帯状疱疹は一般的には感染しないし
一度かかったら二度とかからないたと
言われている。

でも、
①水疱瘡にかかっていない者
②妊娠中の者
③免疫不全の者
などはうつることがある。

特に移植者等免疫不全の者は、
重篤化することもある。

顔の帯状疱疹の場合、
①視力低下
②顔面麻痺
③聴力低下
など重症化するケースもあるので、
今回のように入院して点滴治療を
することになったらしい。
しかも周りが移植患者ばかりなので、
厳重な個室隔離となったようだ。
看護師は、この部屋に入る度に手袋と
ビニルエプロンを捨てていく…

水疱が発症する前の数日から痂皮化
(瘡蓋ができる)するまで感染リスクが
あり、接触感染と空気感染でうつる。
満員電車で隣に患者がいたら感染して
しまうことがないとはいえない。
そう考えるとちょっと恐い。

幸いにして水疱ができる直前に気づき
早めに治療したため、重篤化することなく、快方に向かい始めた。

今日の回診では、水疱の痂皮化が確認
でき、広がりが無ければあと数日の
治療で退院できそうです🙋

免疫力が低下しているということは
敵陣の中で丸腰で生活しているような
ものとして気構えなくてはいけないと
日々思うこの頃です。
昨日の日本橋のブログに一言。2011.9.4「日本橋考」に画像があります。

9年前の今日、
ある学校の職員室にいました。
出張の先生の教室の自習監督を無事終え、ほっとしてお茶を飲んでいました。
最初大きめの揺れがありましたが、よくある程度の揺れとたかをくくり、
下校する2年生を見ながらお茶を飲み続けました。

すると、急に尋常ではない揺れとなり、2年の若い担任に子どもたちを校舎から
離すよう指示したあと、プールに目をやると嵐の海のようにあふれんばかりに
波立っているのを見て、非常時であることを感じました。
植木の剪定をしていた校長に指示を仰ぐため、探してみると、脚立の上で
立ち往生。「どうしましょうか…」と教頭…
そこで、緊急放送マイクを取り、避難訓練通り、地震がおさまるまで一時待避後
校庭へ避難するよう指示。
子どもたちは、リアルの地震に緊張したのか、けがもなく、100点満点の避難。

その後、地区担当の教員を配置し、集団下校。親に引き渡しできなかった家は
近所の家に一時預かりを依頼。
夕方、学校が避難所となり、機転を利かせた教頭が手に入れてくれたお握りに
がぶつきながら夜を過ごしました。
幸いにして被害は小さく、避難所もすぐ解除なり、その日は帰宅できました。

確かこの年の2月、東京マラソン移植者の部に出場。
3月末には大好きであったこの学校から異動。
3.11がくると、いつもあの日、あの年のことが思い出されます。
3月10日の東京大空襲
8月6日広島,8月9日長崎の原爆投下に比べるとあまり語られることが少ない。
でも、被害の大きさ、死者数は同等で、大惨事であったことは間違いない。

いま、人気の観光スポットの浅草。
吾妻橋を渡って、松屋で買い物をして、神谷バーで電気ブランで一杯やる…
当たり前のコース。でも、これらはみな空襲の焼け残り。戦前からの建築物。
当時、浅草近くに住んでいた母によれば、焼け野原に松屋がポツンと建っていたと。

東京大空襲の時、母は三度命拾いをしたと話す。
一度目は、親類の家で遊んでいて泊まっていくよう勧められたが、胸騒ぎがして帰宅。
その晩、親類宅付近が空襲にあう。
二度目は小さなブリキ工場で働いていた時、父親が体調を崩したため辞めたら、
直後に爆撃を受け、大半の方が亡くなった。
三度目は、蒲田の爆弾製造工場で勤めていたとき、三度目の空襲。
その時も、命からがら生き延びた。
東京の空襲は、3月10日一度ではなく、数回あったようです。
蒲田の空襲は4月に入ってのこと。

スマホの3月10日の日付を見て、そんな母の話を思い出しました。
日本橋に行ったら、橋の欄干を見てください。
茶色くなっているところが、焼夷弾の落ちた跡です。