昨夜はあっさりぱったり眠れました。

久々ののび太級スピードで、

夜中に一度も目覚めなかったのなんて

何か月ぶりだろうか!

 

朝からすこぶる調子よく、元気よく、

昨日の行いのナニが良かったのか、と

あやかりたい本日は反芻してました。

 

 

やっぱ、これ飲むの15時に打ち止めにしたから?

(多分違うけど。)

 

母が夢中になっていることは

面白いに決まっている、と

必ず手を出してきて

放っておいてくれないムスメ。

 

豆の膨らみや

ドリッパーの良し悪し、

焙煎の度合いに逐一口を出し、

ハンドピックも手を出してきます。

(焙煎前の欠損豆をはじくことです。)

 

 

当然こうなる。

(本日オトーサンの分淹れてるのはムスメ。)

後ろはとっておきの焙煎したてのピーベリー。

 

思えば、おままごとを始めた頃も、

「ナニ飲むぅ?赤?白?」と

ワイン好きの祖母の口調を真似ていたムスメ、

珈琲も好きになりそうな。

 

ワタシは文字通り

毎日毎日「首ったけ」でして、

豆なのか、焙煎なのか、

ニューかオールドか

産地か焙煎度合いか、

あれやこれやと

時間を見つけては遊んでいるのですが、

珈琲にまつわる逸話っていうのは

世界中事欠かないですね。

 

音楽家のコーヒー好きは割と知られていますが

古くはBACHまで、半ばパロディかと思しき

「コーヒーカンタータ」作っちゃうくらい

愛してやまなかったようですし

「あの偉人も珈琲狂だった」なんていう

珈琲賛歌が、目下、目のご馳走なワタシは

逐一目を通して爆笑。

 

ルーズベルトが日に40杯は飲んでいた、

という逸話に苦笑いしていたら、

バルザックは90杯で、それはもう

息を吸うようなペースの飲みっぷりだったとか

そんなものを聞くと(ほんまかいな)、

これを昼の15時にやめないと

さもなくば眠りが浅くなる、だなんて

嘆いている東洋の中年なんて

所詮小物よのぉ・・・。

 

ところで、電気焙煎していた時は

「絶対に敵わない」に決まっていたので

近隣のヒジョーに美味しい自家焙煎のお店には

むしろ一度も行きませんでした。

 

改めて、本当に美味しいものを口にしたら

二度と戻れなくなるほど違うよね、と

うっすら自覚はしていたので、

とにかく買った豆を消費しきるまでは、と

消費活動のせめてもの責任的に

ズルズルと2級以下に甘んじていました。

 

お店の前を通れば、恨めし気な眼差しで

その芳香を過呼吸になるほど吸い込んで

いつか、、きっと、、でも、どうやって、

と忸怩たる思いでしたが、

今はむしろ近々一杯頂いてみようという気に。

 

ちなみに、ワタシが今まで飲んだ中で

貫かれるほど美味しかった一杯は

「蕪木」です。

 

こういっちゃなんですけれど、

そぎ落とされた、という表現そのものの

珈琲豆の内側に入り込んだような仄暗い店内は、

「目を瞑って静かに味わう場所です」と

無言の常識が支配する世界のように感じられ

その席でスマホを開いて

ブルーライトを店内に持ち込むなんざ

軽率過ぎて血迷って入った客的に感じられ、

見渡す限りハルキストのような雰囲気の方々が

経年変化による珈琲色の文庫本を開き

静謐な雰囲気で瞑想しながら飲む、

みたいなお店です。

 

(ものすごく個人的な感想です。)

(店主は決してそんなこと言ってません。)

 

だけど。。。

 

脳天突き抜けるほどの

天上の珈琲が頂けます。

また行こうと今なら思える。