437年に反正大君が亡くなったあと、弟のオアサヅマ皇子が跡を継ぎ、允恭大君となった。

 

 

 

允恭大君

 

 

 

允恭大君はまもなく、葛城副王朝の勢力を削ぐような動きをしたらしい。

その記事が『日本書紀』「第十三巻:允恭天皇 安康天皇」に書かれている。

 

五年秋七月丙子朔己丑 地震。

五年秋七月十四日、地震があった。

 

先是 命葛城襲津彥之孫玉田宿禰 主瑞齒別天皇之殯。

以前に、葛城襲津彦の孫である玉田宿禰に命ぜられて、 反正天皇の殯〔もがり:埋葬するまでの間、遺骸を安置すること〕を任じられた。

 

則當地震夕 遣尾張連吾襲 察殯宮之消息

地震のあった夜、尾張連吾襲(おわりのむらじあそ)を遣わして、殯宮の様子を見せた。

 

時諸人悉聚無闕 唯玉田宿禰無之也。

人々は皆集まっていたが、 玉田宿禰だけがいなかった。

 

吾襲奏言「殯宮大夫玉田宿禰、非見殯所。」

吾襲はそのことを報告した。

 

則亦遣吾襲於葛城 令視玉田宿禰

吾襲をまた葛城に遣わして、玉田宿禰を見せた。

 

是日 玉田宿禰 方集男女而酒宴焉。

宿禰はちようど男女を集めて酒宴をしていた。

 

吾襲 舉狀 具告玉田宿禰。

吾襲は大君の調査を宿禰に告げた。

 

宿禰則畏有事 以馬一匹授吾襲爲禮幣 乃密遮吾襲而殺于道路

宿禰は問題になることを恐れて、馬一匹を贈って(賄賂)とし、途中に待ちうけて吾襲を殺した。

 

卽逃隱武內宿禰之墓域。

そして、武内宿禰の墓域に逃げて隠れた。

 

天皇聞之 喚玉田宿禰。

天皇はこれをお聞きになり玉田宿禰を召された。

 

玉田宿禰疑之 甲服襖中而參赴

宿禰は用心して甲(よろい)を衣の下に著けて参上した。

 

甲端自衣中出之。

衣の中から甲の端が見えた。

 

天皇分明欲知其狀 乃令小墾田采女賜酒于玉田宿禰

天皇はその状を明らかにしようと、小墾田采女(おはりだのうねめ)に命じて、宿禰に酒を賜わった。

 

爰采女分明瞻衣中有鎧而具奏于天皇。

采女は、はっきりと衣の下に甲のあることを見て、天皇に申し上げた。

 

天皇設兵將殺 玉田宿禰乃密逃出而匿家。

天皇は兵に討たせようとされたが、宿禰はこっそり逃げて家に隠れた。

 

天皇更發卒 圍玉田家而捕之乃誅。

天皇はさらに追われて、玉田の家を囲んで、捕え殺させられた。

 

冬十有一月甲戌朔甲申 葬瑞齒別天皇于耳原陵。

冬十一月十一日、反正天皇を耳原陵〔みみはらのみささぎ:百舌鳥耳原南陵〕に葬った。

 

当時、葛城氏の本拠地の南郷遺跡群を支配していたのは玉田宿禰の一族であったと考えられている。

允恭大君は、その玉田宿禰の勢力を削ぐ働きをしたらしく、南郷遺跡群は5世紀半ばに衰退している。

右差し 葛城副王朝の成立と南郷遺跡

 

 

 

南郷遺跡群〔奈良県御所市〕

 

 

 

玉田宿禰は、御所市大字玉手あたりに住んだらしく、この文で、玉田宿禰が逃げ隠れた「武内宿禰の墓域」とは、玉手の近くにある葛城襲津彦の室宮山古墳〔御所市〕であると考えられる。

玉手のすぐ東方には、室宮山古墳の次の世代の王墓である掖上鑵子塚(わきがみかんすづか)古墳があり、玉田宿禰の墓との説もある。

右差し 葛城襲津彦と若宮山古墳

 

 

 

掖上鑵子塚古墳〔後円部墳丘:奈良県御所市〕

 

 

 

また允恭大君は、葛城氏にとって重要な鳴滝遺跡倉庫群も廃止させたらしい。

鳴滝遺跡の発掘結果では、倉庫群は5世紀前半に使われなくなったことがわかっている。

また柱穴から柱材が全く見つからなかったことから、人為的に取り除かれたことが判明している。

 

国家的な規模の倉庫群が廃止されたということは、当時の大君の命令によるものであったと考えられる。

 

鳴滝倉庫群が消えたあと、そのあとを引き継ぐように、5世紀中期に法円坂遺跡の高床式倉庫群〔大阪市中央区〕がつくられた。

それは上町大地の北端部、大阪湾に向かって非常に目立つ位置につくられた。

 

 

 

法円坂遺跡〔大阪市中央区:古墳時代の大阪〕

 

 

 

鳴滝倉庫群が、紀ノ川から隠されるようにつくられていたのとは対照的であった。

また鳴滝倉庫群は切妻造りであったのに対し、法円坂倉庫群は入母屋造りであったと考えられている。

その構造は、床を支える束柱とは別に、巨大な屋根を支える柱が建物内部に建てられている。

 

この時期に住吉大社の倉庫群も廃止となり、朝鮮半島からの毎年の貢ぎ物が、允恭大君の管理の下で法円坂倉庫群に集められたものと考えられる。

 

法円坂倉庫群がつくられた時期とほぼ同時に、難波堀江の整備も行われたようである。

難波堀江の場所は、法円坂倉庫群の北方の現在の大川の位置であると考えられている。

 

 

 

法円坂遺跡倉庫群復元図と難波堀江〔大阪市中央区〕

 

 

 

このころ朝鮮半島では、情勢の変化が起きていた。

439年に北魏が華北を統一すると、今度は宋を次の標的にした。

その結果、高句麗は南方に注力することが可能になり、新羅に対して圧迫を強めるようになった。

それに対し新羅は、高句麗から独立する動きを始めた。

 

それを好機ととらえ、允恭大君は新羅攻撃を命じたらしい。

440年に和国軍は新羅の南辺に侵入し、生口〔奴隷〕を掠奪した。

また、東辺にも侵入した。

 

允恭大君〔和王済〕は、443年に宋へ最初の遺使をおこない、安東将軍・和国王に任命された。

この時は、自らの信任の挨拶であったので官爵の昇格は要求せず、反正大君〔和王・珍〕と同じ爵位に甘んじたものと考えられる。

 

その後、允恭大君は再び新羅攻撃を指示したようだ。

444年には和国軍が、新羅の金城を囲んでいる。

しかし、新羅を支配下に治めることはできなかった。

 

450年には、北魏が南下して宋と戦い、宋が大敗を喫する出来事があった。

この時を境に、宋は衰退の一途をたどることになる。

これにより、高句麗は新羅に対し、さらに圧迫を強めたものと考えられる。

 

 

 

5世紀の東アジア

 

 

 

同じ450年には、新羅が国境付近に兵を出して、高句麗の辺将を殺す事件がおこった。

これは、圧迫を強める高句麗から独立しようとする、新羅の意思の表れであった。

 

允恭大君はその好機をとらえ、再び新羅を攻撃する準備を開始しようとした。

まず、北魏に対して警戒を強めていた宋に対し、協力姿勢を強調することで、自らの爵位を上げる好機が来たと考えたようだ。

 

『宋書』「倭国伝」には、允恭大君〔和王済〕が宋におこなった443年と451年の2回の遺使について、次のように書かれている。

 

二十年倭國王濟遣使奉獻復以爲安東將軍倭國王

二十八年加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍如故并除所上二十三人軍郡

 

二十年、倭国王済、使いを遣わして奉献す。

また以て安東将軍・倭国王となす。
二十八年、使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加え、安東将軍は故のごとく、ならびに上る所の二十三人を軍郡に除す。

 

これは、百済を除く朝鮮半島南部の軍事的権限を、宋から認められたことになる。

和国でこの権限を認められたのは、允恭大君が初めてであり、画期的な出来事であった。

これは、仁徳大君以降に続けられてきた外交的努力が、允恭大君の時代に身を結んだとも言える。

 

また允恭大君は、家臣23人についても宋に爵位を要望し、将軍や郡の太守を名乗ることを認可された。

允恭大君は、このように家臣に宋の官爵を与えることで、和国内の統率力を強め、新羅遠征に対する士気を上げようとしたと考えられる。

 

和国が権限を認められた地域に百済が含まれていないのは、百済が420年にすでに宋に入貢し、「使持節・都督・百済諸軍事・鎮東大将軍・百済王」などの爵位を得ていたからだ。

宋の将軍号の序列では和国の安東〔大〕将軍は、百済の鎮東大将軍より劣っていた。

宋は、百済に格上の将軍号を与えていたので、和国に百済の軍事権を認めなかった。

 

しかし宋は、百済の代わりに加羅を加え、軍事権を有する国の数は和国の要求通りにしていた。

それは、宋が北魏に対抗するための和国の協力を必要としていたからだ。

 

454年には、高句麗が新羅の北辺を侵した。

翌455年には高句麗が百済に侵入したので、新羅は百済を救援する兵を送った。

 

新羅の軍事的権限を認められた允恭大君は、その朝鮮情勢を見て、新羅遠征を計画したようだ。

 

さぼ