このシリーズはネタ切れで大分長い間休んでいましたが、新
たな発見がありましたので、再開いたします。

 關東軍劍術大會記念繪葉書の入っている袋には昭和12年6月と
印刷されています。
 AIによると「昭和12年6月に満洲(現在の中国東北部)に駐
屯していた大日本帝国陸軍の
關東軍が開催した剣術大会を記念
して発行された絵はがき(絵葉書)です。

 昭和12年7月には日中戦争(盧溝橋事件)勃発していますから、
その直前の緊迫した状況下で関東軍における武道奨励や軍の士
気高揚の大会だったのでしょう。


 臨場(りんじょう)軍司令官及大会委員長同副長

各試合場巡祝の軍司令官

試合会場全景

両手軍刀術(剣道試合)
異種白兵(剣道と銃剣の試合)

 

絵葉書の裏の切手を貼る部分に「軍事郵便」と印刷。
軍事郵便の差出人は、戦地にいる軍人や軍属などに陰られ、戦地から内地への郵便は無料。内地から戦地への郵便は原則有料だったようです。
 

 一橋大学小平キャンパス構内の多くの樹木が最近伐採されました。その切株と切られた太い幹の山をみると痛々しさを覚えます。

 だいぶ前、入学早々の1年生と、ちょうど今頃の時期、虫探した場所の樹木も皆無となりました。

 理由は定かではありませんが、枯れ枝の落下の危険、大量の落ち葉処理など近隣からの問題提起があったのかもしれませんが・・・・。

玉川上水側から、伐採された幹の山。背景は人工芝の敷き詰められたグランド。

延々と続く切株と伐採された幹の山・右側のレンガ色の建物は如水スポーツプラザ

正門の右側の風景、ここも切られた幹の山。

 2026年4月8日付日経朝刊「昭和史 スケッチブック-「消えた徴兵忌避者たち」が目に留まる。ある徴兵忌避者の逃避行に触れている。その中で「奉公袋」について触れている。逃避行中に身元調べの時は「奉公袋と在郷軍人手帳を憲兵の鼻先に突き付けて」窮地を脱したと。 他の忌避者の例も紹介されている。

 ヨーロッパ、中東での戦争に向き合っている若者たちに思いをはせる。

 

 旧家の土蔵からだいぶ前にいただいた小道具類の中に汚れた皺くちゃの布があった。これまで気に掛けずに放置していた。

 最近、改めて広げてみると「奉公袋」が目に入りました。

今の時代、死語の感のある「奉公」に興味を覚えネットで調べてみました。 

 

奉公袋(ほうこうぶくろ)とは:

 『太平洋戦争時、軍隊へ入営・召集される兵士が、必要な書類や貴重品、身の回りの品を入れて持参するために渡された木綿製の袋です。

 中身は軍隊手帳、召集令状、印鑑、勲章、現金、預金通帳、日用品(下着、手ぬぐい、洗面用具、針糸)などが一般的で、海軍では「応召袋」と呼ばれました。』

 

 

2月7日、降り始め

2月7日 21時50分

2月8日 4時50分

2月8日 4時53分 小平国際キャンパス

2月8日 5時40分 重みに耐えている孟宗竹

2月8日 6時30分 庭の風景

2月8日 17時40分雪雲の向こうにぼんやりと太陽が

2月8日 17時50分 イルミネーション

2月9日 6時 月が輝いている

 

 

 

 父の遺したものの中に家庭学校農場の表紙を持った絵葉書集がありました。そこで調べたところ杉並区の東京家庭学校が本校とわかりました。

 そこで問い合わせたところ、1919年(大正8年)、家庭学校北海道農場と社名淵分校開設5周年を記念して発行されたものとわかりました。保存状態の良いものこれまでに2冊ほどしか確認されてないとのことでした。

 なぜ父がこの絵葉書集を持っていたのかは、その手掛かりは、不明のままであり、私が所持していても何の益もなく、寄贈しようと考え、本日届けました。

ポストカード36枚が綴じこまれています

絵葉書集の中から「設立の由来」と黒丸が「家庭学校農場」の場所です

家庭学校農場とは全く関係がありません。帰路の途中で番号名の付された神社を見かけました。
その名は「第六天神社」。
 
走った記録
 
 

私たち夫婦は、揃って午年です。家内のコレクションを紹介いたします。

ステンドガラスの飾り物

馬の取っ手のあるグラス

馬そりの置物

かわいい馬のぬいぐるみ、高さは6cmほど

今年はうまくいく?

 

以下は、北京の友人からの贈り物

メダル、裏には「福」の文字が

ビンの内側に表裏合わせて8頭の馬が描かれています。左に「岸國男様 健康長寿」の文字が

 

 前日の天気予報で暖かな日になるというので、家内と一緒に深大寺へ初詣に行ってきました。仕事始の日ということもあって背広姿のビジネスマンが沢山、お参りに見えていました。

 夫婦で外出することは、滅多にないことで・・・この一年、さいさき明るいことを期待しましょう。もちろんお祈りし、お守りもいただいてきました。

深沙大王堂(じんじゃだいおうどう)神社大王堂。ここに祭られている神様は、孫悟空に登場する沙悟浄と関係があります。

深沙大王堂の後方にある飯桂(イイギリ)の房状の実

本堂

本堂左正面に飾られている豪華な熊手。

延命観音。大きな岩に漢音様が彫られていますが、暗いこともあって判然としませんが、横に絵図が掲げてあります。

延命観音の絵図と謂われが書かれてます。

芭蕉の句碑。

特に深大寺に訪れたとかいう縁はないそうです。

「象潟や 阿免尓西施が 合歓能花」(「きさかたや あめにせいしが ねぶのはな」)

この句は、松尾芭蕉が出羽国・象潟(現在の秋田県)を訪れた際に詠んだものだそうです。

意味:「象潟の風景は、まるで中国の美女・西施(せいし)が雨に濡れてたたずむ姿のようだ。そこに合歓(ねむ)の花が咲いている。」

水源湧水池。渇水で流れを見ることはできませんでした。中央右に小さな不動明王(?)の石像が見えます。

 

 サイクリング納めを兼ねて家内の実家の墓参りへ。気温が低くきつい北風に悩まされながらの走りでした。

約59kmを走破、今年の最長距離記録だと思いますが、年々この記録は、年齢に反比例して短くなっています。

 

浅川左岸のサイクリングロード、この先で行き止まり。一旦河川敷に降りて中央線鉄橋をくぐってその先にある大和田橋につながるサイクリングロードに戻ります。

お墓です。樹木に覆われて祠(おたまや)のようです。

高尾山・琵琶滝コース(6号路)にあります「洗心」の碑と冬支度をした石仏たちです。

 

 

 

 12月4日にサイクリングで小野路を訪れたことはすでにこのブログ上で紹介していますが、小野路宿里山交流館でお会いたご老人が私に話しかけてきました。生まれて以来93年間小野路宿で生活してきたととのこと。

聞くともなく、いろいろなこの小野路宿の歴史を語ってくれました。

その後、ご老人の話されたことが気になっていて、いろいろな本(けやき出版「多摩の街道」、有峰書店「滅びゆく武蔵野」など、あるいはネットで調べました。その結果を以下に箇条書にしてみました。

 

1.鎌倉時代の道筋


 小野路宿通りは、当時「鎌倉街道上ノ道」と呼ばれる道の一部で、鎌倉幕府と武蔵国府中(現在の府中市)を結ぶ重要な交通路でした。武士や役人の往来が多く、物流の要たったこと。

 

2.徳川家康の霊柩が通った道
 江戸時代、家康の棺を駿府(静岡)から日光東照宮へ運ぶ際に使われた「日光御成道」の支道のひとつで、この地域を通っており、小野路もその経路に含まれていたと伝えられていること。

 

3.近藤勇と新選組ゆかりの地
 幕末には、近藤勇や土方歳三らが小野路にある「小島家」を訪れ、剣術の稽古をしたといわれていること。

 

4.「関屋の切り通し」と「布田道」について)

 この切通し道の存在をご老人の話しで初めて知りました。ぜひ機会を作って歩きたいと思っています。

 関屋の切り通しは、布田(現・調布市)と小野路を結ぶ古道で、鎌倉街道の支道の一つ。武蔵野台地の谷戸(やと)の間を切り開かれた「切り通し道)」で江戸や多摩地域の人々が往来し、明治の頃までは生活道路として利用されていたそうです。

 ハイキングコースとして整備されており、自然と歴史を同時に感じられる道とのこと。調布の甲州街道沿いに布田天神社があります。古くから「布田道」の起点のひとつで、小野路宿へ続くルートの要だったそうです。

 サイクリングでだいぶ前に布田天神社を訪ねたことがあり、小野路宿への起点とは、今日まで知りませんでした。