よく聞く表現として、「私たちは生かされている」
ということを良く聞きます。
そこのところ、本当はなんなんだろうという疑問が湧いたので、自分なりに
ほんとうに「私たちは生かされているのか」ということと、
私たちは成り立っているという証拠を上げながら、生きるということについて考えていきたいと思います。
まず、本当に「私たちは生かされている」のか。
おそらく、その意見は正しいと思います。
量子力学の世界では、完全な真空状態を作っても、観測すると、ポンポン素粒子が生まれてきてしまう現象があります。
これは、観測者が、観測すること自体に、何もない状態からエネルギーを生み出してしまうことに相当します。
『無』から『有』は生まれるのです!
私は、この事実から、
誰かが何かを観測するということ自体に物質に対して何らかの影響を与え、そのものの性質を変えてしまうものと見ています。
つまり、『無』から観測者がいる状態のみ『有』が生まれるとすれば、
さきほどの「私たちは生かされている」ということにたいして信憑性を持たせることができます!
それは、つまり、
私たちは常に誰かから観測されているということです。
逆に言えば、観測されなければこの世に存在しないといいかえても過言ではありません。
先ほどの理論にあてはめると、
無に近い存在である素粒子(私たち人間)が、素粒子を観測によって生み出している超存在の存在を知覚し、認識する術なんてのはありません!
おそらく、私たちの住んでいる次元よりもはるかに高い次元から、なにか、ものすごい強いエネルギー体が私たちを観測することによって、「私たちは生かされている」という風に捉えることができます。
しかし、それは本当でしょうか。
わたしは、「私たちは生かされている」という言葉の意味に少し違和感を感じます。
生かされているということは、私たちはその超存在からの奴隷?!
いやいや、そうではないかもしれませんが、
なんとなく、支配関係があり、超存在と、我々との関係に階層がある、
つまり、カースト制(インドのヒンドゥー教徒が信じている輪廻転生によるカルマの支配階層)のようなものがある気がして、不平等感が否めません。
私は、その意見に対して、「私たちは成り立っている」と言い換えるべきだと提言します!
その超存在も、私たちがいるからその存在がなんとなく認識できることだし、その存在を存在せしめているのは私たちだからです。
私たちの日常も、成り立っている現象をあげるならきりがありません。
今日食べた朝ごはんを思い浮かべてみてください。
今日の朝ごはん一つとってみても、その食料はどこからか運ばれてどこにいくのか。
その経路ではいろんな人たちがかかわって、「成り立っています」
今記事を書いているこのパソコンも、いろんな電子部品から成り、一つの機能を「成り立たせています」
このように、「成り立っている」現象は数えたらきりがありません。
「生かされている」の表現も、それはそれでいいと思いますが、
「成り立っている」と言ったほうが、支配階級がなく、みんなが平等に価値がある感じがして、僕は好きです。
みなさんは、「生かされている」「成り立っている」どちらの表現を使いますか?
まあいいこといってるじゃんと思った方も、そうでない方もぜひクリック↓










