よく行く市民ご用達のスーパーで静かに変化がありました。

10月に入ってからかな、多分。


精肉売り場からカナダ産が無くなった。

代わりにメキシコ産になっていた。


牛肉はまだアメリカ産があるけれど。


もちろん、国産があって、やや安く設定されたのに輸入ものが並べてあるので、国産は変わらずです。


カナダ産からメキシコ産になったことに私はなぜか落ち着かない、不安のような落胆のような感覚で反応しています。


メキシコ産だっていろいろあるでしょう。

けれど。


今まで仕入れてなかったのに、10月から値段も同じくらいでメキシコ産があるのをみると、秋からの値上げラッシュの中で仕スーパーさんが努力されたのだろうな。


カナダ産をそのまま置けなかったのは、従来の値段感を保持するためだろうかな。


つまり、私たちスーパーの消費者の価格帯をキープするためで。

つまり、私たちが値上がりになるカナダ産肉がキツくなるだろうから。

つまり、私たちの所得が変わらぬままだからで。


値上がり。値上がり。


海外のそれはもっと顕著で、所得も上がってはいるけれど、物価はもっともっと上がっていると聞く。

だから日本よりも生活は厳しいと。


日本はなんだかんだ言っても政府や日銀によって守られている、ともいえる、と。


このスーパーだってそうだ。スーパーの企業努力で消費者の日々の出費が狂わないように維持されている。


守られている。


でもこの努力によって、手厚さによって、庶民はぬるく、世界の実情から守られて、知らぬ間に堕ちていっているように感じる。


私たちはぬるま湯の風呂のなかで、世界の荒さを知らないまま茹でガエルになっているような危機感をおぼえる。


前に読んだ「ノマド」の一節が思い出される。

「世間の常識どおりに学校に行き、就職し、懸命に働きさえすれば、すべてうまくいく。

かつての世の中にはそういう社会的契約が存在していた。 


だか、そんな常識はもう過去のものだ。


すべて世間から期待されるとおりにやってのけて、それでも無一文になったり、ひとりぼっちになったり、ホームレスになったりする可能性はある。」


スーパーで買い物できてる。まだ買い物できてる。カナダ産じゃないけどメキシコ産で買える。


そうかもしれない。


でも、かつて一生懸命働いた年金生活者やパート・派遣労働者、静かにゆっくり堕ちている。


だから何だ、ではあるのだけど。


この状況でも所得を上げている人もいるし、工夫し取り組んでいる人たちもいる。


しかし、世の中の変遷についていけないまま、茹でガエルになっている中産階層に、自己責任だけを突きつけるのは、あまりに非情だと感じる。


私たちは、小さいときから、もっと、学ばなければならなかった。

知識学問のお勉強じゃない。


どんな状況になっても、自分らしく、生き抜くための、智慧を。

そのための知識と経験を。


もっと学んでこなければならない。


カナダ産ポークからメキシコ産ポークに変わった意味。堕ちる、ではなく意識的に選択する聡明さで受け入れる。