表題の記事が8月11日(日)付日本経済新聞朝刊に3面(写真が多い)にわたって掲載された。私は1993年ごろ、前坂俊之編「海軍大佐の反戦 水野広徳」を読んでいた。しかし、日経の記事では、紙面の都合からか物足りなさを感じた。

 様々な面で多様性の重要性が叫ばれる昨今、かえって多様性を阻害するような風潮に突き進んでいるような気がしてならない。 そんな風潮の中でこの海軍軍人の生きざまを今一度考える必要があると思う。

 この戦前の言論統制の厳しいなかで、反戦平和主義者として軍国主義とファシズムに公然と楯突いた異端児の評価は、もっと高くてもいいのではないかと思う。この様な海軍軍人がいたということに驚くのである。 是非関心のある方は、彼の著作集を読まれることをお勧めします。

 彼は*1921年(大正10年)47歳 現役引退、予備役へ編入。

      「軍服に永久の別れを告ぐ」

    *1945年(昭和20年)10月18日病死。終戦直後である。

      日経の記事によると「一人息子の光徳は終戦の日の三日

      前、8月12日に召集地のフィリピンで戦病死。水野は知ら

      なかった。」 

 

以下に引用する内容は、前坂俊之編「海軍大佐の反戦 水野広徳」からのものです。 

1)1923年(大正12年)、米国を仮想敵国とする新国防方針が作成に対する批判

 「米国を仮想敵国とする新国防方針が二三年に作成されたが、これに対して水野は「新国防方針の解剖」(『中央公論』大正十二年六月号)書

 き、日米戦争を徹底して分析、「日米戦わば日本は必ず負ける」と主張した。 「次の日米戦争は空軍が主体となり、空襲によって、東京全市

 は一夜にして灰じんに帰す。戦争は長期戦と化し、国力、経済力の総力戦となるため、日本は国家破産し、敗北する以外にない。当局者が発

 狂せざる限り、英米両国を同時に仮想敵として国防方針を策立することはあるまい」と指摘した。 太平洋戦争が始まる十八年前にすでに敗北を見通していたのである。

2)1925年(大正14年)4月 中央公論

 「われ等は米国人の米国魂を買い被ることは愚かなるとともにこれを侮ることは大なる誤りである。米国の兵力を研究するに当たり、その人的要素は彼我同等のものとして、考慮するにあらざれば、英国人に対したるドイツ人の誤算を繰り返すであろうことを恐れる」。

3)太平洋戦争末期にアメリカ軍が空中から大量にまいた宣伝ビラの一枚

  上記2)の水野が書いた論文の一説が引用されている。