大人の敷いたレール 後編 | がらくた通り3丁目

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人にとってはまるで無価値。それも一個人の形成には不可欠。自我の源泉をたどる旅。おつきあい頂けたら幸いです。

1975年の若者文化の勝利宣言は
言い換えれば新しい価値観の一般化なのだ。
一般化は心の枷を排除する。
そして一般化はマニュアルだ。
これに沿ってフォークも
どんどん産業として機能していく。

皮肉にもこの勝利宣言が
フォークの面白みや反骨精神を排除した。

なんだ
結局は古い体制を排除しただけで
今度は自分らが作りあげたマニュアルに沿って
続けていくだけなんだ。

まぁ普通そうだし誰だってそうだ。
苦労して築いたもの普通は壊さないし
信念あればこそだ。

だがこれがつまらない。退屈だ。

アーティストはなぜ表現するのだろう?
それは表現したいものがあるからだ。
表現理由の一番は怒りや不満といったところだろう。
若者の勝利宣言は
怒れる若者からこれらを奪い去ったのだ。

セックス・ピストルズに代表される
パンクが鮮烈だったのは
タブーとされているものに着眼し
怒りや不満を
レコードの溝に刻み込んだからなんだと思う。

金なんだろうな。
金がすべてではないのはわかっている。
でも大金を手にすることにより
金がないという不満は消滅する。

表現したいことのひとつは確実になくなるわけだ。

若者文化の勝利宣言の結末は
こんなところなんだろうな。

汚いカッコして貧乏で
フォークはこうでなければいけない
予定調和としてのフォークはつまらなくなった。

こうでなければいけないというしばりは
自由であることを
演じなければいけない不自由さだ。

パンクとフォークって似ていると思う。
音楽の形態は真逆だがその精神性と結末がそっくりだ。
予定調和としての怒りほどウサンくさいものはない。

金持ちが吐く不満
あんたたち何に怒っているの?
政治?環境破壊?動物虐待?
立派なことだけど
半径3m以内のリアルがここにはない。

でもしょうがないのだ。
金があるんだもん。
こんな不満しか思い当たらない。
不満を一生懸命かき集めているのだ。
大変だろうな。

どんなアーティストも
ファースト・アルバムが一番優れているって
誰かが言っていたがわかる気がする。
これを表現したい!
純粋培養された精神がここには圧縮されている。

破壊と構築
結局これこそが大切なのだ。

1977年も押し迫ったころ
1976年末に登場した清水健太郎さんが
フォークにトドメを刺した。

若者文化の勝利も
勝利する瞬間までが面白かったのだ。
考えてみたら恋愛にしても買い物にしても
成就するまでが一番楽しいんだろうな。

僕は今日もレールの上を走る通勤電車に揺られている。
列車の窓の外を飛んでいく景色は時代の流れなのか。
過ぎた時代に思いを馳せてみる。

大人の敷いたレールに別れを告げ
若者たちがレールを敷いた1975年。
その若者たちも老人なのだ。

1970年代初頭こんなアルバムがあった。
「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」

古い船には新しい水夫が乗り込んで行くだろう
古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう
なぜなら古い船も新しい船のように
新しい海へでる
古い水夫は知っているのさ
新しい海の怖さを

吉田拓郎さんの
「イメージの詩」って曲の一節だ。

1975年。
またあんな時代がこないかな?
新しい水夫の出現を望みたい。

吉田拓郎の「人間なんて」です。
1975年のつま恋コンサートのラストを飾る曲。
長いので雰囲気だけでも感じてもらえたらって思います。



またはhttps://youtu.be/BSmnSsF1dAE?list=PLsBDASfSv6n7DcbxZtfRMomXJ1hxWn1Ni