熊野勢が大和に入り、強力になったことを知った吉備軍は、出雲王国攻撃を中止した。

吉備王国の防備を固めることの必要性を感じたらしい。

若武吉備津彦は軍勢をまとめて、吉備の中山に帰った。

 

東出雲王国と吉備王国は講和はしなかったが、休戦状態となった。

東出雲兵は南の鷹入山から東の母塚山の線まで退き、東出雲と伯耆の国境を厳守した。

 

吉備王国のフトニ大王の勢力は、伯耆町の宮原からさらに北に進んだ。

尾高から後世に吉備式土器が出土したのは、吉備兵が残したものらしい。

 

竜神が住むという赤松の池の北方に、コニーデ型の丸山があった。

フトニ大王の勢力は、その山をぐるっと回って、東北の宮内〔大山町〕に留まり住んだ。

 

フトニ大王は、後世に孝霊という諡〔いみな:死後の贈り名〕で呼ばれた。

それで西大山の北方の丸山はフトニ大王にちなんで、後世には孝霊山と呼ばれるようになった。

 

 

 

孝霊山〔大山山頂から〕

 

 

 

その山の北西に、妻木晩田(むきばんだ)という弥生時代の高地性大集落があった。

そこは向家〔富家〕の親族が住んだので「ムキ」という地名が残っている。

「向」の字が「妻木(めき)」に変わったらしい。

出雲族はそこの洞ノ原地区に、西側から来る敵を防ぐための環濠をつくった。

ところが、敵の吉備勢は、反対の東側に住み着いたことになる。

その高台から海岸を見張り防備する役だった出雲兵は、吉備勢の勢力が弱まるまでは、妻木晩田の村落から離れざるを得なかった。

 

 

妻木晩田遺跡〔孝霊山山頂から〕

 

 

 

フトニ大王は晩年を、宮内で過ごされた。

その屋形跡には、後世に高杉神社〔鳥取県西伯郡大山町〕が建てられた。

そこには、大和から后・細姫と妃・福〔ハエイロド〕姫がついて来られた。

ところがフトニ大王は、伯耆地方で若い美人を見つけて、屋形に迎え熱愛されたという。

 

 

 

高杉神社〔鳥取県西伯郡大山町〕

 

 

 

返り見られなくなった細姫は、息子・大吉備津彦が住んでいた日野の楽楽福の西宮に、移り住んだ。

そこの北方200メートルのところにある崩御山は、その地で亡くなられた細姫の御陵であるという。

 

同じく返り見られ無くなった、若武吉備津彦〔彦狭島命〕の母君・福〔ハエイロド〕姫は、息子が住んでいた〔生山の東方の〕上菅〔日野町〕の菅福の宮に移り住んだ。

その跡には菅福神社が建てられた。

 

 

 

菅福神社〔鳥取県日野郡日野町〕

 

 

 

フトニ大王は亡くなられた後、溝口の楽楽福(ささふく)神社に祀られた。

そこには、フトニ大王のものと言われる小さな塚がある。

 

神社名の楽楽福については、諸説がある。

フトニ大王の幼名が、笹福であったというのがその一つである。

また、女神の象徴としての「笹」の発音がつけられた、ともいう。

ササとは砂鉄のことで、ササフクとは砂鉄のたたら吹きのことだ、との説もある。

フトニ大王のご遺体は高塚山の西北・御墓原に埋葬されたという。

 

屋形跡の高杉神社には、フトニ大王と細姫、福姫が祀られた。

ところが、その地には天災が相次いで起こった。

宮内の人は、細姫と福姫の霊の祟りだと感じた。

そこで「うわなり〔後妻〕打ち」の神事を行ったところ、天災がおさまった。

それ以来この神社では「うわなり打ち」の神事が行われている。

「うわなり打ち」は夫を奪われた先妻の女親族が、先妻に同情して後妻をたたき、先妻の鬱憤をはらす民間行事であった。

 

 

 

 

 

 

フトニ〔孝霊〕大王が自ら戦いに出向いたことは、『記紀』には書かれていない。

しかし『古事記』の編集者は、フトニ大王にまつわる伯耆での「うわなり打ち」の話を知っていたらしい。

熊野勢に味方した弟ウカシが大饗(おおみあえ)した時の歌として「うわなり寵愛」の歌が何の脈略もなく唐突に出てくる。

 

コナミ〔前妻〕が 食事を望めば

未熟なソバの実の少ないのと すごいた稗を。

ウワナリ〔後妻〕が 食事を望めば

イチサカキの多い実と すごいた多い稗を。

 

この「うわなり寵愛」の歌をここに入れたのは、物部の第一次東征は、フトニ大王の時期だと示すためらしい。

 

戦いのあと東出雲王家の親族は、出雲王国の直轄地であった伯耆国の妻木晩田の丘に戻り住んだ。

そして、その地に四隅突出方墳を築いた。

 

 

 

四隅突出方墳〔妻木晩田遺跡〕

 

 

 

フトニ大王が隠居したあと、吉備津彦兄弟の軍勢に苦戦を強いられていた富〔向〕家は、銅剣を出雲王国領の豪族に配るのをやめ、全ての出雲形銅剣344本を、神に守って貰うために、神庭斎谷の地下に隠すことになった。

 

神門王家は所有する出雲形銅剣を、吉備王国に差し出すつもりであったが、銅剣をそのまま渡すのは、自尊心が許さなかった。

それで融かしてインゴットにすることになった。

 

両王家と豪族は、東西出雲王国の領地の境である、神庭斎谷に集まった。

そして、以前に銅矛と銅鐸を埋納した斜面の左側に銅剣を埋納することにした。

富〔向〕家所有の銅剣344本には、タガネで✖️印が刻まれた。

✖️印は、幸の神信仰の聖なるシンボルであった。

 

 

 

銅剣の✖️印〔神庭斎谷遺跡〕

 

 

 

また富〔向〕家では、✖️印に王家の象徴の矛を組み合わせた「竜鱗枠銅矛〔剣〕交差紋」を使っていた。

銅剣に付けられた✖️印は、その王家の紋章を意味していた。

銅剣にわざわざ目印をつけたのは、再び掘り返して使いたいとの意思の表れでもあった。

 

 

 

富家「竜鱗枠銅矛〔剣〕交差紋」

 

 

神門家では、所有する全てを融かす予定であったが、14本を神門家の守護を神に頼むために、一緒に埋納することになった。

最終的には、合計358本が斜面に整然と並べられて埋納された。

それは銅剣を大切に思う気持ちの表れであり、決して捨てられた訳ではなかった。

 

しかし埋納された銅剣は、その後掘り返されることはなかった。

富家は領地の中の西谷〔斎谷〕を、銅剣などを埋めた聖地として荒らされない工夫をした。

 

江戸時代以後は「西谷に立ち入ると、罰が当たる」と言いふらして、立ち入り禁止とした。

この話は、現在でも村人たちの語り草になっている。

 

永い年月を経て1984年の農道工事中に、畑の奥と呼ばれていた西谷から、この358本の銅剣が発掘された。

銅剣を覆っていた土には、小屋の柱跡と焼けた跡が見つかった。

銅剣を埋納した後に、番人がいた時期があり、火祭りが行われたこともあったらしい。

 

 

 

銅剣埋納坑と加工段〔出雲神庭斎谷遺跡調査報告書〕

 

 

 

ここから出土した銅剣の数は、それまでに日本全国から出土していた銅剣の数を上回った。

その数の多さから、出雲王国の実在性を説く学者が増えた。

 

翌年には、隣に埋納されていた銅矛と銅鐸が出土した。

銅矛と銅鐸が同じ場所から出土した唯一の例であると、話題となった。

この発掘により、古事記に歴代の王の名前が記された、出雲王国の実在を考える人が増えた。

その地には現在、荒神谷博物館が建っていて、出雲学研究所〔理事長・藤岡大拙〕も、活動している。

 

そこの地名は、現在は、神庭西谷〔斐川町〕になっているが、江戸時代までは「斎谷」の字が使われていた。

出雲王国は幸の神信仰を国教にしていたので「斎谷」とは幸の神を祀る場所を意味した。

その周辺に神庭の地名がついたのも、同じ理由であると考えられる。

 

出土地の近くの木に三宝荒神が祀られていたので、ここは荒神谷遺跡と名付けられた。

三宝荒神は、7世紀末頃の役の行者が祀り始めた神である。

役の行者も出雲族の子孫ではあるが、幸の神とは異なるので、銅剣埋納の動機とは直接結びつかない。

この遺跡の名称は、もともとの幸の神信仰にちなんだ地名を使って、「神庭斎谷遺跡」と呼ぶのがふさわしい。

 

 

 

358本の銅剣〔出雲神庭斎谷遺跡調査報告書〕

 

 

 

そこから見つかった小型銅鐸は6個あった。

その中には、これまで出土した銅鐸の中で最も古い形式のものがあり、それ以外の銅鐸もそれに続く古い形式のものであった。

それは銅鐸が、出雲で初めて使われたことを示している。

富家は、古い型式の銅鐸を、記念品として土中保管したのかもしれない。

 

銅鐸をその地に埋めるのは、幸の神に古い神器を捧げるという意味もあった。

斎谷の東南に大黒山〔島根県斐川町〕があり、そこも幸の神が祀られていた。

幸の神は「境の神」とも呼ばれる。

東西王家の領地の境界が、その大黒山と斎谷を結ぶ線であった。

 

 

 

銅鐸・銅矛出土状況〔出雲神庭斎谷遺跡調査報告書〕

 

 

 

銅鐸の横からは、銅矛も16本出土した。

それらは北九州で多く出土するもので、出雲王家はその銅矛を、親族の宗像家を通じて物部王国から入手したものと考えられる。

物部王国は、先住の出雲族と混血し、勢力を伸ばしていた。

それで、物部王国の初期の頃は、出雲王国との間に明確な敵対関係はなかったものと考えられる。

また出雲王家は、銅矛を王権の象徴〔レガリア〕として使用したものと考えられる。

その名残が、富家の紋章「銅矛〔剣〕交差紋」として残されている。

 

その銅矛が埋納されたのは、吉備王国と和睦するために、その敵の物部王国と絶交するという意味があったのかもしれない。

 

銅剣を埋納した斜面下の谷底には坩堝(るつぼ)炉がつくられ、その中に神門家の銅剣が入れられた。

融解された銅剣が冷えた頃、陶土の炉が壊された。

中から、ただの塊となった青銅が現れた時、見守っていた人々の目からは涙が流れた、と伝わる。

 

『荒神谷遺跡発掘調査概報(3)』には、以下の報告がされている。

 

谷口から少なくとも30mの範囲に焼土や炭化物を含む土層は拡がっており、大掛りな火を用いた行為があったことを示している。

斜面の埋納地の下の谷底の焼土は、全体が煉瓦状に固く焼き締まっており、鮮明な赤色を帯びていた。

かつてこの焼土跡で燃やされた人の効果はテラスの使用目的を補助するためであったように想像できる。

また、焼土跡で人が燃やされた時期は、一連の事柄(テ ラスの加工、柱穴の設置、柱 を含む木造構造物の消失)の後でなければならない。

ちなみに、358本の銅剣はこのテラスの下段中央に埋納されていた。

 

 

谷底部地形〔荒神谷遺跡発掘調査概報(3)〕

 

 

 

原島礼二著『出雲神話から荒神谷へ』には「そこで強力な1000度以上の火が繰り返し焚かれた」と書かれている。

それが正しければ、そこに大型の坩堝が造られ、吹子の風による炭火の高温で、多くの古い青銅器が同時に融かされただろう。

 

その辺りには、残された炭化物があまり見当たらないという。

出雲族は几帳面であった。

敵に覚られないよう、大型の坩堝の炉は、きれいに片付けたものと考えられる。

焼けた地面の上に何も残っていないから何も使っていない、と決めつけることはできない。

 

そして東出雲王国は、吉備国軍勢に対して休戦の申し入れを行った。

東出雲王家が所有する全ての銅剣を融かした青銅のインゴットを、吉備勢に引き渡すと説明した。

吉備勢に対しては、荒神谷に銅剣の一部(358本)を埋納したことは秘密にされた。

 

吉備軍の中には戦さ続きの野宿に疲れ、吉備に帰りたがる兵士が増えていた。

また死傷者が多く出たので、吉備津彦は戦争継続について迷っていた。

それで、和議が結ばれることになった。

青銅のインゴットを受け取った吉備王国は、自国のシンボルとして平型銅剣をさらに造り加えて、支配地に配った。

 

 

 

出雲国・伯耆国国境線〔鷹入山〜母塚山〕

 

 

 

しかし、両国の間の緊張状態は続いており、いつまた吉備勢が攻め込んで来るかもしれなかった。

それで東出雲王国は、南の鷹入山から東の母塚山の線まで退き、東出雲と伯耆の国境を厳重に防備した。

この防衛線が後世までも、出雲国と伯耆国の国境線となった。

 

さぼ