【過去シリーズ②】小学校時代 | 魚鱗癬(ぎょりんせん)と闘う日々

魚鱗癬(ぎょりんせん)と闘う日々

魚鱗癬という皮膚の病気(国の指定難病に認定されています)を知ってもらいたくて登録しました。上手く書けませんが、何か一つでも伝わり、そして多くの人に病気を知ってもらいたい。そう願っています。内容が暗くならないように心がけます。よろしくお願いします。

連投失礼します。

 

先ほどは幼稚園までの事を書きました。

題名失敗したなぁ~~~卒園まで。とするべきだったかな??

まぁ書いてしまったものは仕方ないので、そのまま生かしておきます。

 

さて続きですが、小学校編です。6年もありますので、一つの記事とします。

一般の小学校に入学できる第一条件として、一人でトイレに行ける。ということだったそうです。

教育委員会の人や校長先生の前でドア開けたまま、お手洗いしたのだそう。

今でも、そんなことさせられるのでしょうか?

障がい者手帳を持っていなかったので、流れ的には普通学級で授業を受けるということになります。

元気に通えたら、それでよし。と言われて、いざ入学。

 

1年生

担任はベテランの先生で、授業で嫌な思いとかすることが、ほとんどなく平穏に一年が過ぎて行きました。

お友達とのもめごとなどありましたが、大ごとにはならなかったです。

 

2年生

担任は若い男の先生でした。

じっと座っているのが苦手で、よく教室内をウロウロして皆に迷惑かけていた。

学校外で大きな問題を起こして大変なことになったのは、この年の事だったと思う。

音楽や体育などの芸術授業は好きでした。

 

3年生

音楽で笛を購入するのに、問題が発生しました。

手が奇形なので、器具を付けないと吹けない。ということで実費で器具を付けてもらいに行った。

障がい者の認定受けていたら補助出たらしいけど。

相変わらず机の授業は退屈でしたが、音楽や体育は好きだった。体育はできないこと多かったけど、それなりにやった。

 

4年生

週に一度のクラブ活動が楽しかった。

一年で1回部活変えるしくみだったので、何やったか覚えていませんが2つ入りました。

前期は運動で後期は文化部にしていたと思う

机の授業の大嫌いさがハンパじゃなかった。宿題忘れが目立ち始めたのはこのころ・・・・・・・

怒哀しか感じられなかった1年でした。(色々ありすぎて濃い1年となりました)

 

5年生

初めて泊りがけの旅行行事。

色々迷惑かけたけど、一度でいいからリーダーみたいなことやってみたくて手を挙げてしまった。

できひんのに、出しゃばってしまった。結果イジメられることに・・・・・・(本当の理由は何だったのかな?お風呂?)

イジメはクラスメイトのみならず大の大人である担任までもが・・・・・・

私だけやなくて、給食食べるのが遅くてピーピー泣きながら食べさされたり、

今思えば障がいがあったと思われる子に対してのイジメもありました。

担任がクラスを作るというが、まさにその通りだと思う。

宿題忘れはバツとして消えない赤鉛筆で連絡帳に〇〇するのを忘れました。と書かされていました。

今思うと、そういうことさせられたのは、この年だけだった気がする。

私がイジメられていたのは自分自身の行いが悪かったからだと思うけど、他の子は違うと思う。

今だったらハラスメントで訴えられるような接し振りでしたよ。

私は覚えていなくても母親が色々覚えているみたいで、学校の話したら絶対に出てくるのが、5年の時の話です。

同窓会行けたとしてもこの時の担任の先生とは会いたく無いなぁ・・・・・(ブログ見てたらごめんなさい)

 

6年生

小学校最後の年。

イジメはあったけど、イジメというより幼稚な悪戯と捉える方が正しいようなことをしてくる子がいた。

その子のせいで、授業しないでお説教の時間になったことがあった。

担任の先生が、ふざけてやっている子を見て、みんなは周りで笑っていたのか。とか言っていたのを覚えている。

悪戯のターゲットは私だったんです。この年も泊りがけの行事がありました。

なぜか、すごく楽しかったのを覚えています。いじめられたりとかしませんでした。

お風呂別々やったんかな?どうなんやろ?

クラブ活動は前期にバドミントンしました。後期は卓球でした。

学校で一番楽しく過ごせたのは、この年だったかも。プール掃除とか楽しかったなぁ~~~

お勉強苦手だけど宿題忘れて、どうこうした記憶もございません。

 

家庭編

親の教育が厳しくなり、何度も逃げ出しました。

そして親に振り向いて欲しくて、悪さなどして色々迷惑かけたりしました。

あまり言いたくないですが、親への恐怖心というか、そういうのが初めて芽生えたのが小学校2年生の時です。

厳しく接してくれたおかげで今があると思っていますが、当時は耐えられませんでした。

4年生ごろから日曜日に父親が仕事休むようになって、色々連れて行ってもらったりしました。

遊びに行ったことは楽しかったし、ありのままの子供の姿でいられました。親は心無い視線に耐えていたのでしょうけど。

幼稚園の記事に家庭的なこと書き忘れましたが、当時は今でいう半日休みだったので、

夕方誰もない屋外遊園地に父親と2人で遊びに行っていました。なぜかその記憶は鮮明にあります。

 

習い事

2年生の夏からピアノを習う。

集団レッスンではなく個人レッスンだったので私にピッタリではまりました。

早く曲が弾きたくて基礎練習を猛スピードでクリアしていった。

ピアノのレッスン中だけは、ピアノ以外で、すごく怒られていた日だって、忘れて没頭できました。

家でのレッスンだったので横で母親が見ているんですよ。怒り収まらない、鬼の形相でね・・・・・怖かったけどね(笑)

自業自得ですから当たり前・・・・・・結局二十歳頃まで習いましたよ。

私の手を知っている人は、この手でピアノ?って疑うと思います。和音が引けないのでアレンジして曲弾いていました。

もう、ちゃんとしたピアノがないので演奏を披露する機会はありません。

 

絵描き教室にも通っていた。通い始めは覚えていませんが、集団レッスンで楽しく絵をかいていた。

よくお喋りに夢中で、手がとまってしまい、先生に手を動かしましょうね。と言われていた。

そして最後まで残って書いていました。親に似て人としゃべるの大好きだったようです(笑)

 

幼稚園から水泳教室も行っていました。

年齢に応じたクラスではなく、実年齢より下のクラスに在籍していました。

進級できずに6年生の途中でやめました。(学校の時間と教室の時間が被っていたから)

不真面目だったので帰りの車ではお説教でした。

調子に乗ってふざけるな。と毎回言われても、直らなかった。

なんでだったんだろうか?

 

もう一つ幼稚園から行っていたのがリトミック教室

要は音楽教室ですね。グループで歌ったり音の勉強したり。

ふざけてやっていたかどうかは分かりませんが、リトミックの帰りは、あまり怒られた記憶がありません。

実年齢より2歳下のクラスに在籍していました。修了式するまで通っていました。1年ぐらいだったと思います。

 

やりたいって思った習い事は一通りさせてもらえたのが一番嬉しかったです。

学校生活や家庭生活が楽しめなくても、習い事は、それなりに楽しかったです。

また長期休みの時は従姉妹とは、遠くにいた祖父の家に行って過ごしていました。(当時は船でしか行けない場所)

問題行動(主にケガ)沢山あって、迷惑や心配かけたけど、楽しく過ごせました。

 

ちなみにお恥ずかしい話ですが、お勉強が分かっていたのは3年生ぐらいまでだと思います。

それ以降は4教科(国算社理)について、全く分かりません。

次回は中学から専門学校まで一気に書こうと思っています。いつになるかは分かりませんが・・・・・・

 

とても長い記事になってしまいましたが、最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

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