桜が終わって、タケノコも掘り尽くして

畑仕事にいそしむピーナッツ🥜です。

 

畑では10月に撒いたそら豆が

どんどん大きくなってます。↓

えんどう豆に至ってはそろそろ収穫です。

こちらの豆プロジェクトも順調です。

そら豆をツマミにビールを飲むのが楽しみ♪

 

さて、今日のお話は豆プロジェクトの続き

卒業式のお別れの言葉に魂を

 

話は今から40近く前に遡る。

教員になって初めての卒業式。

男はその事前練習の光景に顔が曇った。

 

私が小学校の時は

"在校生代表送辞"と

"卒業生代表の答辞"

だったのに、いつからか

在校生は"送る言葉"と

卒業生は"お別れの言葉"

呼びかけ方式に変わっていた。

 

卒業式の呼びかけの練習、

担任は叫んでいた。

「声が小さい!やり直し!」

「間をもっとあけて!」…

 

その言葉は昨年の使い回し。

お決まりの言葉をお決まりの言い方で言う。

 

男は心の中で言った。

いったい誰のための言葉なのか…

 

翌年、

卒業学年のある担任が卒業式で改革をした。

 

お別れの言葉の間、

これまでの学校生活の思い出の画像を

体育館の壁面にスライドで投影した。

 

今ならどこの学校でも思いつきそうな

ことであったが、昭和の時代では

ろくに設備もなく、画期的だった。

 

子どもたちも保護者も、お別れの言葉と

一緒に映し出される思い出の映像に

涙腺が緩んだ。

 

そして、別の担任は

卒業生に短冊を配り

子どもたちが言いたい言葉を募った。

前年と違うオリジナルの言葉ができた。

 

スライド映像と合わせて、

子どもたちの呼びかけはぐっと良くなった。

 

その後、男は人事異動となった。

次の学校行くと相変わらず卒業式は

旧態依然とした呼びかけだった。

 

数年経って自分が卒業生を送り出す時、

前任校を参考にお別れの言葉の呼びかけを

さらに改善しようと試みた。

 

①言葉は子どもたちが自作した。

 短冊方式を踏襲した。

②適材適所で人選した。

 時にはその言葉を言いたくて何人かの

 オーディションになった。

③スライドの替わりに

 当時出始めたビデオカメラ📹で

 一人の言葉に一つの画像を録画した。

 一枚一枚フェードイン・フェードアウトで

 記録写真を連続撮影して繋ぎ、

 一本のテープ📼にまとめた。

④千枚以上あった記録写真から可能な限り

 言葉の内容とそれを言う子に相応しい

 画像を選び出した。

 画像の選択には膨大な時間がかかった。

⑤録画する画像の長さはその子の台詞の

 長さに合わせて録画した。

 撮影には4.5日かかり

 毎晩、帰宅は深夜となり、撮影が日を

 またいだ時には、事件性を感じた

 警備会社の方が数名、放送室に

 駆け込んできた。👮‍♀️👮‍♀️👮‍♀️

 

練習が進むと台詞の時間が変わり、

何度も撮り直しとなった。

それでも投影画像は完成した。

※正規のビデオは学校に置いてきたが

 失敗作↓が家の押入れに保管してあった。

 

呼びかけに合わせて映像を流せる見通しが

立ち職員会議に提案した。

セリフを言う子ども一人ひとりの顔がわかる

画質にするため、壁ではなくスクリーンに

映したいとお願いした。

 

卒業式が迫った時期の会議は紛糾した。

ステージにスクリーンをどう取り付け

体育館をどうやって暗くするのか

 

先輩の一人が言った。

投影時に緞帳を下げて横棒にスクリーンを

フックで取り付け、再び上げればいい。

 

家内の同級生の女性教員も後押しした。

私はピアノ演奏でステージ上にいるので

もう一人手伝ってもらえれば2人で

スクリーンの取り付けをやります!

 

教務主任が言った。

緞帳を下ろすタイミングで照明を消して

窓の暗幕を一斉に閉めれば暗くできる。

照明は放送担当が消し、呼びかけのない

学年の子を2階の窓に配置して暗幕を

閉めてもらう。これで良い。

 

案が固まってきた時、

教頭が重い口を開いた。

緞帳で日の丸が隠れてしまい不敬では?

お祝いの席を暗くするのはいかがなものか?

※当日の様子を写した卒アルの会場写真

 この緞帳の後ろには日の丸があった  ↓

 

皆が下を向いて、口を閉じた…

 

しばらくの間があって、校長が言った。

「子どもたちのための演出だ。

 国旗を敬わないわけではなし、

 暗くなるからといってお祝いの気持ちが

 損なわれるわけでもない。

 その案でやりましょう!」

 

子どもたちはまだその計画を知らなかった。

案が通り、式まであと数日に迫ったところで

子どもたちにそのことを告げ、

画像と言葉を合わせた。

練習ではあったが、

すでに多くの子の眼に涙があった。

 

こんな言葉があった。

当初50mを溺れるように泳いでいた子が

驚異的にタイムを伸ばし大会で6位入賞した。

彼女は紐で腰に繋いだバケツをひきながら

練習した。彼女の泳いだレーンにはバケツを

引きずった道ができた。

母親は暗くなっても帰らぬ娘を毎日迎えに

きた。その子が短冊に書いた台詞が…

「記録を目指し長い距離を

     泳ぎ続けた水泳部

その子の泳ぐ姿がフワッと映し出される。

"水泳部"の"部"の台詞でフェードアウト。

 絶妙な秒数でその子の写真を録画した。

 

おとなしく目立たない子は言葉の選定に

悩んだ。でも、1年生とのお花見遠足で

その子が小さな子と手を繋き、笑顔で歩く

一枚の写真が見つかった。他の子が作った

「一年生の小さな手を引いて行ったお花見」

それが彼の言葉となった。

ぴったりの言葉だった。

彼は小さな声であったが精一杯声を張った。

 

前任校ではBGMはクラッシックだった。

それをユーミンのオルゴール曲に変えた。

ゆっくりとした旋律と心の琴線に響く

澄んだ音は言葉とよく合った。

出だしの曲は「卒業写真」であった。

 

本番では、保護者も、職員も

それぞれの6年間が頭と胸の中を巡り、

目頭を覆う姿が見られた。

子どもたちの言葉には魂が宿った。

 

式後、卒業生も保護者も職員も絶賛だった。

5年生は来年もやって欲しいと言った。

大成功に思われた。

 

しばらくしてから、

ある卒業生の保護者から感謝の言葉とともに

こんなことを言われた。

「うちの子は1回だけだったけど、

 ○○くんは3回映っていた。」

 

映し出される画像の中に一人1回は必ず映る

ように名簿でチェックしながら撮影した。

でも、1人の子の映る回数まではカウント

していなかった。

 

保護者にとっては我が子がすべてであった。

その時はわからなかったが、自分の子が

卒業学年になってようやくわかった。

 

年度が明けてからは、

記録写真を撮る時はいつも卒業式の映像を

思い浮かべながらシャッター切った。

写真代はすべて自腹だった。

 

翌年は、台詞に合わせた画像を選ぶと

ともに、その子が何度写ったか名簿で

カウントし、

どの子も同じ回数が映るように編集した。

 

今度は卒業学年の後輩も深夜まで

付き合ってくれた。

 

昨年は画像を数回見て練習しただけで、

本番では卒業生は画像に背を向け

保護者と在校生に向かい合って呼びかけた。

 

今度の卒業生は言った。

「先生、本番は僕たちも画像を見ながら

 呼びかけがしたいです。」

保護者と在校生に尻を向けて言うのは

失礼だし、歌声が響かないと担任は言った。

私は言った。

「会場は暗くてよく見えない。

 保護者は映像を見ている。

 歌の時だけ正面を向けばいいのでは?」

管理職も同意してくれた。

 

子どもたちは、

画像を見るのは本番の一度だけで良い

と言うので、練習では見せなかった。

本番で初めて画像を見ながら言う言葉は

画像の自分と一体となり心の叫びとなった。

 

画像の後半の言葉…

保護者との入学式の画像が投影される。

「お母さん、ありがとう!

 お父さん、ありがとう!」

写真の本人が大きな声で呼びかける。

保護者と卒業生が一体となり、

会場は感謝と感動で包まれた。

 

本場は完璧であった。

何ひとつクレームはなかった。

 

それでも、大きな問題がひとつ残った。

その年の4月に男は異動であった。

次の卒業式はこれを誰がやるのか…

 

私は皆に時間がかかる仕事だから、

無理にやらなくてもいいと伝えた。

一緒に撮影を手伝った後輩が言った。

「僕がやります。」


優秀な彼は言った。

「僕はパソコンで作ります。

 もっと短い時間で出来ると思います。」

 

24時間闘う、

昭和のアナログ男の時代は終わった。

風の噂では、翌年、彼は短時間で見事に

やってのけたとのこと。

その後、時代はパソコンの時代となり、

映像を取り入れはお別れの言葉は他校にも

広がった。

 

でも、令和の教員がこれを読めば

働き方改革違反と思うかもしれない。

ちょっとばかりやり過ぎであった…😅

 

一つの小さなプロジェクトは終わった…

 

♪ベッドライト テールライト 

     旅はまだ 終わらない〜♪


              つづく…