427年に仁徳大君が没すると、その皇子のイザホワケが履中大君として即位した。
しかし仁徳大君の別の皇子には、履中大君が後継者となることに不満を持つ者がいた。
仁徳大君は八田皇后の他に、多くの妃がいたことが記紀に書かれている。
その中の一人が、吉備国出身の黒日売(くろひめ)であった。
黒日売は『古事記』では仁徳大君の妃とされている。
『日本書紀』では、履中大君の妃となっているのは誤説である。
黒日売は、出身地の吉備では「窪屋郡司(くぼやぐんじ)の娘」であったと伝えられている。
郡司とは、7世紀以降の律令制において、中央から派遣された国司の下で郡を治める地方官であり、旧国造などが任命された役職だった。
吉備国窪屋郡司の郡家〔こおりや:郡役所〕は、御崎(おんざき)神社〔岡山県総社市〕の境内にあったらしい。
御崎神社〔岡山県総社市〕
そこは周囲に堀をめぐらしてあり、当時の役所の面影が今も残っている。
ここを岡本里(こほり)ともいった時代があり、郡家があったのでその地名がついたという説もある。
そのため上記の地元の伝承は「後に窪屋郡司になる首長一族の娘」と読みかえると、正しい意味に近づく。
御崎神社の堀〔岡山県総社市〕
吉備王国は孝霊大君と、その二人の皇子である大吉備津彦と若建吉備津彦によりつくられた。
『古事記』に「大吉備津彦は、吉備の上道(かみつみちの)臣の祖となった。若建吉備津彦は、吉備の下道(しもつみちの)臣・笠(かさの)臣の祖となった」と書かれている。
窪屋はもともと吉備の首長の本拠地に含まれていたが、そのあと下道臣国造によって治められた。
下道臣国造のもとから台頭した小首長が、窪屋臣氏になった。
吉備地方では楯築王陵が造られたあと、上道臣が支配する備前方面に大型古墳が多く造られたが、5世紀に入ると今度は下道臣が支配する備中方面に巨大古墳が造られるようになった。
それが全長350mの造山(つくりやま:ぞうざん)古墳〔岡山市〕や、全長286mの作山(つくりやま:さくざん)古墳〔岡山県総社市〕であった。
この地方に近畿地方と肩を並べるほどの巨大古墳が造られたことから、下道臣が当時の吉備の首長であったものと考えられている。
窪屋郡司の郡家跡は、作山古墳の数百m南方にあり、その地の首長に関係する場所であったことがうかがえる。
窪屋郡司の郡家跡〔御崎神社境内〕と吉備路
八田皇后は、仁徳大君〔星川建彦〕が彼女の兄・宇治大君を殺したことに恨みを抱いていた。
仁徳大君の妃たちは、八田皇后の夫に対する態度を見聞きして、夫に対する恨みではなく他の妃たちに対する嫉妬であると勘違いしたらしい。
黒日売も大君に召し寄せられヤマトに赴いたが、皇后の怒りを買うことを恐れた。
それで彼女は、出身地の吉備に帰国することになった。
すると仁徳大君は姫のあとを慕って、山方〔山手〕の郡家の地に行幸した。
そこで、福山の春風野の若菜をともに楽しく摘んで、姫に歌を贈った。
山県に 蒔ける菘菜(あおな)も 吉備人と
共に採(つ)めば 楽しくもあるか
山方にまいておいた青菜も 吉備の黒日売と
いっしょに摘むと 楽しいことだ
大君が都に帰って行かれる時、姫から切々たる別れを惜しんで、歌を奉った。
やまとへに 西風(にし)吹き上げて 雲離れ
退(そ)き居(お)りとも 我忘れめや
ヤマトの方に西風が吹き上げて 雲が離れるように
あなたが離れてしまっても 私はあなたを忘れはしません
出雲の旧家の伝承によると、黒日売は仁徳大君の皇子を産んだ。
仁徳大君の死後、その吉備の皇子は、履中大君の即位に不満を持ち、船団を率いて難波津へ攻めてきた。
しかし、履中大王や弟のミズハワケ皇子〔後の反正大君〕が海岸の防備を固めたのを見て、敵わぬことを悟り、吉備国へ引き返して行ったという。
この話は記紀では、住吉仲皇子〔墨江中王〕の反乱の話に変えられている。
その皇子の名は、吉備の皇子が住吉津の倉を手中に入れようとした史実を、ほのめかしていると思われる。
また『日本書紀』には、どういう訳か雄略大君の死後に同じような話が出てくる。
それぞれの個人名を伏せて次のように読むと、履中大君時代の史実に近い話になる。
ただし、吉備の皇子は殺された話に代わっている。
大君の妃の吉備の姫〔一書によると、吉備窪屋臣の娘という〕は、皇子を産んだ。・・・
・・・大君が亡くなったあと、夫人の吉備の姫は、ひそかに皇子に語って言われた。
「大君の位に登ろうと思うなら、まず大蔵の役所を取りなさい」と・・・
皇子は母夫人の意向に従い、大蔵の役所をとった。・・・
しかし、皇子は兵に囲まれて、焼き殺された。
吉備の軍勢は、船軍40艘を率いて海上をやってきたが、皇子が殺されたと聞き、海路を引き返して行った。・・
吉備の須賀神社には、仁徳大君と黒日売を祀る二つの石殿がある。
200余年前に、今の石殿の形に変えて祀られたという。
仁徳大君の石殿とされている方は、もとは黒日売が産んだ皇子のためのものだったかもしれない。
黒日売の石殿〔吉備の須賀神社:御崎神社境内〕
この反乱を鎮めたあと、住吉津の倉を掌握した履中大君は、そこを管理する役人を定めた。
『古語拾遺』には「履中大君が蔵部を定めた」と書かれている。
428年に履中大君は百済に使者と従者50人を派遣した。
これは、百済との友好関係の維持と、宋への遺使の準備が目的らしい。
430年に履中王君は、父君・仁徳大君〔和王讃〕に倣って、宋に遺使をおこなった。
そのことが『宋書』「文帝紀」に記録されている。
その翌431年に、履中王君の命により和兵が新羅の東辺を侵し、明活城を囲んでいる。
その結果、新羅を屈服させるには至らなかったが、新羅を再び支配下に治めようとする軍事行動は、この後の大君たちも引き継がれることになる。
履中大君の世は長くは続かず、翌432年に大君は死去した。
履中大君
履中大君が亡くなったあと、その弟のミズハワケは即位し、反正大君となった。
履中大君の任期は短かったため、『宋書』にこの御方の名前が記録されることはなかった。
さらに履中大君と反正大君の兄弟関係が誤解され、仁徳大君〔和王讃〕と反正大君〔和王珍〕の親子が、兄弟であるかのように記録されてしまった。
それで『宋書』には、次のような誤説記事が書かれている。
讚死して弟珍立つ
履中大君の名が記録されなかったため、その御方を除いた「和の五王」という言葉が、後世に定着したようだ。
本来は、履中大君も入れて「和の六王」と呼ぶべきであった。
反正大君は、百済から外交を有利に進める方法を教わったらしく、宋に対し遺使をおこない、自らの地位を高める主張をした。
そのことが『宋書』に記録されている。
珍〔反正大君〕が立って、使者を遣わして貢ぎ物をたてまつった。
使持節・都督・倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東(あんとん)大将軍・和国王と自称し、上表文をたてまつって、正式にその官爵に任命されるよう求めた。
通常、新王が跡を継いだときは、前王の官爵をそのまま引き継ぐ慣例があった。
「自称する」とは、それまでの王が任命されたことのない官爵を初めて要求する、ということを意味していた。
この爵位の使持節とは、占領地の軍政官の位で、都督は軍隊の総括官の位を表す。
秦韓・慕韓とは、辰韓・馬韓のことで、それぞれ新羅・百済に変わったとされているが、新羅・百済に編入されずに残った独立地域があったものと推定されている。
反正大君は、百済や慕韓、任那については、和国が実質的に軍事権を所有しているという自負があったらしい。
当時、新羅や秦韓は高句麗の支配下にあったが、高句麗はその地域の軍事権を宋に要求していなかった。
この頃、高句麗は新羅に対する圧力を強めており、新羅は高句麗からの独立を模索し始めていた。
433年には百済が新羅に対し、和親の使節を派遣していた。
反正大君は新羅の状況の変化をいち早く把握し、4世紀に息長姫皇后が新羅を支配した実績をもとに、その地の軍事権を要求したものと考えられる。
これは「新羅を再度支配下に治めたい」という願望が込められた主張であったと考えられる。
しかし反正大君の希望はかなわず、438年に安東大将軍・和国王に任命されたにとどまった。
しかも『古事記』によれば、その前年の437年に反正大君は亡くなっており、大君は使を派遣して間もなく亡くなったものと考えられる。
当時は使が宋に到着するまでに、長い時間がかかったらしい。
反正大君は、朝鮮半島で軍事行動をした部下に対しても、官爵の任命を要求した。
『宋書』に、次の記事がある。
珍〔反正大君〕はまた、部下の和隋ら十三人を平西・征虜・冠軍・輔国の将軍の号を正式に任命されるよう求めた。
太祖は詔して、すべて許可を与えた。
反正大君は、部下に爵位を与えることで、部下に対する自らの権威を高めようとした。
この文の筆頭の「和隋」は、平西将軍の爵位を受けたものと考えられる。
「平西」とは、中国から見た西方ではないことは明らかで、和国に対して西方の朝鮮半島南部を示している。
その地域は、爵位にあたる「慕韓」に相当すると考えられている。
反正大君
安東大将軍は、中国の王から周辺国の王がもらう将軍号の一つで、九品中正(きゅうほんちゅうせい)という将軍ランク制度の第二品(第二グループ)の中に位置づけられる。
和王珍の官位要請に対して、宋の太祖は、使持節以下のことを認めず、しかも将軍号の大を抜いて、第三品の「安東将軍」とした。
しかし、同時に要請した和隋以下十三人の除正はそのまますんなり許されている。
彼らの将軍号平西・征虜・冠軍・輔国将軍は、珍が除せられた安東将軍と同じ第三品に属し、和王珍と大きな差のないことがわかる。
この時代に朝鮮半島南部の平定に貢献した「和隋」の軍勢とは、出雲の旧家で百済の傭兵となったと伝えられる。
成務王〔旧大君〕の子孫の勢力であったと考えられる。
和王と同じく「和」姓を名のっているので、旧物部王朝の末裔ではあるが、王族の一員と考えられていた。
朝鮮半島の南西部の栄山江地域では、5世紀後半から6世紀にかけて造られた前方後円墳が多数確認されている。
そこからは、葺石や埴輪、木製品など、日本の古墳と類似するものが見つかっている。
石室は、有明海沿岸地域のものを、そのまま移したような構造であった。
つまり、4世紀後半に百済に渡った成務王軍が、6世紀頃まで活躍していたものと推定される。
『宋書』のこの文により成務王の子孫の軍は、438年当時には仁徳王朝の支配下に入っていたと考えられる。
さぼ