大垣市で多くの方々を看取られてきた看護士の方とゆっくりとお話しする機会がありました。

 

彼女は多くの経験の中で、

 

やはり、みんな自宅で最期を迎えたいのではないかとおっしゃっていました。

 

私ならどうかしら?

 

独り者の私としては、自宅でというのはかなり無理があり、

 

最期は、病院か施設、

 

施設なら、最期までシャンパンを飲ませてくれるような施設がいいなと、昔から冗談で言っておりました。

 

父親は最期まで自宅に帰りたい、帰りたいといいながら、

施設から病院に運ばれて亡くなりました。

 

母親は、自宅では不安であるし、あなたたちに迷惑をかけたくないといい、緩和ケアの病院で亡くなりました。

 

だけど、一度だけ主治医に、そりゃあ家に帰りたいけど、それは無理と話していたのを聞いたことがありました。

 

やはり、家に帰りたかったのかなと思うと、なんともやるせない気持ちになります。

 

母を家で看るのも、仕事がないときは良いけれど、仕事があるときはどうするのか。

 

急変したときに、医者がすぐに来てくれるのか、

いろいろな迷いはあります。

 

だけど、コロナ禍において、病院や施設に入ってもらう=会えない、になります。

 

病院も、看護士や理学療法士がこのコロナ禍でリハビリや会話を頻繁にしてくれることは考えられません。

 

イコール、、QOL(生活の質)が落ちるのは当たり前。

 

すると、足腰が弱り、認知にもなっていくでしょう。

 

自宅で最期を過ごすには、昔でいう家政婦さんのような人が自分のいないときは変わってくれるなどの仕組みがあれば、という話になりました。

 

母親は頑張り屋さんでもあったので、私が亡くなったらこうしてああして、などというように、死後の話をほとんどしませんでした。

 

なので、亡くなった後、困ることもありました。

 

しかし、それが他人であれば、わりと冷静に話をすることができると、自分の両親を看取り、現在、ご主人の両親を介護している彼女は言います。

 

うんうん、まさに今、旦那の母親を介護している姉も同じことをいいます。

 

自宅での看取り、オランダにいくとヘルパーさん数人でタッグを組んでサポートしてくれると言います。

 

まさに、高齢社会の日本、さらに団塊の世代の人達が高齢者の仲間入りしていく中で、新たな発想が必要ではないかと思います。

 

コロナ禍で会えない父親とZOOMで面会する姉と私。

亡くなる4カ月前でした。