パシセラ氏記事”聖霊の役割を果たすのは誰?”への考察 | peaceのブログ

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「天の父母様聖会」とは、政治、宗教、経済、学術、メディアなどのの壁を超えたコミュニティーです。
人類の父母である神様の元に人類が一つの家族となり、平和世界の建設という理念を掲げているのが、「天の父母様聖会」です。

以下、パシセラ氏記事(2021-05-06)です。

パシセラ氏の前回記事「聖霊の役割を果たすのは誰?(1) | パシセラのブログ (ameblo.jp)」の『祝福と理想家庭』からの引用(以下)を見れば、「この小羊の婚宴とはイエス様(再臨主)と聖霊である一人の女性が実体をもって結婚式を挙げること」と、文総裁のみ言を挙げていました。

以下は文鮮明師のお話からです。

 

「キリスト教の中心は何でしょうか。イエス様です。新郎であるイエス様が新婦を迎えることです。これがまさしく小羊の婚宴です。この小羊の婚宴とはイエス様と聖霊である一人の女性が実体をもって結婚式を挙げることです。(祝福と理想家庭)

と同時に、原理講論からの引用も挙げていました。

「父は一人でどうして子女を生むことができるだろうか。堕落した子女を、善の子女として、新たに生み直してくださるためには、真の父と共に、真の母がいなければならない。罪悪の子女たちを新たに生んでくださるために、真の母として来られた方が、まさに聖霊である . . . このように、聖霊は真の母として、また後のエバとして来られた方であるので、聖霊を女性神であると啓示を受ける人が多い。すなわち聖霊は女性神であられるので、聖霊を受けなくては. . .」

 

つまり、上記の原理講論の部分は、聖霊とは、アダムの相対として真の母の使命を果たす存在であるという、聖霊の女性格と役割を明確にするための説明であると解釈するべきで、真の母となる人物の神格化と服従への要求に使われるべきものではありません。原理講論の骨子には、イエス・キリストを神格化することに対する否定と、イエスが人間であることの証明があります。ゆえに、その相対であるとされる聖霊も、神格化されるべきではありません。むしろ、アダムの相対であるエバに与えられた、女性の役割の観点から、聖霊は理解されるべきだと考えることができます。

 

先ずは、パシセラ氏記事の原理講論の同じ引用文からは、私の過去記事で面白いものがありました。以下は「日本語聖書は「聖霊」と「御霊」を分けているが韓国語はごった煮状態! | 奇  知  外  記 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)(2019.12.05)」からの一部引用です。

なるほど、そういうことか!!​
韓国語と違い日本語の原理講論は「성령」(ソンニョン:聖霊)と「성신」(ソンシン:聖神)を分けることなく「聖霊」としていたということだ。

 

…(略)…

 

韓国語聖書全てを確認したわけではないので一概には言えないが、日本語聖書と対比した時韓国語聖書はごった煮状態といえるのではないか。
逆の意味、韓国語原理講論ではそれを分けて記載しているということは、私たちにとっても新しい発見であり、(あります。)

 

【「성신」(ソンシン:聖神)の例文】
 죄악의 자녀들을 다시 낳아 주시기 위하여 그 참 어머니로 오신 분이 바로 성신(聖神)이시다.그러기에 예수님은 니고데모에게 성신(聖神)으로 거듭나지 아니하면 하나님 나라에 들어갈 수 없다고(요한복음 3장 5절) 말씀하셨던 것이다.
 이와 같이 
성신(聖神)은 참 어머니로서, 후해와로 오신 분이시기 때문에, 그를 여성신(聖神)으로 계시 받은 사람이 많다.그리고 성신(聖神)이 여성신이시기 때문에 성신(聖神)을 받지 않고서는 예수님 앞에 신부로 설 수 없는 것이다.이와 같이 성신(聖神)은 성신이시기 때문에 위로와 감동의 역사를 하시는 것이며(고린도전서 12장 3절), 또 해와가 지은 죄를 탕감복귀하시기 위하여 죄를 씻는 역사를 하시지 않으면 아니되는 것이다.그리고 예수님은 남성이시므로 하늘(양)에서, 성신(聖神)은 여성이시므로 땅(음)에서 역사하시는 것이다.

 

罪悪の子女たちを新たに生んでくださるために、真の母として来られた方が、まさしく聖霊である。ゆえに、イエスはニコデモに、聖霊によって新たに生まれなければ、神の国に入ることができない(ヨハネ三・5)と言われたのである。 このように、聖霊は真の母として、また後のエバとして来られた方であるので、聖霊を女性神であると啓示を受ける人が多い。すなわち聖霊は女性神であられるので、聖霊を受けなくては、イエスの前に新婦として立つことができない。また、聖霊は慰労と感動の働きをなさるのであり(コリントI一二・3)、エバが犯した罪を蕩減復帰されるので、罪の悔い改めの業をしなければならないのである。さらに、イエスは男性であられるので、天(陽)において、また、聖霊は女性であられるので、地(陰)において、業(役事)をなさるのである。(『原理講論』p264~5)

 

ほか、

 

2.韓国語『原理講論』の「성령」(聖霊)と「성신」(聖神)の違い
「성령」(聖霊)14ヵ所と「성신」(聖神)63ヵ所をすべてチェックしてみた結果として言えることは、神の御霊を意味する場合は「성령」(聖霊)、イエス様の相対としての霊的真の母を意味する場合は「성신」(聖神)と表記されているようです。

 

…(略)…

 

4.韓国語の『原理講論』が聖霊と聖神を区別している理由
それでは、どうして韓国語の『原理講論』では「성령」(聖霊)と「성신」(聖神)を区別して表記しているのでしょうか?
おそらく、もともと『原理講論』はキリスト教伝道を目的として書かれたものだったので、聖書の意味する「聖霊」と「統一原理」の意味する「聖霊」を混同させないためだったのではないでしょうか。
そのため、キリスト教の解釈にはない女性格の神を意味する場合は、「성신」(聖神)と表記したのだと考えられます。

上記を読めば、パシセラ氏記事の「聖霊とは、アダムの相対として真の母の使命を果たす存在であるという、聖霊の女性格と役割を明確にするための説明である」とする解釈には一理あると見ることが出来ます。

 

ところが、イエス様は(堕落)人間の価値くらいにしか見ていない、というのがパシセラ氏一文からの印象です。

原理講論の『キリスト論』--第二節 創造目的を完成した人間とイエス--からは、創造理想を完成した人間は神自身となることは出来ないが、「神のような神性をもつはずの価値的な存在」、「天宙的な価値の存在である。」と、イエス様の価値を評価しては、第三節では堕落人間との比較もしていました。

同様に、イエス様(再臨主)の新婦である「聖霊」ともなれば、「創造理想を完成した女性(善悪を知るの木)」として同等の価値が付与されて然るべきです。男性が「王様」となれば、その妻は「女王」となるようにです。

 

また、パシセラ氏(「FPA(家庭平和協会」))独自の理論でもって「(聖霊は)神様の理想家庭です。」、と置き換えたりもしていました。世間一般でも容認されるものではありませんので、これもスルーされるべきものです。

 

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さて、今回記事(2)からもいくつかの引用を挙げては独自の「聖霊論」を展開しているように思います。

ある一面を捉えての引用文であり、そこにも手落ちがあるのではないでしょうか?

 

以下「祝福と理想家庭」からは、「種」をキーワードとしたお父様のみ言をいくつか拾ってみました。

 イエス様は霊界で、二千年間何をしてきたのでしょうか。イエス様を信じて霊界に行った人々は、いまだに結婚できない父親と同じ立場、イエス様の体中にある種と同じで、天国に行くことができずに楽園にとどまり、イエス様の新婦を待っているのです。天法がそうなっているからです。

 

  3、血統転換の意味

 人が生まれるのは、男性から生命の種が女性に入ることからです。それならこの転換の道は、どこに行って、その交差点をつくらなければならないでしょうか。それは、女性の腹中です。歴史はずっとそこ、すなわち原点に戻る条件を立てる歴史でした。

 それなら、女性の腹中に胎児を懐妊するという時、そこには男性がいなければならず、結局、家庭が形成されなければならないのです。しかし、完全復帰ということを考える時、男性の骨肉の中に潜んでいる子供の種が出発点となります。すなわち、その男性の血肉の中にある子供の種の基準までも、神様の愛を中心として一致したという条件を立てなければなりません。その過程を通過しなければ、完全な血統的転換の基台のための条件を充足させることができません。(21)

 子供の種は、お母さんの腹中にあります。お父さんにもあるでしょう。お父さんのものは、骨の中にあります。ですから、お父さんの骨の中を通って、お母さんの腹の中を通って、子供が生まれてくるのです。

 では、子供はどのようにしてつくられますか。お父さんとお母さんを通してつくられます。皆さんは、お父さんの骨の中と、お母さんの腹の中を通してつくられたということを知らなければなりません。歴史というものは、おもしろいです。(22)

 イエス様を信じているキリスト教徒は、本然の基準を中心として、イエス様の骨髄から生まれる息子・娘の位置に入っていかなければならないのです。それがどういうことかと言えば、アダムが生まれる前に、息子の種をもっていたように、今日のキリスト教徒たちは、イエス様の骨髄から生まれる息子・娘とならなければならないということです。そうしようとすれば、イエス様と一つにならなければなりません。イエス様と愛の一体をなした後に、聖霊
(聖神)、すなわち霊的なお母さんを通して、再び生まれなければならないというのです。そでイエス様は、ニコデモに重生(新生)しなければならないと言われたのです。(23)

 本来、人が生まれる時、霊人体と肉身が分かれて生まれるようにはなっていません。ところで、イエス様が死ぬことによって霊的復活のみ成したため、霊人体は生まれたけれど、肉身は生まれることができなかった立場にあるので、イエス様は肉身をもって再び来ざるを得ないというのです。それゆえに、イエス様を信じて霊界に行った人は、イエス様が再臨する時もう一度来て、お母さん、お父さんの腹中を経て再び生まれたという条件を立てなければ、生きる道がないというのです。言い換えれば、皆さんは、真の母を迎える前に、お父さんの骨の中に娘・息子の種として存在していて、お母さんを通して出てくるのです。聖霊(聖神)を通して主を探すのは、真の父の骨の中の子供の種の立場に入っていこうとするためなのです。霊的にそのような立場を蕩減復帰するのです。

 それで、イエス様が再臨する時に、霊的にお父さんの骨の中に子供の種として入った者たちが、イエス様の肉身を通して一つとなり、お母さんを通して出てくることができるのです。それが復帰の道です。心情と血統を交換するためにあるのが復帰の道なのに、今日キリスト教徒たちは、このようなことは考えもしないで、ただ信じて天国に行こうというのですから、話が理屈に合いません。

 再臨主は、霊的にイエス様の体の中にある、種の立場に立つキリスト教徒たちを、全部相続しなければなりません。キリスト教徒たちは、まだ完全に重生していません。彼らは、イエス様の体の中にある種と同じ立場にあると見ることができます。しかし、彼らがそのような立場に立っているのも、どこまでも霊的な面のみなので、実体の父として来られる再臨主を迎えることのできる基台を立てなければなりません。

 聖霊
(聖神)が母の使命をなしてこられましたが、実体の父が来なければなりません。真の母が現れる前に、真の父と一体化しなければなりません。ですから、皆さんは、まだ結婚していない完成したアダムの体の中にある種の立場に戻らなければなりません。本来の立場に立ち戻らなければならないのです。

 このように私たちすべてが、堕落していない真の父から新しく生まれなければなりません。堕落していないアダムの体から出発した種が、母の胎内で懐胎しなければならないのです。そこにある種は本物であり、私たちはその位置に戻らなければなりません。真にそのことが、統一教会によって成されています。(60)

 今日、統一教会においても同様です。みんな、先生に絶対的にほれなければなりません。男性も女性も、先生に会いたくて涙を流さなければなりません。自分の妻よりも、自分の夫よりも、自分の横にいる子供よりも、先生にもっと会いたいと思い、より愛することのできる心がなければなりません。そのような心が出てこなくては、神様と連結され得ないのです。私たちが一九五〇年代にみ旨の道を出発しながら、このような役事をしてきたのです。

 その時には、統一教会の食口たちは、母がいない時であるにもかかわらず、先生だけを中心として、先生が悲しめば自分も悲しみ、先生が喜べば自分も喜びながら、先生と共に同感することのできる心情的一体の場に入っていたのです。それでは、その原因はどこにあるのでしょうか。それは、父の腹中に入っている子供の種と同じ立場に入っていくためです。

 それゆえ、父が悲しめば子供も悲しまなければならず、父が喜べば子供も喜ばなければならないのです。そのような立場で心情的一致点を備えなければ、父の腹中に帰る道がないというのです。それゆえに、心情的体恤が問題だというのです。

 しかし、父の腹中にある子供の種になっただけでは不十分なので、ここに母の腹中を必要とするのです。すなわち、母の腹中を通してもう一度生まれなければならないのです。

 それで、先生が一九六〇年(一九六〇年四月十一日)に聖婚式をすることによって、真の母が立てられました。これによって皆さんは、父の腹中にいる時に感じた愛の恩恵を感じて、お母様を愛し侍り得ることによって再度お母様と因縁を結んだので、初めてそのお母様の愛の因縁と連結させて出生できるのです。このようにして出生する皆さんは、変わらなければなりません。(61)

 統一教会員たちは、自分の母、父を置いておき、なぜ昼夜、先生に付き従っているのですか。皆さんが、先生の骨の中における子供の種と同じ心情的因縁をもたなければ、条件的にもう一度生まれ得る道がないからです。お母様と先生を、全く同様に愛して生まれたという条件を立てなければなりません。真の父母に侍らなくては、もう一度生まれたという条件を立てることができないのです。皆さんは、そのような過程を経ましたか。このような話は初めて聞くでしょう。このような内容があるとは夢にも思わなかったでしょう。先生はこのような内容を知ってこのみ旨のために生きてきた人です。(62