Re:ヤマトの光氏へ サンク”鉄の杖”は権力を象徴する ”偶像崇拝”!! | peaceのブログ

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「天の父母様聖会」とは、政治、宗教、経済、学術、メディアなどのの壁を超えたコミュニティーです。
人類の父母である神様の元に人類が一つの家族となり、平和世界の建設という理念を掲げているのが、「天の父母様聖会」です。

サンクチュアリ教会では「鉄の杖(銃)を祭壇に掲げて拝んでいます。

いわば、”権力” を象徴するようなものでもっての「偶像崇拝」です。

 

 
ヤマトの光氏からは「鉄の杖(心技)」とありましたがサンクチュアリ教会の「鉄の杖(銃)」は、聖書やお父様み言からは想像することも出来ない「権力」を象徴したものであることを知るべきです。

鉄の杖(心技) も、同一なる存在の相対的両面のかたちです。どちらも必須です。

 

1、内的な鉄の杖精神 高い士気、旺盛な責任感と使命感。

1、外的な鉄の杖 下記の目的を完遂するために必要な実力。各種戦力(戦技、装備など)

 

自然災害を防ぎ、家庭倫理の確立や純潔を守ることを促進する平和組織「世界平和王国警察」と「世界平和王国軍」 侵犯、侵略しようとする悪の力を無力化する抑止力。防衛力。

 

原理講論に書かれた「杖」とは何だったでしょうか?

 

『原理講論』, 後編, 第二章 モーセとイエスを中心とする復帰摂理, 第一節 サタン屈伏の典型的路程, (二) ヤコブ路程を見本として歩いたモーセ路程とイエス路程

⑤ 杖は、不義を打ち、真実なる道へと導き、人の身代わりとして身を支えるものの表示物で、将来来られるメシヤを象徴したのである(本章第二節(二)(2)②)。したがって、ヤコブが、このような意義をもっている杖をついて、ヨルダン河を渡り、カナンの地に入ったということは(創三二・10)、将来、堕落人間が、メシヤを捧持して不義を打ち、彼の導きを受け、彼を頼ることによって、罪悪世界を越え、創造理想世界に入るということを、見せてくださったのである。それゆえに、モーセも杖を手にして、イスラエル民族を導いて、紅海を渡ったのであり(出エ一四・16)イエスも彼自身を表示する鉄の杖によって、この苦海の世界を渡り、神の創造理想世界へと全人類を導いていかなければならなかったのである(黙二・27、黙一二・5)
 
 イスラエル民族が、三日期間を神のみ意にかなうように立て、スコテに到達したのちにおいても、神は尽きない恩賜をもって、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって彼らを導かれたのである(出エ一三・21)。モーセの路程で、イスラエル民族を導いた昼(陽)の雲の柱は、将来イスラエル民族を、世界的カナン復帰路程に導かれるイエスを表示したのであり、夜(陰)の火の柱は、女性神として彼らを導くはずである聖霊を象徴したのであった。
 モーセは神の命令により、杖をもって紅海の波を分け、それを陸地のようになさしめて渡ったのであるが、彼らのあとを追撃してきたエジプトの馬と戦車と騎兵とは、みな水葬に付されてしまったのである
(出エ一四・21─28)。既に説明したように、パロの前に立っていたモーセは、神を象徴したのであり(出エ七・1)モーセが手に持っていた杖は、神の権能を現すイエスを象徴したのであった。それゆえに、この奇跡は将来イエスが来られるとき、サタンはイエスに従って、世界的カナン復帰路程を歩む信仰者たちのあとを追撃することになるが、杖の使命者として来られるイエスが、鉄の杖をもって(黙二・27、詩二・9)、彼らの前に横たわるこの荒海の俗世界を打つとき、この苦海も平坦な道に分けられるはずであるから、聖徒たちの道は開かれ、追撃するサタンは滅ぼされてしまうということを見せてくださったのである。前編の終末論において既に述べたように、鉄の杖は神のみ言を意味する。そして、黙示録一七章15節には、この罪悪世界を水に例えているのである。我々がこの俗世界を苦海と呼ぶのも、このような通念から生じてきたものと見ることができる。

 

『原理講論』, 後編, 第六章 再臨論, 第二節 イエスはいかに再臨されるか, (二) イエスの再臨は地上誕生をもってなされる

 このように、イエスが再臨されるときには、彼は地上で誕生されるので、黙示録一二章5節に、「女は男の子を産んだが、彼は鉄のつえをもってすべての国民を治めるべき者である。この子は、神のみもとに、その御座のところに、引き上げられた」と記録されているのである。ここで言っている鉄の杖とは、罪悪世界を審判して、地上天国を復帰する神のみ言を意味する。人類歴史の終末論で詳しく述べたように、火の審判は舌の審判であり、すなわち、これはみ言の審判をいうのである(ヤコブ三・6)。それゆえに、イエスが語られたそのみ言が、彼らを裁くと言われたのであり(ヨハネ一二・48)、不信仰な人々が裁かれ、滅ぼされるべき日に火で焼かれる(ペテロⅡ三・7)とも言われ、また主は、口の息をもって不法の者を殺すとも言われたのである(テサロニケⅡ二・8)。ゆえに、世を裁かれるイエスの口のむち、舌と口の息、すなわち彼のみ言こそが、その鉄の杖なのである(イザヤ一一・4)ゆえに黙示録二章27節に、「鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるであろう」と記録されているのである。ところがこの男の子は明らかに女の体から生まれたといわれているのであり、また彼は神のみもとに、そのみ座の所にまで引きあげられたと記録されているのである。それでは、女の体から神のみ座に座られるお方として誕生され、神のみ言をもって万国を治めるその男子とは、いったいだれであろうか。彼こそほかならぬ地上での王の王として誕生され、地上天国を成就される、再臨のイエスでなければならないのである。マタイ福音書の冒頭を見れば、イエスの先祖には四人の淫婦があったということを知ることができる。これは万民の救い主が、罪悪の血統を通じて、罪のない人間として来られてから、罪悪の血統を受け継いだ子孫たちを救われるということを見せてくださるために記録されたのである。

 

このように、聖書や原理講論からも「鉄の杖」はサンクチュアリ教会祭壇に置かれた「銃」や「弾丸」ではありませんでした。

自称ルポライターtomy4509は、これまでも【英誤訳】からのサンクチュアリ教会の主要教義である「夜昼の神様論」の「夜の神様(男性格)=天使長」といった「八大教材教本」(お父様み言)から外れた報告をしてきました。さらには、原理講論の【聖霊=女性神】までも否定しての「聖父・聖子・聖霊のホモ・三位一体論」にもメスを入れていましたが、「鉄の杖」も同様です。

 

ヤマトの光氏には、

いつまで金魚鉢の中の金魚で満足されているのか?

 

と、問うていましたがどうなのでしょうか?

 

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ところで、真の父母様宣布文サイト(以下)にても文亨進牧師による「鉄の杖」解釈の間違いの指摘をしていましたので参照してください。

 

(1)原理の解釈:「鉄のつえ」とは「神のみ言」
 ヨハネの黙示録12章5節を引用します。

 

 「女は男の子を産んだが、彼は鉄のつえをもってすべての国民を治めるべき者である。この子は、神のみもとに、その御座のところに、引き上げられた」
 このヨハネの黙示録の「鉄のつえ」を、亨進様は次のように解釈します。
 

「神様はすべての男女に義務として課されたものが鉄のつえによる統治であり、王家の冠と鉄のつえを求めておられます。鉄のつえとは現代版マスケット銃(訳注:アメリカ独立戦争の際にアメリカ人がこの銃を使った)である、AR-15ライフルです」(2019年2月5日の亨進様のスピーチ)

 亨進様は「鉄のつえとは……AR-15ライフル(銃)」であるとします。すなわち、「鉄のつえをもってすべての国民を治める」とは、「鉄のつえによる統治」であり、「AR-15ライフル(銃)」による統治だというのです。


 「VICEメディア」は2018年11月12日、サンクチュアリ教会の〝独自の儀式〟などに対する亨進様の主張を取り上げ、「『神のための銃』AR-15の教会」と題して、次のように報道しました。

 

 世界平和統一聖殿(注、サンクチュアリ教会)は小さなキリスト教の非主流の教派です。発祥の地は韓国であり、アメリカを本拠地にしています。ずっとカルトだと非難されてきました。率いるのはカリスマ的指導者、亨進ショーン・ムーン。あるいは『二代王』です。これらのクリスチャンは神の地上天国を造らなければならないと信じています。そのために銃が必要なのです

 

 このように、「VICEメディア」は亨進様が「神の地上天国」をつくるために「銃が必要」であると主張していることを報道しました。亨進様は、2019年2月5日のスピーチで「鉄のつえ」とは「AR-15ライフル(銃)」であると解釈し、神の願いは「鉄のつえ(AR-15ライフル銃)による統治」であると断定的に述べますが、これは非原理的で誤った主張です。

 

 お父様は「男女間の乱雑な愛の関係をつくり」出さないために、神様が与えてくださった良心こそが「人間の三大主体」であるとして、その〝良心作用〟の重要性を訴えておられます。そして、子女のために「汚染されることのない、清くて純粋な環境をつくってあげなければならないのが皆様の責任です」と語っておられます。
 そのため、毎日、家庭で父母と子女が完全に一つとなって行う〝訓読教育〟の実践が重要であることを何度も強調してこられたのが、お父様のご指導です。
 サンクチュアリ教会のように、「神の血統を守り継承の決意」をするのに「銃を持って写真を撮る」必要性はどこにもありません。