皇居には二つの銅像があります。

 

天皇に忠誠を尽くした武将、楠木正成。

 

天皇家万世一系を守った忠臣、和気清麻呂。

彼は武官ですから、今なら公務員です。

 

和気清麻呂と言えば、道鏡事件(宇佐八幡宮神託事件・769年) が有名です。 

 

政治力に長けた僧侶道鏡が、女性天皇である称徳天皇に取り入り、虚偽の神託で天皇の座を狙ったが失敗に終わった事件。  

 

称徳天皇の御代・神護景雲3(769)年に、太宰主神中臣習宜阿曽麻呂という者が、太政大臣禅師から法王の位にのぼった弓削道鏡に媚びへつらって、宇佐八幡宮の御神託であると嘘をいい、道鏡をして帝位に即かせるならば天平は泰平であると奏上しました。


天皇は、宇佐八幡宮を深く御崇拝になっており、直ぐに和気清麿呂公に御神教を給わってくるように仰せられました。

清麿呂公は出発に際して
 

「西の海たつ白波の上にして、なにすごすらんかりのこの世を」


の歌を作られましたが、これは、道鏡が天位に着いたら、吾々は臣として何の面目があろうか、という固い決心を示されたものです。

 

だからこそ

 

「我が国は世の中がはじまってこの方、まだ臣下が天子の位に座ったことはない。

君の座には必ず皇族から立てなければならぬ。無道の者は早く一帰せよ。」

 

という宇佐八幡大神の神託を御伝えして、弓削道鏡の非望を挫くことが出来たのです。


ともあれ、清麿呂公は都を立って10日余りの旅程で宇佐八幡宮に着き、斎戒沐浴して神殿にぬかづき、神護景雲3(769)年7月11日御神託を頂いたのです。

 

 

 

 

 

 

そこで八幡大神託宜奏記二通を作り、一通は神宮に納め、一通を陛下へ御報告するものにして、同月の21日に都に帰り着き御所へ上奏、さらに道鏡へも報告しました。このとき清麿呂公は37歳でした。

 

道鏡は大いに怒って、清麿呂公の名を別部穢麿(けがしまろ)と言い、ひざの裏側のくぼんだ部分の筋を切って大隈ノ国へ流布し、清麿呂公の姉である法均は名を別部狭虫(いせまむし)と改めさせられ備後へ流罪にされました。

 

清麿呂公は、途中大神の御守護か膽駒山の麓で道鏡の刺客からのがれ、それから数日して豊前の国に着きました。
清麿呂公が、警備の者の許しを受けて宇佐八幡宮を参拝しようと、輿に乗って宇佐郡田村にさしかかったところ、300頭ほどの猪が出て清麿呂公を守護しました。

そして、宇佐八幡宮に詣でたところ、起つことができなかった足もすぐに治ったといいます。

 

その後、大神を拝した御配所へ出立、翌年の神護景雲4(770)年8月4日天皇が西宮神殿で崩御、光仁天皇が御即位になって年号を宝亀と改め、同年9月6日清麿公は召し返され、翌宝亀2(771)年3月29日には元の位に着き、9月16日に薩摩の国員外の介に任ぜられましたが、間もなく豊前の守に還されました。
 

清麿呂公は、古事にも通じ「民部省例」や「和氏譜」を撰し、当時の大事業である平安遷都の大功を残しました。

又、道鏡は冠位をはがれ、下野国薬師寺別当として赴任させられましたが、宝亀3年4月7日死亡しました。

 

しかし、道鏡が、実際に皇位を狙ったとすれば極刑に該当する重罪であるにもかかわらず、称徳天皇崩御後の下野への流刑は罰としてはあまりにも軽く、浄人ら一族関係者にも死罪が出ていないことから、皇位継承を企てたというのは「後付」ではないかという説があります。

 

その他にも、宇佐八幡宮内部事情説があります。

これには、時代を東大寺の大仏建立まで遡らなければなりません。

 

奈良の大仏は、聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4(752)年に開眼供養会が行われました。

 

大仏を作るために使われた金属は、銅499.0トン、すず8.5トン、金0.4トン、水銀2.5トンです。

聖武天皇は、疫病や社会不安から国を鎮護するための国家的大事業として東大寺を建立していましたが、天皇が沢山の費用を使って仏教寺院を建立すれば、貴族からどんな反対の意見が出るかもしれません。

そんな心配のある時に、宇佐の八幡神から

 

「われ天神地祇(てんしんちぎ)を率(ひき)い、必ず成し奉(たてまつ)る。

銅の湯を水となしわが身を草木に交(まじ)えて障(さわ)ることなくなさん」

 

という協力の託宣が出されました。

 

八幡神は、天の神、地の神を率いて、わが身をなげうって協力し、東大寺の建立を必ず成功させるというのですから、聖武天皇にとって、これほど心強いことはありません。

 

大仏に塗る金が不足すると、金は必ず国内より出るという託宣を出し、やがて陸奥国から金が献上されてきました。

 

また、大仏鋳造直後の天平勝宝元(749)年12月に、八幡大神とお供の宇佐宮の女禰宜(めねぎ)・大神杜女(おおがのもりめ)が大仏を拝するため、紫の輿(こし)に乗って転害門(てがいもん)をくぐりました。

 

 

 

 

 

紫の輿とは、天皇が使用する高貴なものでした。

転害門では、大勢の僧侶、文武百官が出迎えました。

東大寺では八幡神を迎え、聖武太上天皇、考謙天皇、光明皇太后の行幸のもと、僧侶5000人の読経、呉楽、五節舞などの法要が賑々しく営まれました。

 

これによって宇佐八幡宮は、封戸(収入)と神仏習合の先駆けとなる「八幡大菩薩」の称号を授けられ、これを勧進した両名にもそれぞれ朝臣の姓と従四位下と外従五位下の官位が授けられました。

 

ところが、天平勝宝6(754)年には、この時の両名が薬師寺の行信と組んで魔術を行ったとして、位階と姓の剥奪と流刑に処せられました。

これは、宇佐八幡宮の社会的影響力が増すのを危惧した朝廷が、宇佐八幡宮へかけた圧力でした。

 

このような、路線確立に大きな影響力を与えてきた藤原仲麻呂が失脚して、仏教僧でありながら積極的に祈祷を行うなどの、前代の男巫的要素を併せ持った道鏡が、政権の中枢に立ったことによって、宇佐八幡宮側が、失地回復を目指して道鏡側に対して接触を試みたという説です。

 

いのしし

 

しかし、自分が気になるのは、実は、道鏡事件の真相ではありません。

 

『続日本記』が、大和から遠く離れた宇佐八幡宮に神託(皇位継承は万系一世でなければならない)を言わせたことです。

 

奈良の大仏建立の際に、わざわざ遠方の九州から、仏教と何の関わりもない、当時は無名の宇佐八幡宮が、銅を流し込んで大仏を作るという、とてつもない提案をしました。

豊富な経済力と先端技術力を持ち合わせていた集団が、宇佐八幡宮の背後にいたのです。

 

それが秦氏です。

秦氏(ユダヤ系)の宇佐八幡宮が、天皇家を守ったのです。

 

秦氏は3世紀以降に日本にやって来た渡来人氏族で、秦氏の初代が弓月君です。

何と約18000人を率いて渡来したといいます。

秦氏はネストリウス派(古代キリスト教の教派の1つ)で、異端ですが一神教です。 

 

秦氏は、政権に協力はしましたが、政権を獲ろうとしませんでした。

そして、一神教を押し付けなかったのです 。

革命が大好きなユダヤ人なのに、です。

 

いのしし

 

ロシア革命は、ロシア人ではなくユダヤ人活動家による革命でした。

彼らの背後には国を持たないユダヤ国際金融資本家たちがいました。

それだけなら問題ないのですが、彼らはロシア革命の後に何をやったのか・・・

 

ユダヤ人によるロシア人の大虐殺を行ったのです。

 

我々は、世界史の授業で、第二次世界大戦のヒットラーは、ユダヤ人を大虐殺した極悪人、と習いました。

しかし、大虐殺を行ったのは、ヒットラーが最初ではなかったのです。

 

ここが、歴史から隠されている不都合な真実です。

 

映画「否定と肯定」で、ホロコーストはなかったと主張するイギリスの歴史学者から、名誉毀損で訴えられた主人公の大学教授が、裁判を有利に進めたくて、ユダヤ人社会の指導者たちに協力を呼びかけるのですが、彼らは、示談ですませたほうがいい、などと法廷でホロコーストについて争うことに消極的なのです。

なぜ協力してくれないの?

映画を見た後でもスッキリしなかったけど、今ならその理由がわかるような気がします。

 

 

いのしし

 

 

話が脱線しました。

 

日本の神仏習合を認めたユダヤ人。

日本人を変えようと思わなかったのか?

日本人がそれをさせなかったのか?

 

秦氏は、1200年前からすでにグローバリズムではなく、天皇という日本のやりかたが世界の理想ではないかと考えたのです。

日本人も彼らを受け入れたといえます。

 

同じようなことを、今の時代に世界に発言している人がいます。

 

トランプ大統領です。

 

彼はこう言っています。

「私は、グローバリズムには反対する。アメリカはアメリカ・ファーストでやる。日本も日本ファーストでやりなさい。その上でアメリカと友好な関係を作りましょう。」

 

いのしし

 

またまた脱線しましたねウインク

 

日本にある8万社の神社のうち、八幡神社が約25000社、稲荷神社が約32000社です 。

秦氏によって八幡神社・稲荷神社は作られました。

 

では、1200年前の日本で、ユダヤ人の秦氏でさえ日本に同化されてしまうほど、

すでに確立していた日本のお国柄、底力の淵源とはいったい何だったのか?
 

その謎を解く鍵は、縄文時代にあるようです。

 

それはまた後日

 

 

 

 

 

さぼ