「かわいいお子さんですね。2歳くらいかな。」
彼はそういうと、子どもに手を伸ばした。人見知りしない、私の子どもは彼に手を握り返した。「きっとぼくもこんな風にかわいかったんだろうなぁ。」
 
 私は、人と話すことが嫌いではない。特に電車の中では「旅は道連れ、世は情け」なんて言葉を口ずさみながら、人と話すこともしばしばある。その代わり、実はあまり真剣に聞いていない。その時もただただ、にっこりとお愛想笑いをした。

「いや、ぼくは怪しい者じゃないんです。ただほら、頭に傷があってね、ちょっと変な所もあるんですよ。2年前バイクで事故を起こしちゃって・・・。」そう言って、彼は額の傷を見せた。
「それは大変でしたね。」この時、私はピンと来た。彼からあの、スイッチの音が聞こえるはずだと思った。『この話は長くなる』そう感じながらも、私は彼の話の続きとスイッチの音が聞こえて来るのを待った。

「骨が肺に刺さってしまいましてね、一時期は危なかったと後で母が言っていました。母はいつも泣くんです。ぼくが出かけようとすると。お前が一人で行くのは危険だと。でも、そんな心配はないんですよ。退院してからぼくはこのリュック一つを背負って毎日こうして電車に乗るんです。」
「もう痛い所とかはないんですか?」
私の子どもが彼の手を引っ張りすぎていることを気にして、私は姿勢を正しながらそう聞いた。私の背中の後ろの席に座っていた中年の女性が聞き耳を立てている。彼の話を聞いているに違いない。
「痛い所は、あちこちありますよ。ココです。ココ。」っそう言って、彼は自分の心臓の辺りを指差した。そうだろうなぁ。肺が破れてしまったんだもの。きっと呼吸とかが苦しいのだ。私は勝手に理解した。そして同時に彼からはスイッチの音が聞こえないことに気づいた。この人は切り替えていない。自分を切り替えないそのままの人なんだ。

「母はいつも泣くんです。お前がいい子になって本当に良かったと。母や友人の話によるとぼくはかなり悪い子だったらしいです。でもぼくにはそういう覚えがないんです。ぼくはとても荒れていて、友人を殴ったこともあったそうです。今のぼくは、とてもじゃないけどそんな気は起きない。母は優しい。葉っぱはきれい。雲は大きい。友人は大らかだ。だからぼくは事故に遭ってよかったと思っています。いつもうれしくいられるから。」

「けれど、ぼくのココが痛いのは、父のせいです。父はぼくを笑います。父はぼくを怒ります。父はいつもいつもぼくを殴るんです。・・・・チクショウ、ナンデダヨ、ナンデナグルンダ、トウサン」
 彼の声のトーンが変わって来た。目つきも変わって来た。スイッチの音なんか聞こえなかったのに。

彼が痛がっていたのは、心臓でも肺でもなかった。彼は『心』を指していたんだ。


その時、電車がスゥーッとホームに入った。私の後ろに座っていた女性が席を立った。ああ、下りるんだな、と思ってその姿を目で追って行くと、彼女は隣の車両のドアからまた同じ電車に乗り込んだように見えた。

 そして電車のドアがストンとしまった。いつの間にか、この車両には私と彼だけしか乗っていない。私と私に抱えられた子どもと、そして額に傷のある彼とが、ドアの前に突っ立ている。





続く