10月30日朝、父が他界しました。
晴れ男の父だけに、快晴の朝でした。
最期はかなり苦しみましたが、仏様となった父の顔はとても穏やかで、高貴ささへ漂っていました。
59歳で脳梗塞になり、それからは右手右足が不自由ではありましたが、杖をついてどこでもでかけていました。
ひとり居酒屋に行き、大好きなお酒も飲んでいたようです。
ちょうど2年前に持病の糖尿病が悪化し、岐阜市の病院に担ぎ込み、無理やり入院させてもらい、一命をとりとめました。
とはいえ、私たち家族は助からないだろうと思っていました。同じようなことが過去にも何回もあり、其のたびに助かる父。
まさに不死身な父でした。
岐阜市の病院を退院した後は、膝の調子が悪い母のことを考えて施設に入った父。
施設にいたのもつかの間、また体調を崩し、結局、避けていた人工透析を始めることになりました。
週3日、施設から大垣中央病院へ人工透析に通う生活が昨年の春から始まりました。1か月もたたず、今度は心臓が不整脈に。ペースメーカーを容れることになりました。
大垣市民病院での手術は4時間はかかったでしょうか。
血管の細い父の手術は大変だったようです。
さあ、こうなれば10年は生きれるなと言っていた父でしたが、今年の5月、足の壊疽が見つかり、それからは病院通い。
週に1度は治療に通うため、私も毎週東京と大垣を行ったり来たり。
血管カテーテル手術をするには血管が細すぎるとのことでした。
毎回、治療のために大きな声で痛い痛いと叫ぶ父、
その割には、喫茶店でケーキを食べてるときは、旨い旨いとご機嫌な父。
といっても、ここ半年は足の痛みで夜は眠れず、何度もベッドから落ちていた父。
家に帰りたくてもコロナのため、それもままならず、すこしコロナが収まりかけた9月上旬に2泊3日で帰宅。
おいしそうに盛田屋のラーメンを食べていた姿を茅ヶ崎からヘルプのため帰省していた姉とふたりで笑いながら見ていたのがつい最近のよう。
そうはいっても足の痛みはおさまらず、ベッドに座って眠る父でした。壊疽の部分を下にしたほうが痛みは和らぐとのことでした。
そして、10月22日の診察ではついに右足をひざ下で切断することに決まり、月末には実行するはずでした。
しかしながら、足から菌が入り、敗血症にかかり、脚を股から切断するか、緩和ケアという選択を迫られました。切断しても助かる見込みは薄く、手術台の上で息絶える可能性があるとのこと。
結果、私たち家族は緩和ケアを選びました。
亡くなる30日までモルヒネで痛みを緩和しましたが、それでも苦しそうに身振りで薬を要求する父。
亡くなる2日前の父は、
「お~い、お~い」と誰かを呼び続けていました。
「お~い、いったらあかんて!」
誰を呼んでいたのでしょうか。
最期は、朦朧として話すことすらできず、息を引き取りました。
2年前のように、私が帰省していたときに病院に担ぎ込んでいれば、助かったかもしれない。
そんな後悔の念は、しばらくは私の頭から離れないように思います。
本日初七日。
少し気持ちは落ち着いてきましたが、大垣市民病院や中央病院、施設の近くを通ると、毎回別れるときに左手をあげる父の姿が浮かんできます。
若いころは、わがままで自由奔放、家族に苦労させた父ではありましたが、今思えば、この父親のおかげで私はかなり強くなれたように思います。
不死身で生きることをあきらめなかった父のDNAを誇りに、これからも前に進んで生きていきたいと誓った本日初七日です。
パパ、ありがとう。
安らかに眠ってくださいね。
※6月、コロナ禍で父とZOOM面会! 姉と私は東京から!
