吉備王国が吉備の中山を都にした後、出雲王国に要求を突き付けた。

それは出雲王国が吉備王国の属国になれ、という要求であった。

 

二つ目の要求は、出雲王家が持っている全ての銅鐸と銅剣を渡せ、というものであった。

吉備王国は新たに多くの銅剣をつくるために、素材の青銅を欲しがっていた。

豪族に配るために造った銅剣が出雲王家に余っていることを、吉備王国は知っていた。

銅鐸と銅剣をすべて渡せという要求は、出雲王国の勢力を広げるな、という圧力でもあった。

 

これらの要求には、出雲王家は承服しかねた。

その時まで600年以上続いた出雲王国の誇りが許さなかった。

出雲の二王家はすぐさま協議し、これらの要求には応じないことを決めて、吉備王国に通知した。

 

結果はすぐ現れた。

吉備津彦兄弟の軍勢が中山を出陣し、出雲王国に迫った。

吉備との国境を越えて侵入し、怒涛のように出雲王国に迫った。

大和の人は出雲王国の入り口は米子だと考えていた。

 

フトニ大王は、まず東出雲王国を降伏させるよう、東からの攻撃を命令した。

吉備勢は新庄を通り四十曲峠を越え、伯耆国に侵入した。

伯耆国進撃の作戦は、出雲と因幡以東との分断をはかり、東出雲王国を弱体化させる意図もあった。

 

東出雲王国軍は板井原で防戦したが、吉備の大軍はそこを突破し、根雨(ねう)〔鳥取県日野町〕になだれ込んだ。

そこから江尾(えび)に進んだ吉備勢は、日野川に沿って北上し、古市〔西伯郡伯耆町〕を前線基地とした。

東出雲軍は溝口〔伯耆町〕を防衛線とし、守備することになった。

この度の吉備軍の攻撃は、明らかに東出雲王国に向けられていた。

吉備勢が侵攻した日野川流域には、フトニ大王を祭る楽楽福(ささふく)神社が点在している。

 

またこの吉備勢の侵攻の影響でできた地名が、伯耆国の西部に残っている。

攻めてきた吉備津彦たちは、自分が徐福の子孫であることを誇りとしていた。

そのため、占領した地名に「福」の字をつけさせた。

 

伯耆町には、古市の南方に福島や福居、福岡があり、北方には福岡原がある。

 

溝口の西方の南部町に、福成と福里、福頼がある。

またそこには「倭(やまと)」という地域もある。

そこはフトニ大王と共に、大和から吉備を通ってやってきた兵士の一部が住み着いた所である。

その子孫の中には、大和の苗字を名乗る家がある。

「倭」の南には、鴨部の地名がある。

そこは、大和から移住してきた出雲王家の親族・鴨氏の関係者が住んだ所だ。

 

吉備勢は、古市から溝口にかけて進軍を続けた。

東出雲軍は後退しながらも、高塚山〔南部町鶴田〕と鬼住山〔伯耆町長山〕付近に陣取り、夜にゲリラ戦を行いながら吉備勢の進撃を防いだ。

 

吉備勢は応援のために、中山からフトニ大王みずから伯耆に出向き、溝口の宮原が軍団の本営となった。

そこには後に、楽楽福(ささふく)神社〔伯耆町宮原〕が建てられた。

 

 

楽楽福神社〔鳥取県西伯郡伯耆町宮原〕

 

 

 

劣勢となった出雲兵は、長く隠(こも)っていた高塚山から西に敗走した。

溝口の先住民を追い払って、そこを占領した吉備勢は、出雲兵を鬼と呼んだ。

 

出雲兵が隠った山は、その時から鬼住(きずみ)山と呼ばれた。

その地を流れる日野川にできた橋は、鬼守橋と呼ばれている。

楽楽福神社の近辺では、フトニ大王の鬼退治の話が伝承されている。

 

 

 

鬼住山〔鳥取県西伯郡伯耆町〕

 

 

 

次に出雲兵は、西方の要害山〔西伯郡南部町天万〕に移り、その近辺でも防戦した。

ここでも激戦が繰り広げられた。

 

この溝口・要害山での攻防戦が、約600年にわたる長い出雲王国時代での最大の戦いであった。

この時、東出雲王国軍の兵士の3分の1が戦死した、と伝えられている。

富家の分家の人々も、多く亡くなったという。

 

ナイフナイフナイフ

 

『古事記』では、出雲と吉備王国との争いの史実が、神話として書かれている。

すなわち、フトニ大王・吉備津彦勢による出雲王国の攻撃は、兄・八十神たちが大名持〔大国主〕を焼け死させる話に変えた。

 

要害山の麓に、赤猪岩神社がある。

その社の隣に、丸く大きな岩がある。

それは、『古事記』に登場する赤猪岩だと言われる。

『古事記』には、次のように書かれている。

 

八上姫が大名持〔大国主〕の嫁になると答えたのを憎み、兄たちは大名持を殺そうと図った。

そして、伯耆国の天万〔要害山〕の山麓に行き、大名持に言った。

 

「赤い猪がこの山にいる。われらが追い下すから、お前が捕まえよ」と

 

そして猪に似た石を火で焼いて、転ばし落とした。

それを両手で受け止めた大名持は、焼け石の熱で焼けただれて死んだ。

 

これは、出雲兵が吉備勢に敗れた話を変えて、大国主が焼け死ぬ話にしたものと考えられる。

赤猪岩神社の西南に大国橋がある。

そこを出雲兵が守っていたので、大国主の名前が橋についたと言われる。

 

 

 

赤猪岩神社〔鳥取県西伯郡南部町〕

 

 

 

さらに『古事記』では、その後、大名持が生き返る話も作った。

 

赤猪岩神社と大国橋の中間には、清水がわいていた。

それで、そこの井戸は「於婆御前の井」と名づけられ、於婆御前がその水で貝の粉を練って火傷に塗り、大国主を蘇生させる話が作られ、地元で伝えられた。

 

その後、御祖(みおや)母の命〔イザナミノ命〕は泣きうれい、神産巣日命(かみむすびのみこと)に助けを求めると、𧏛貝比売(きさかひひめ)と蛤貝比売(うむぎひひめ)を遣わされた。

彼女らが母乳を大名持の火傷に塗ったら、生き返り麗しい壮年男子になった。

 

出雲王の先祖・久那斗王の名前は、幸の神の主神の名に用いられた。

そして、向王家のことを神魂(かもす)家と呼ぶこともある。

そうすると、神産巣日命(かみむすびのみこと)というのは、久那斗の大神だと考えられる。

つまりこの話は、要害山付近で苦戦したのが、東出雲王国軍であったことを示している。

 

古事記は、幸の神の久那斗の大神と佐比売命をイザナギノ命とイザナギノ命に変えた、と言われる。

神産巣(かみむす)とは神を産むことで、神産巣日命とは縁結びの神ということになる。

 

この付近には後世まで、出雲族が住んでいた。

彼らは味方の出雲兵が鬼と呼ばれるのを善しとせず、出雲兵の苦戦をいたんだ。

 

ナイフナイフナイフ

 

その後、出雲兵は、伯耆と出雲の国境・母塚山(ははつかさん)の南北の山地を防衛線として抵抗を続けた。

その母塚山は、イザナミノ命が葬られた山だと言われる。

『古事記』には、次のように書かれている。

 

神去られたイザナミノ命は、出雲国と伯耆国との境の比婆の山に葬られた。

その亡くなったイザナミノ命を、黄泉戸(よもつ)大神という。

黄泉国への道を黄泉比良坂(よもつひらさか)という。

いわゆる黄泉比良坂は今、出雲国の伊賦夜坂(いうやさか)だと言う。

 

このような話は、大国主が不慮の死を遂げ、岩屋に葬られたことが、出雲のイメージになっている。

その岩屋の場所がわからず、伊賦夜坂という言葉が出てきたらしい。

 

出雲兵が本営とした母塚山の北方の山にも、要害山の名がついた。

その付近には、このときにできた「防床(ぼうとこ)」という地名も残されている。

 

吉備勢は法勝寺川を渡り、出雲兵が必死で守る母塚山に迫った。

吉備勢は東出雲王国軍よりも優勢であったが、国境の母塚山を越えることはできなかった。

 

さぼ