結婚して子どもを産んでからは、この音を何回も聞くはめになった。それはダンナから聞こえる音だ。子どもが生まれる前は彼に音なんかしなかった。強いて言うならば、私を見つめるまぶたというシャッターがおりる時、かすかな音がしただけだ。

子どもが泣く。するとダンナは目を見開く。彼の顔はみるみる変化する。初めは微笑んでいてもそれが仁王のように、そしてあるいは泣いているかのように歪んでいく。その時に聞こえるのだ。けれどダンナの場合、今までの他の人たちとは違い、「カチッ」ではなく「カチッカチッ」という音になる。そう、ダブルクリック。スイッチを入れたとたん、スイッチが切られている。切り替えるのではない、開くのだ。ダンナはいつもそれを繰り返していた。

一度、子どもが泣き叫んでどうしようもない時があった。ダンナは、カチッとスイッチを入れたとたん、子どもに向かって「うるさい!」と怒鳴った。私は驚いたが、自分自身が言いたかった言葉がダンナの口から出て来たと思った。「そうだ、そうだ」とうなずけたのだ。けれど、ダンナはそこで自分のスイッチを切った。そうして子どもを私の手から離し、子どもを抱き上げた。子どもはしばらく泣き続けていた。
 
「ドライブに行こう。」夜中の二時ではあったが、ダンナは出かける支度を始めた。私もコートを羽織り、子どもを毛布でぐるぐる巻きにして、車に乗り込んだ。夜の街は暗く、静かだった。カーラジオから、懐かしのメロディが流れて来た。二人がよく聞いた、サザンオールスターズの曲だった。ぐずっていた子どももそのうち、すやすやと眠り込んでしまった。
 
「うるさい。」
その言葉の後になぜこういう行動ができるのだろう。
カチッとスイッチを入れ、「うるさい。」その言葉が口から発せられたとき、それを発した口は熱くなる。そして彼の頭の中やそれが聞こえた耳の辺りが熱くなる。確かにかすかに赤くなっていたのでそのことがわかる。なのに入れたスイッチを自分で切った時、何もかもを忘れたかのようにすぅーっと元に戻った。
 それが私や子どもに、どんな傷を残したとしても。


 

 ある日、子どもを連れて、電車に乗った。それは晴れた平日だった。

私はルネ・マグリットの「再訪」を観に行くために出かけたのだった。電車の中は空いていた。けれど、座ると子どもがぐずるので、私は窓の外の景色を見るために電車のドアの前に立っていた。私に抱っこヒモでくくりつけられた子どもも、ドアの外で流れて行く街の景色を黙って見つめていた。そこに一人の青年が近づいて来た。座っていた席を立ち、わざわざ私の隣に立ったのだ。


続く