江戸時代末期、痘瘡(天然痘)の大流行は多くの命を奪い、
生き残っても 醜いあばたが残り 辛い人生を送ると考えられていた。
幕府は高名な漢方医の意見に従い「牛の糞を黒焼きにし、それを粉末にし服用すべし」と各藩に配布した。市中は 天然痘で亡く
なった人を乗せた大八車が走り回り 神社や寺の守り札に人々は
すがった。
福井藩の若き町医者 笠原良策は 人命を救えない苛立ちと諦めの中、救う方法を模索し、京都の日野鼎哉に蘭方を学び研究を続けた。
良策は 中国の書物で ジェンナーの牛痘法による予防法を知る。
天然痘に感染した牛の膿を 針で人の腕に植え、数日後にできた
瘡蓋(かさぶた)を次の人の腕に植えるという接種方法。長崎には伝わっていたが、オランダや中国経由では瘡蓋(かさぶた)の状態が悪く 実際には使えなかった。また、新しい医術への猜疑心、
恐怖心、幕府の理解が得られず、種痘は広まらなかった。
良策は 奇跡的に 中国経由の状態の良い瘡蓋を 京都で手に入れ、
京都と 緒方洪庵の大阪で 接種に成功する。この瘡蓋を人から人への接種をひたすら続け、真冬の豪雪の中、京都から福井藩へと運んだ。
しかし、福井では 牛の天然痘膿への恐怖心、藩医の妨害等で 広まらない。良策は 私財を投げ打ち 生活に窮しながらも ひたすら接種を継続する。この状況を理解した福井藩主松平春嶽は 種痘接種の奨励と設置場所を決める。しかし時代幕末、維新の大きな歴史の流れの中でも 良策はひたすら 天然痘から人を救うことに全てをささげる。
吉村昭は 両親も本人もがん患者であった。生命を救う医療への
厳しさと優しさを併せ持った視点が 熱く感じられる。
天然痘に関しての「破船」「北天の星」「花渡る海」もお薦めです。
緊急事態宣言が解除されたら ぜひ吉村昭文学館にも行きたい
ものです。
(ピアサポーター た)
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