教科書の指導書化 | 晴耕走雨読

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小学校の新しい教科書について報道されている

内容が増えたとか 対話式の記述が増えたとか

中に、先生に親切設計とあって よく見ると

板書例や発問例 果ては時間配分の目安まで…

こんなことが子どもが手にする教科書に!?

子どもにとって、いらない情報ですよね

 

一方、教員はなめられたものだ

そのような枠にはまった授業をするように誘導される存在なのか 

若いころ、国語の指導法に夢中になりサークルを作って、仲間と夜が明けるまで侃侃諤々の討論したもんだ

授業作りは、教材の見方と子どもの身方に深く関わっている

教材がわかったつもりでも目の前にいる子どもを理解していなければ成功しない

それを教科書会社にゆだねるなんて

 

ただ、今の学校現場、若い教師がそんな時間もまったく持てず、指導書首っ引きで授業をやっている姿を思い浮かべてしまう

そんな現状は「教科書の工夫」で少し楽に?

それって、教師本来の姿だろうか?

※指導書:教科書会社が提供する指導計画案を

 一冊にまとめたもの

 

狂ったように働かないと教員としての仕事がこなせない…ただこなすのだ

そんなブラックな現状こそが問題で、もっと教材研究・子ども研究にどっぷりはまる時間こ必要なんだと思う

 

そして、見えてくるのは教科書は金科玉条 それを教えさえすれば教育は達成された…という教科書至上主義 その先には国定教科書…

 

よく先輩教師は言っていたものだ

「教科書を教えるのではなく、教科書で教える」

つまり、教科書は教材の一例に過ぎないということ必要ならばもっと優れた教材に置き換えることだった必要なのだ

 

「指導書ばかり頼りにするな われわれは教科書会社の下僕ではない」

そんな教員であれば、いつか犯した「教え子を戦場に送る」過ちを簡単に繰り返すことになるだろう