中島敦といえば、高校の国語で習った「山月記」しか読んだことがなかった私。情けないことです。
でも、この秋に初めて読んだ中島敦の小説に心を動かされました。遅ればせながら、出会えてよかった。
①「悟浄出世」
②「悟浄歎異」
③「文字禍」
①②は、明代の長編小説「西遊記」を下敷きにしたもの。悟空や三蔵法師に比べてやや陰の薄いキャラクター「沙悟浄」が主人公です。沙悟浄の苦悩や、沙悟浄の目から見た仲間たちの姿が描かれています。
③「文字禍」は、先輩の先生から教えてもらった作品で、これは本当によくできています。「中島敦の世界」+「ファンタジー」が見事で、着想から終末(「落としどころ」かな?)まで見事。
そしてそして、さらにおもしろいのが、万城目学「悟浄出立」。
おそらく、中島敦の二作をふまえて、また新たな万城目学の沙悟浄が描かれています。中島敦の描いたところを、もう一歩進めたという感じでしょうか。きっとこの「一歩」はかなり険しく難しく、誰も挑戦できなかったのかなぁ…とも思います。
この「一歩先」がとてもすばらしいのです。登場人物のことばが、いろいろなことを考えさせてくれます。そして、励まされます。
長いですが、引用します。おすすめです。ぜひ読んでみてください。
「おい、悟浄」そのとき、急に後ろから悟空の声がした。驚いて振り返ると、いつの間にか俺は先頭の悟空を追い越してしまっていた。
「どうしたんだ?」
という悟空の問いに、いや、何でもないと頭を振って、俺は前方に向き直った。何者の気配も感じられない、どこまでも砂に覆われた、むき出しの大地が続いていた。そこには八戒のたてがみも、埃まみれの師父の袈裟も、悟空のトラ皮の腰当ても見当たらない。完全なる未開の眺めは、自分でも不思議なほど新鮮なものに映った。
俺は隣に追いついた悟空に、
「しばらく、先頭を歩いてもいいかな?」
と小声で申し出た。「ああ、もちろん」と悟空はなぜかニヤニヤ笑いながら了承した。
俺はうなずいて、悟空の数歩先へ進んだ。だが、すぐさま振り返って訊ねた。
「すまない、どうやって進む道を決めているんだ?」
「馬鹿か、お前は」
悟空は呆れた声とともに、手綱を引いて馬の動きを止めた。
「こっちが西天ですよ、書かれた立て札が、どこかに用意されているとでも思ったか?ただ、自分が行きたい方向に足を出しさえすればいいんだよ!」
その言葉に、俺は刹那、頭を思いきり打ち叩かれたような衝撃を受けた。
「好きな道を行けよ、悟浄。少し遠回りしたって、また戻ればいいんだ。もっとも、出来ることなら、最短の道をお願いしたいけどね」
という八戒の声を受けながら、俺は背中の荷物を担ぎ直した。
「わかってるよ」
誰の足跡も見当たらない、砂丘が波のように肩を寄せ合う、未踏の世界が俺の正面に広がっていた。大きく息を吸って一歩足を進めた。踏みこんだ沓に吸いつくように寄せる砂が、やがて細かく崩れていくのを見下ろしながら、進むべき道筋に宝杖の先をぐいと差しこんだ。
その瞬間、俺のなかで少しだけ生の風景が変わったような気がした。
万城目学「悟浄出立」
掲載誌:『yomyom』vol.10(2009年3月号)新潮社発行