peedyのブログ -27ページ目

上島だけがダチョウじゃない

本日、時計を見あげながらそろそろ仕事を切り上げようとしてたら、
そんなときにかぎってつかまるお電話。

「●●のくせにこんなめんどくさい車かうなよーーーーーー!」
あんぎゃーとひとり叫んでいたら、ほかの島のふたりがプップ。

なんすか。

「きみのそういうとこ、ダチョウ倶楽部にそっくりだよね。」
「笑い声がドリフの機械声に似てる。あの、アッハハハていう。」
「いつもどっかんどっかん笑ってるけど、なにがそんなに面白いの?」

ダチョウかよーーーっ!(みむら)

ものすごいショックショック大ショック!
ダチョウか・・・で、ダチョウの、誰なの?

帰り道に、一日バー計画の件でメールしていた某チャンよりお返事メール、
「昨日Yちゃんとお笑いをみにいったらリーとそっくりなのがいた!
大笑いしたよ~」
そのタイミングのよさに、大泣きしました。


で、ダチョウの誰だったんだろう。

返すだけのビテオ

きみを侮っていた。
しかしアナライズ・ミーとは意味が違うんだろうことは
わたしにもわかるよ。

部屋があたたかい。
こんなに春を待ちわびているのは、何年ぶりのことだろう。

あと何回泣いたら、手にはいるんだろう

ライブドアの広報・乙部綾子女史のブログが例の一件から
止まったままだ。
当たり前なのだけれど。

更新されたブログを読めないことが悲しいんじゃなくて、ある日突然、あって当然だったものが自分の前から消えてしまった事実が、悲しくさせるんだと思う。
だからみんな死や別れを怖がるのかな。

ひとつのドアが閉まったら、新しいドアが現れるらしい。
閉まったドアを無理矢理こじ開けようとしたって、身をすり減らすだけで目の前の新しいドアの存在さえ気づけないかもしれない。

「いてえよ、おい」という思いは、おとなになってもなかなか消えてくれないもので、ついつい気が弱くなると顔をあらわしたりするものだけれど、・・・・・・・けれど・・・・・・・・・(つづく)


昨日のmixi日記より。
そしてつなぎます。

自分が置かれている環境のせいにするのは簡単なんだよね。
今日、わたしの夢はまたとおくに飛んでいってしまった気分だった。
欲しくてしょうがないのに、手が届かないかんじ。

「自分が好きなことを決めることだ。」
最後の言葉に、と冠をつけて、こう言われたことがすごく心を揺さぶった。
わたしはこれからずっとずっと、今日みたいな日々を繰り返していくんだと思う。
でも、そういう日々が続いていくことが、今はほんとうにうれしい。
そこには、わたしの本当に好きなことが。やりたいことが。いてくれる。
自分が諦めない限り、消えてなくならない。
それならば、もうひとつ痛い思いもしてみようか、とおもう。

生きているなかで関われる人間の数は、世界総人口から考えても
これっぽっちにしかならない。
たいがいのひとの人生が、自分とは何のつながりをももたない。
でも、同じ気持ちを共有することがある。
そしてそれがわかるときがある。
おなじ年代くらいの、サラリーマン。
道路に飛び出して大雨に濡れて歩く背中をみながら、
わたしにはこの人の気持ちがすごくわかる
とおもった。
だからといって話しかけたりしないかぎり、わたしたちの関係は生まれない。
それが不思議なんだ。


泣くのは日課で、とくに悲しかったり寂しかったり辛いときに泣いてるばかりでもない。
ぐうと胸にきて泣いているだけ。
感動してるけど、泣いたことで傷に残るまでもない。
だからたいした意味はないの。
だけど泣いている自分を確認するのが、大切なことなんだよね。