1691年から1973年まで採掘された別子銅山は、日本三大銅山の一つであり、戦時中には、連合国の戦争捕虜、さらには、中国や朝鮮半島から強制連行された方々が強制労働に従事させられて命を落とすケースが少なからずございました。今回、時間の関係により、廃線後にサイクリングコースとして利用されている別子鉱山鉄道跡に途中から入って南下し、愛媛県新居浜市にある別子銅山中国人殉難者慰霊之碑を久々に再訪してみました。
途中、立ち寄った金子山福寿谷古戦場跡は、羽柴秀吉の四国攻めにより、毛利小早川隆景軍が、長宗我部元親側に付いた金子氏を滅ぼした1585年の天正の陣に関する史跡であり、戦国武者像は、天正の陣の死者を弔う舞いに関わる武者の像です。天正の陣では、新居浜・西条一帯の多くの神社仏閣が焼き討ちに遭い、今回、門前を通り過ぎた慈眼寺も従来は金子山の北側にあったものが、天正の陣で焼き払われ、戦闘後も生き残った金子対馬守元春が仏門に入って、長年の修行を経て、金子山城の館跡に再建したものだと言われています。
別子銅山中国人殉難者慰霊之碑が現在立地する瑞応寺も天正の陣で焼き払われ、後に再建されたものだと言われています。瑞応寺の入口の手前側には、地元の戦没者を祭った忠魂碑がありました。別子銅山中国人慰霊之碑は、瑞応寺境内の東端にあり、地図上では、山根西自治会集会所の近くに位置します。そこから北側を眺めれば、瀬戸内海燧灘に浮かぶ魚島、さらには対岸の広島県福山市等を見ることができます。到着した頃には、すでに薄暗くなりつつあり、写真にはそれほどはっきりとは映っていませんが、碑の落款は「住友金属鉱山株式会社別子鉱業所」と記されています。碑は当初1954年に山中にある別子銅山東平地区に建立されましたが、東平坑が休止となった1968年に現在の瑞応寺境内に移設されました。ちなみに、朝鮮人慰霊碑と墓石は、それよりさらに山中に入った別子山にあります。今後、機会があれば、訪れてみたいと思います。
自1691年至1973年期間開採的別子銅山,是日本三大銅礦山之一。二戰期間,盟軍戰俘以及從中國和朝鮮半島被強擄到日本國內的勞工因被強迫從事勞動而喪生的情況屢見不鮮。由於時間關係,我這次中途進入廢線後被用於自行車道的原別子礦山鐵路,沿著該路線往南下,時隔多年再次探訪了位於四國島愛媛縣新居濱市的別子銅山中國殉難勞工慰靈碑。
途中,路過了金子山福壽谷古戰場遺址,這是與1585年天正戰役有關的歷史遺址,毛利小早川隆景的軍隊受豐臣羽柴秀吉之命發動四國島平定戰,其中戰鬥最激烈的天正戰役之時,消滅了站在長宗我部元親一方的金子氏。戰國武者像也是與為天正戰役期間戰死者追悼的舞蹈有關的武士人像。其實,天正戰役期間,新居濱和西條一帶的許多神社寺廟都被燒毀,據傳這次路過門口的慈眼寺也是在天正戰役期間被燒毀,原址在金子山北側,經過戰鬥倖存下來的金子對馬守元春後來剃髮出家,修行多年之後,重建於原金子山城城堡。
據傳別子銅山中國殉難勞工慰靈碑所在的瑞應寺也是在天正戰役期間被燒毀,後來被重建的。在瑞應寺的入口的前面,有一座紀念當地戰死者的忠魂碑。別子銅山中國殉難勞工慰靈碑位於瑞應寺內的東端,地圖上的位置在山根西自治會集會所附近。從那裡向北眺望,可以看到漂浮在瀨戶內海燧灘中的魚島,以及對岸的廣島縣福山市等。到達慰靈碑的時候,天色已經有點變黑了,雖然相片上有些看不清楚,但慰靈碑上所刻的落款為「住友金屬鑛山株式會社別子鑛業所」。該慰靈碑最初於1954年在山中的別子銅山東平地區建立,但在1968年,由於東平礦坑被關閉,被遷移至瑞應寺內的現址。順便說一下,朝鮮人慰靈碑和墓碑位於山中更深處的別子山。將來有機會,我也想去那裡看看。