1980年代 中学高校時代を振り返って | ペットビジネスに魂を灌ぐ男のブログ

1980年代 中学高校時代を振り返って

中学になってギターを手にする。

女の子にもてるため。

バンドをやりたい・・・友達もやりたいと言っている。

しかしかかる課題が必ずある・・・お金がないから楽器が揃えられない。

僕は人の3倍バイトして楽器を揃えてみんなに渡す。

ようやくベースとドラムが揃った!

しかし、学校から親と共に呼び出しをくらう。

バイト禁止と自分のエレキギターだけ割賦販売で購入。(※母親承諾済み)

これがいけなかったようだ。

しかし母親は、褒めてくれた・・・「何でも自分でやれたのだからいいのさ。」「親以外に迷惑をかけていないのだから」

この時に覚えたこと・・・かかる課題は必ずある!しかしそれを(試練)乗り越えられるものだけに栄光があるのだと。

この時のバイトは、華道家より依頼された草木枝を山から採取するオーダーメイド型。

華道家からするとお弟子さんを教えるのに必要な枝などの入手が困難なものだったらしい。

その当時1日で1万円の収入だった。

人の困っていることに着目し手を差しのべること・・・これが商売なんだと学ぶ。

 

母親は、父紀義の博打見張りや役のためあさ3時から鹿児島中央市場へ。

高校時代が辛かった・・・。

お弁当を持たない僕は、先輩しか入れない食堂へ・・・。

当然絡まれる。

絡まれたくなければその確率を下げようと、母に制服を買ってきてもらう。

またそれがすごい・・・裏地が龍でズボンは、ボンタンしかも3タック。

戦わずして勝つ方法を身につける。

そうでなければ手が持たない。

 

高校の卒業式はお陰さまで出られなかった。

停学中・・・。

最後の最後にしくじったのである。

 

僕の就職決起集会、西鹿児島駅に鹿児島じゅうから友達がたくさん集まった。

私の母親の言った言葉が今でも耳に残ります。

「おまえはなにもんじゃ」

 

「中学校時代」 鹿児島県日置郡東市来中学校
① 僕等より山を5つ(通学時間で2時間)超えて来る同級生に驚く。お陰で小学校1クラス制から2クラス制になる。
② 担任の先生が社会と美術の担当であり1年~3年生まで同じであった。その為か美術に興味が出始める。
③ クラブ活動は、本来剣道部に行きたかったが嫌いな先輩がいたため、剣道部の横にある卓球部に所属する。卓球部というよりもピンポン部が正解である。
④ 中学3年生になると受験勉強はそっちのけでロックバンドを結成する。しかし友達も超貧乏なため自らバイトをして全員のギター・アンプ/ベース・アンプ/ドラムを購入し、それを貸し与えてバンドを成立させた。
⑤ 父親より絵では食っていけないと悟られ、インテリアの道を希望する。
⑥ 鹿児島県に2校しかないインテリア科を捜し、お受験する。その際担任からは受けても無駄だ・・・と言われるがなぜか受かってしまう?
親父の職業:走る魚屋ビジネスが大当たりするが・・・焼酎と博打でまたもや超貧乏生活。
エピソード:人生で生まれてはじめて人を殴ったのが親父である。

 

「高校時代」 鹿児島県川内市川内商工高等学校 インテリア科
① なぜ受かったかのその原因は、田舎中学校のため2クラスであり、マンツーマン教育のようなもの・・・そのため偏差値が高かったことが判明。入学試験時の順位はTOPクラス・・・。卒業時の順位は中の下。
② 高校時代の昼食は、人の困っていることを解決してお弁当を分けてもらっていた。
③ 卓球部に入り、新入生の中では一番ビリを味わう。それが悔しくて部活後に社会人のクラブに入り自宅に帰るのはいつも午後11時。朝は6時起き→最寄駅まで自転車で50分→高校の最寄駅まで1時間→高校まで徒歩20分 総時間2時間10分
④ その甲斐があって、県内団体戦で3位入賞。この高校では初の快挙となる。
⑤ 部活終了と同時に「やんちゃ」となり、好きなロックもロックンロールに変わり、家に帰らない日々が続く。卒業式には出席を認められず停学処分を受ける。
親父の職業:走る魚屋ビジネス・・・焼酎と博打でまだまだ超貧乏生活。それに追い討ちをかけるようにJA(農協)がAコープ(スーパー)を展開。田舎の人もAコープで魚を買う時代に突入し、売上が落ちていく。