息長姫に見捨てられた成務王〔旧大君〕は、元妻を見返したいという気持ちがあったらしい。

出雲の旧家の伝承では、成務王は葛城襲津彦に協力して、一緒に百済へ渡ったという。

 

そして成務王やその家臣たちは、百済の傭兵になったという。

当時百済は高句麗と敵対関係にあり、和国の支援を必要としていたので、成務王たちはその地で歓迎された。

成務王軍は、かつて「モノノフ」と呼ばれた物部氏の軍勢なので、武力に長けていた。

 

 

 

成務王

 

 

 

369年に、百済は高句麗の2万の兵に攻められたが、百済の近肖古王(きんしょうこおう)は太子に迎撃させた。

この時、成務王軍の助勢により敵を打ち破ることができたらしく、百済の太子〔後の斤仇首王(きんきゅうしゅおう)〕から成務王に、お礼の品が届けられた。

 

それが、石上神宮〔奈良県天理市〕に所蔵されている七支刀(しちしとう)〔日本書紀では七枝刀(ななつさやのたち)〕であった。

それは長い槍先のような鉄製品であり、両脇に3本ずつの枝がついていた。

 

 

 

七支刀(右)それを納める木枠(左)〔石上神宮提供 日本経済新聞〕

 

 

 

この七支刀の7は、北斗七星を信仰するユダヤ人の聖数であった。

ユダヤ人の燭台が7本のろうそくを立てるようになっているのも、同じ信仰によるものだ。

イスラエルの国章にはメノーラー〔7本の燭台〕が使用されている。

 

 

 

イスラエルの国章とメノーラー〔7本の燭台〕

 

 

 

古代ユダヤ人の一部は、エジプトからシルクロードを通って中国に移住していた。

例えば、秦の始皇帝や斉の徐福は、ユダヤ人の一族だと言われている。

秦が滅亡した時、秦の王族は朝鮮半島に逃れ、その子孫が新羅や百済を建国したという。

それで、百済王はユダヤ人の聖数の7を表現するため、七支刀をつくった。

 

またそれには、金象嵌の漢字文があった。

 

【表面】 

 

泰□四年(□□)月十六日丙午正陽造

百練釦七支刀□辟百兵供供侯王□□□□作

 

〔東晋〕太和4年〔西暦369年〕5月16日丙午の日中に

百練の鉄〔鍛錬して純度を高めた鉄〕で七支刀を造った。

 

 

【裏面】

 

先世以来未有此刀

百済□世□奇生聖音故爲倭王旨造

□□□世

 

先王以来 まだこの刀はない

百済王の世子・奇世王子がとくに和王・旨〔成務/ワカタラシ王〕のために造った

後世まで伝え示すように。

 

この文の「旨(し)」とは、ワカタラシの「シ」を示しているものと考えられる。

古代中国では、他国の人物名を略して記録する習慣があった。

それで、百済もその習慣を真似したらしい。

 

この刀は、成務王から和国の物部氏に伝わり、彼らの氏神・石上神宮に奉納されたと考えられる。

 

 

 

金象嵌の漢字文〔七支刀 石上神宮〕

 

 

 

『日本書紀』の神功〔息長姫〕皇后52年に、彼女が百済王から七支刀などを献上された記事があるが、これは誤説記事である。

もし七支刀が息長姫に献上されたのなら、彼女にゆかりのある住吉大社〔大阪市〕に奉納されたはずだ。

この記事は、成務王自ら百済の傭兵になったことを『日本書紀』の編集者が恥と考え、その史実を隠すために書かれたらしい。

 

371年に、百済は高句麗から再び攻撃されたが、逆に高句麗の首都・平壌城を攻め、高句麗国王の故国原王(ここくげんおう)を戦死させた。

この時も、成務王軍が百済に助勢したものと考えられる。

 

その後も、百済と高句麗の敵対関係は続いたが、高句麗は勢力を盛り返し、390年には百済を属国とした。

それに対し、成務王〔あるいはその子孫〕は危機を感じ、和国の葛城氏に救援を求めたと考えられる。

成務王と和国の連合軍は、高句麗に屈した百済王を殺害して新しい王を擁立した。

そして新羅を征服し、さらに高句麗を北に追い払った。

 

390年に新羅の奈勿王(なもつおう)が、王子の実海(みかい)〔未叱喜(みしき)〕を和国に人質に出したことが『三国遺事』に書かれている〔『三国史記』「列伝」では、402年の出来事とする〕。

 

この時の記事が、高句麗の広開土王(こうたいおう)〔好太王〕碑〔中国吉林省〕にも書かれている。

 

 

 

広開土王〔好太王〕

 

 

 

百殘新羅舊是屬民由來朝貢

而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民

 

そもそも百残〔百済の蔑称〕・新羅は〔高句麗の〕属民であり 朝貢していた

しかし 倭が辛卯年〔391年〕に海を渡り百残・加羅・新羅を破り 臣民となしてしまった。

 

 

 

広開土王碑拓本〔お茶の水女子大学デジタルアーカイブズ〕

 

 

 

この碑は広開土王の死後、子の長寿王が父王の顕彰のために414年に建てたもので、1880年になって清の農民により発見された。

 

この文で、高句麗は百済に対し「悪」という意味の「残」という字を使っている。

371年に百済に故国原王を殺されたことを、長い間恨みに思っていたらしい。

 

 

 

広開土王碑〔中国吉林省〕

 

 

 

成務王は、高句麗から百済の危機をたびたび救った功績を高く評価され、栄山江(よんさんがん)付近の土地を与えられた。

 

出雲旧家の伝承では、成務王は栄山江付近に住みつき、その地で亡くなったと伝えられている。

 

現在、栄山江付近に日本式の前方後円墳が多くあるのは、成務王か、その子孫や家臣たちの墓かもしれない。

 

成務王たちが朝鮮へ移住したため、和国の物部王朝は衰退した。

この時、出雲では秋上家〔物部家〕が神魂神社を旧東出雲王家・富家に返そうと申し出たが、富家は断ったという。

それで神魂神社は、現在も秋上氏が神主を務めている。

 

 

 

広州月桂洞1号墳〔韓国広州広域市〕

 

 

 

葛城襲津彦は、息長姫が産んだ子を次の大君にしようと考えた。

その子を息長姫から引き離し、ヤマトの自分の領地に連れ帰った。

しかし、その子は7歳で夭折した。

 

息長姫は、新羅王家の血筋が途絶えると、新羅は貢物を納めなくなると考えた。

そして、秘密裡に同じ年恰好の子供を探し、上毛野国造家の竹葉瀬という7歳の子供を養子に迎えた。

その子供は、後に応神(おうじん)〔ホムタ〕大君となった。

 

上毛野国造家は、物部氏のミマキ王〔崇神〕と宇佐神宮の姫巫女・豊玉姫との間に生まれた豊来入彦の子孫の家であった。

豊玉姫は、いわゆるヤマタイ国のヒミコとされている人物の一人だった。

 

上毛野国造家から竹葉瀬の息長家へ養子入りの話を聞いて、宇佐神宮は喜んだ。

それまでは、本殿に豊玉姫を祀っていた。

その話を聞いた後では、もとの本殿をニノ御殿とし、それに一ノ御殿を建て加え、後者に応神〔ホムタ〕大君を祀った。

息長家は、御陰(みかげ)ノ神〔宇佐の月神〕を祀る家であったので、息長姫も三ノ御殿に祀った。

 

神社では記紀に合わせて、祭神の表現を変えることが多い。

今は祭神が向かって左から順に以下のようになっている。

 

一ノ御殿 誉田別尊(ほむたわけのみこと)〔応神天皇〕

二ノ御殿 比売大神(ひめのおおかみ)〔宗像三女神〕

三ノ御殿 大帯姫(おおたらしひめ)〔神功皇后〕

 

 

 

宇佐神宮

 

 

 

『古事記』の応神大君の記事には「秋山夫(あきやまのおとこ)と春山夫」の話が次のように書かれている。

 

有新羅國主之子 名謂天之日矛。

是人參渡來也 多遲摩國 即留其國而。・・・

 

新羅の国王の子で 名は天之日矛(あめのひぼこ)という者がいた。

この人が我が国に渡って来て 但馬国〔出石〕にとどまった。・・・

 

故茲 神之女 名伊豆志袁登賣神坐也。

故八十神 雖欲得是 伊豆志袁登賣 皆不得婚。

 

伊豆志(いずし)の神の娘で 名は伊豆志袁登売(いずしおとめ)という神がおられた。

多くの神々が この伊豆志袁登売を妻に得たいと望んだが 叶わなかった。

 

於是有二神 兄號 秋山之下氷壯夫

弟名 春山之霞壯夫。

 

ところで、ここに二柱の神があって 兄は秋山之下氷(したひ)〔干〕壮夫(おとこ)

弟は春山之霞壮夫(はるやまのかすみおとこ)と言った。

 

故其兄謂其弟 吾雖乞 伊豆志袁登賣 不得婚。

汝得此孃子乎。

答曰易得也。

 

兄が弟に向かって 私は伊豆志袁登売を妻に願ったが 結婚できなかった。

おまえはこの少女を妻にできるか と言った。
弟が答えて たやすいことです と言った。

 

爾其兄曰 若汝有得此孃子者 

避上下衣服 量身高而釀甕酒 

亦山河之物 悉備設 爲宇禮豆玖云爾。

 

そこでその兄は もしもおまえが この少女を娶ることができるならば 

私は上衣と袴を脱ぎ 身の丈を計って それと同じ高さの甕(かめ)に酒をし 

山や河の産物をことごとく準備をして 御馳走としよう と言った。

 

爾其弟 如兄言 具白其母 即其母 取布遲葛而 

一宿之間 織縫 衣褌 及襪沓 

亦作弓矢 令服其衣褌等 令取其弓矢。 

遣其孃子之家者 其衣服及弓矢 悉成藤花。

 

弟は兄の言った通り詳しく母に伝えると 即座に母は藤のを取ってきて

一夜の間に 上衣 袴および下沓 を織り縫い

また弓矢を作って その上衣やなどを弟に着せ 弓矢を持たせた。

その少女の家に行かせると その衣服や弓矢はすべて藤の花に変化した。

 

於是其春山之霞壯夫 以其弓矢 繋孃子之厠。

爾伊豆志袁登賣 思異其花 將來之時

立其孃子之後 入其屋 即婚。

故生一子也。

 

そこで春山之霞壮夫は 弓矢を少女の家の厠(かわや)に掛けておいた。
そこで伊豆志袁登売は その花を見て不思議に思い それを持って来るとき

霞壮夫はその少女のあとについて 少女の家に入ると すぐにりを結んだ。
そして〔伊豆志袁登売は〕一人の子を生んだ。

 

爾白其兄曰 吾者 得伊豆志袁登賣。

於是其兄 慷愾弟之婚以 不償其宇禮豆玖之物。

 

そして弟はその兄に 私は伊豆志袁登売を自分のものにした と申した。

兄は弟が少女と結婚してしまったことに腹を立てて 例の賭の品物を渡そうとしなかった。

 

爾愁白其母之時 御祖答曰 

我御世之事 能許曾 神習

又宇都志岐青人草習乎 不償其物

恨其兄子 乃取其 伊豆志河之 河嶋節竹而 作八目之荒籠

取其河石 合鹽而 裹其竹葉 令詛言

如此竹葉青 如此竹葉萎而 青萎

又如此 鹽之盈乾而 盈乾

又如此 石之沈而 沈臥

如此令詛 置於烟上

是以其兄 八年之間 于萎病枯。

 

そこで弟が嘆いてその母に訴えたとき 母親は

この現世のことは よく神の教えを見習うべきです

それなのに兄は この世の人の仕業に習ったのでしょうか その賭の物を償わないのは
と言って兄を恨んで すぐに出石川の中州の節のあるを取って 編み目の荒い籠を作り 

その川の石を取って 塩に混ぜ合わせて 竹の葉に包んで 弟に呪詛させて言った
この竹の葉が青く茂るように この竹の葉がしおれるように 茂ったりしおれたりせよ

またこの 塩の満ちたり干たりするように 生命力が満ちたり干たりせよ

またこの 石が沈むように 病に沈み臥せ
このように呪詛させて 呪いの品をの上に置いた

そのため兄は 八年もの長い間 体は干からび 病気により衰えた。

 

この話の伊豆志袁登売とは、息長姫を例えている。

ヒボコが出石に住んだので、子孫の姫のあだ名となった。

 

兄の秋山夫は、成務王〔旧大君〕と考えられる。

成務王は、息長姫に見捨てられてしまったからだ。

弟の春山夫は、息長姫が次に結婚した葛城襲津彦を例えている。

 

当時は弓は女の象徴で、矢は男を意味した。

伊豆志袁登売が矢を持って入ったことは、受諾を意味した。

伊豆志袁登売の出産は、息長姫が襲津彦の子孫を産んだことを暗示している。

 

この話に関連した「持ち酒〔相手のための酒〕」の記事が『古事記」に書かれている。

 

許能美岐波 和賀美岐那良受

久志能加美 登許余邇伊麻須 伊波多多須 

須久那美迦微能 加牟菩岐 本岐玖琉本斯 登余本岐 本岐母登本斯

麻都理許斯美岐敍 阿佐受袁勢 佐佐

 

この 御酒〔濁酒(どぶろく)〕は 私が醸(かも)したものではありません
この御酒は 酒の支配者である 常世の国に居られる 石神として立っておられる

少名彦神の 〔三諸山の〕神を讃え 讃えて続け 豊の神を讃え 讃え回り

まつった〔少ない〕御神酒です 〔あなたは別に〕召してください さあさあ

 

この文の「私が醸した酒」というのは、襲津彦とともに「醸した酒」であった。

当時の言葉遣いで「わたしが醸した酒」と言えば、自分の腹で育てた御子を意味した。

 

当時の酒は濁酒で、白濁していた。

万葉集でも、「白酒」と「霞」は、夫の種水を例えている。

その「霞」が、春山夫の名にも使われている。

 

三諸山の神は御酒づくりの神であるが、ここでは豊の神も讃えている。

そして、初めの酒は息長姫のつくった酒であったが、後の酒は彼女がつくった酒ではないと詠んでいる。

これは後に息長姫が、豊国・宇佐神宮家の子孫を養子にしたことを暗示している。

 

息長姫は成務王を見限ったが、百済に渡った後の行動を見て、元夫のことを見直したらしい。

あるいは、物部氏の竹葉瀬を養子に迎えたので、同じ物部氏の成務王を大事にしようと心変わりしたのかもしれない。

それで彼女は、奈良市北西部の佐紀の地に成務王の古墳を造った。

成務王は栄山江付近に葬られたので、佐紀の古墳には彼の遺骨の一部か遺品が葬られたものと考えられる。

 

息長姫も、成務王陵の北側に自分の墓を造り、そこに葬られた。

 

息長姫の古墳〔神功皇后陵〕の南に八幡宮があるのは、宇佐神宮〔八幡宮〕家ゆかりの竹葉瀬が、息長姫の養子になった関係による。

 

 

 

 

 

 

佐紀の地はワニ氏の地盤であった。

神功皇后陵の近くには「忍熊(おしくま)」という地名がある。

記紀では、旧大君の皇子・忍熊王が息長姫の帰還を阻み、戦いを挑んで敗走する話がある。

しかし、ワニ氏の領地に忍熊の地名があることから、忍熊王はワニ氏の一員であったものと考えられる。

当時ワニ氏は、ヤマト内で最も有力な豪族の一つであった。

そのため息長姫は、ヤマトに入る際にワニ氏を支配下におさめていたものと考えられる。

 

さぼ