユダヤ人の子孫を和国に連れて行き、ユダヤ人の王国をつくりたいと考えたようで、斉国のユダヤ人の家から童男・童女が集められた。

 

徐福と一緒に和国に来た童男童女は「海童」と呼ばれた。

徐福集団の日本移住は、土井ヶ浜遺跡の後、二回にわたり、移住者は5千人を超えた。

そして弥生時代の和国での、この移住民の活躍は、和国の文化向上に大きく貢献した。

徐福集団来日は日本の歴史上、重要な事件であった。

 

 

 

参考

斎木雲州『出雲と大和のあけぼの』

富士林雅樹『出雲王国とヤマト政権』

 

 

さぼ