母の四十九日法要を姉とふたりだけで執り行いました。
オミクロン株の猛威の中、まん防の前日でもあったため、ふたりだけでもできたことは救いです。
お坊さんにお経をあげていただき、ありがたいお言葉もいただきました。こうして、法要ができたことも仏様になった母の導きであること、私たちのことだけ考えて生きてきた母の与えてくれた時間でした。
お斎も姉とふたりだけで近くのお寿司屋さんでいただきました。
ふたりで過ごすのは葬儀の前日だけだったため、ふたりゆっくり母の思い出を語り合いました。
私たち娘のため、父のため、人のために生きてきた母。
肉体のすべてを使いつくして眠るように亡くなりました。
父が逝ったときは、「あ~あ父が死んでしまった」という感覚。父の霊がそこにいる様でした。生きることに頓着していた父が死んでしまったという驚きのような感じ。主語は「父」でした。
しかし、母が逝ったとき、「人は死ぬんだ」
つまり、主語は母ではなく、「人」だったという点で姉と私は共通した感覚だったのです。母の霊はそこには存在せず、崇高なところに行ってしまったような。。。
生に頓着するわけでもなく、自然に消えていった母。まるで飛ばしたシャボン玉が消えるようでした。
不思議な感覚はまだまだ続きそうですが、母が私の中に残してくれた多くのことを活かした人生にしなくてはと想う四十九日でございます。
