ねばり強くない・あきらめが早い・希望が持てない
サッカーアジアカップで
日本チームは、対ヨルダンとの試合で粘り強さを見せてくれた。

全国高校サッカー選手権決勝戦で
久御山高校は最後まで望みを捨てないねばり強さを見せてくれた。


今の若者はねばり強くない。

       すぐあきらめてしまう。

       勝負を諦めて望みをつながない。

       負けを早いとこ決め込んで物事にとことん向き合わない。

抵抗しても、声をあげても見向いてもくれない社会に住んでいるかもしれない。
そんなHOPELESSな状況を変えるのはそこに生きている者にしかできない。

ネットの社会で育ってきた若者がすぐ社会と縁を切ってしまうと非難される。
でも

ネット社会に人生途中で巻き込まれ、とまどった中高年世代には出来なかったことを
ネット社会ではぐくまれた若者にこそできる事があるはずだ。

若者のつよい繋がり、連帯をいかして次の新しい時代を築いてほしい。
その連帯の中に中高年を巻き込む勢いで。


昨日、成人の日、124万人の新成人誕生。
1970年の新成人は246万人。
若者は激減している。
少数精鋭で辛抱強く変革を勝ち取ろうではないか。
新しいよい時代を作ろう。


年輩世代もぐだぐだ言わず、若者に理解を求め、手をとりあって繋がろうではないか。
そうすれば大きな推進力が生まれる。

・・・年輩世代だってぶざまに生きてきたではないか。

              自分たちの不出来から目をそむけるのはやめよう。

              若者の力も借りようではないか。
いつ少数民族になるか分からない民族国家。

生存危惧は先住民、少数民族だけの問題ではなくなっている現代なのか。

地球上に勢力を広めている外来NATIONはどのくらいの数に上るのか。

阿部定はオーストラリアで生きている。
阿部定の事件前の生い立ち、事件後の生涯を思う。

阿部定事件から74年、オーストラリアの阿部定の生い立ちも不憫なものであったのか。

どこに生まれ、どのように育てられるかは自分では選択できない。

全て親の責任とは言わない。

全て社会の責任とは言わない。

一人で全責任を負うのが定めなのか。


1936年5月18日に阿部定は愛人の石田吉蔵を殺害した殺人罪で逮捕された。
兄・新太郎は「自殺でもしてくれればいい」と新聞にコメントしている。
定は事件後、吉蔵が事件当時に身につけていた褌を腰に巻き、シャツにステテコと吉蔵の血で汚れた腰巻を身につけて逃亡していた。
吉蔵の下着類はいくら探しても見つからないので警察も不思議に思っていたのだが、なんとそれらは拘置所(市ヶ谷刑務所)に入った定の身につけられていたのだ。
拘置所で汚いので差し出すように言われた際は「これはあたしと吉さんのにおいが染み付いているの、だから絶対渡さない」と大騒ぎをしている。
留置から裁判でのやり取りは、定を担当した弁護士によってマスコミに話が流れ、当時の社会に衝撃を与える(wikipedia)