あまりにも言われ使い古された言葉だけれど、最近とみに感じている。


世界は言葉でできている


それはメタファーであって、実際の世界を見よ。目の前にあるじゃないか。文字で造られたものではないだろうが。


と、笑い済ます人もいるけれど、そういう人の見ている周りと私の捉える周りの違うことが、それは真理だと明らかにしている。


疑い深い人は世界は騙し合い、うまくやろうとする輩が搾取しようとしている、のっぴきならない世界にみえる。


奴らの利益だけを追求し、支配して蹂躙し、地球も壊して未来の予想図はデストピア。



私がみている世界はデストピアではない。

確かに世界には狡猾な駆け引きをするものもいるし、莫大な富を手にしているものもいる。そして人はたくさんの過ちを犯して生きている。


それでも、世界は良くなる方にベクトルは向いていると思う。


なぜ過ちを犯すのか。

弱いのだ、私たちは。


欲に負けやすいのだ。

感情に負けやすいのだ。


悪いこととして捉えてはいない。

そうであるからこそ、生まれ育ち、経験して学ぶ。

各人のその行程が実は世界を創り、人類の歴史となる。


初めから、あらゆる欲も自覚でき、コントロールができるなら「やっちまった!」とか「若気の至り」なんてないし、マウント取りなんて、起きない。


意地を張って後悔する、なんていう経験もない。

周りが引くほどに推し活したり、「あの時、どうかしてたわ」って振り返るほど恋愛したりしない。


世界は自分が設る人生の修行場だ。

そして自分の想いや言葉で具現している。


もちろん、たった一人で生きてはいないので、他者の世界の影響を常に受けながら自分の世界はできてゆくのだけれど、それでもやはり、自分のフィルターがかかっている。



私がみている世界とあなたがみている世界は違う。


私は戦争反対とは言わない。

代わりに、平和を願い、そのために動く。と、言う。


よりどちらを願うのか、本質はどちらにあるのか、を明らかにして、より前向きな言葉で話す。


核兵器反対。は、賛成だけどそうは発しない。

その甚大なエネルギーを人々の暮らしに役立つ燃料に使おう、と言う。現在においてそれが絵空事のようでも、反対はしない。


反対は反発を生みやすいから。

使うな、と言われれば、使いたくなるから。


お花畑な思考かもしれない。

しかし世界は確かに(あなたの)言葉(想念)でできている。

私たちの言葉が変われば、世界は変わる。

私たちの精神性が変われば、世界はガラリと変わる。


言葉を発信する人がどんな言葉を放つかで、世界はずいぶんと変わる。だからこそ、発言には考え及ばないほど重みがある。

愛ある、善き方へ導かれますように。


皆さんの言葉が世界を創っている。