というタイトルにすると実に重々しい。



先日実家に行った際、母が

シュウカツ!シュウカツ!

と騒いでいた。


もちろん「就活」ではなく「終活」のことである。


もう数年前から騒いでいる。


こうなると"晩年は終活しかしてないな"ということになりかねない。


とにかくモノは減らして子供達に手間をかけないようにという心がけはこちらとしてもありがたいことではある。


葬式はとにかく簡便にとその場で葬式プランを探し出す始末。


ちょうど10万円くらいのプランがあって「これでいいじゃない、ね、お父さん」なんてふられたオヤジは同意しながらも苦笑い。



そんな我が家。


祖父母の代からなのかある新興宗教に入っていた。


富士講にルーツをもついわゆる神道系のもの。


特に祖母が熱心にやっていたようだったが、息子であるオヤジもそこまで帰依している様子もなかった。


法事といっても仏壇のような小さな祭壇に線香やお供物をあげたり、定期的に墓参りに行ったりする程度。


いよいよ両親が祖母を引き取り実家にその祭壇が移された。


そして祖母は亡くなりその祭事を両親が引き継いだ。


実家には年1、2回教師(坊さんみたいな人)が来てお経みたいなものを唱えるということをやっていたらしい。

(自分は参加したことはない)


強制されたことはなかったがいずれ自分も引き継ぐのかなと思っていた数年前のこと。


「もうやめたから。」


実家に行ったとき唐突にオヤジが言った。


宗教ってそんな簡単にやめられるんだ。


終活してるさなかに宗教団体から抜けるとは我が親ながらなかなかFunkyだ。


信徒の年会費の徴収方法や本庁施設整備のための寄付金要請に我慢がならなかったとのこと。


そうはいっても他の宗教に比べても費やす費用はかなり安価ではある。


年会費や年1、2回の家での祭事でも数千円、葬式に教師を呼んでも数万円ですんでしまう破格設定。


これが仏教系なら坊さんへのお布施は戒名代なんかも含めると目がチカチカしちゃう話はよく聞く。



両親は自分よりも超現実主義なので「そんなにお金いっぱい払っていいことあるの?」などと考えてしまうのだろう。


そんなことでついに脱会したのだが、その後何度も教師の方が説得に来てたらしい。


そしてぺいやん家は晴れて?無宗教となった。


一応墓はあるし葬儀となれば家族葬だろうし特に問題はないかと。



信仰をもつことは全く否定することはないが、宗教はいまだかつて世界を平和にしたことがないことも事実。


そういえば昔こんな記事も書いていた。


神様は見たことがないのでいるともいないとも言えないが、ご先祖様は確実にいるのでそちらには常に感謝の気持ちをもっている。


自分がいつも「『運』がいい」と感じているのもご先祖様のご加護があるのではとも思う。


毎年初詣で祈祷もしてもらうが神様に何かお願いするというより自分に対する新たな「マインドセット」の意味でやっていただいている。



ここ最近はある宗教団体と政治の癒着や新興宗教のカリスマや教祖が相次いで物故したりと界隈は騒がしい。


そういえば新興宗教っていろんなやり方で勧誘活動に精を出しているけれども、大昔からある既存の宗教ってあまり勧誘活動してない気がする。


2040年には現存する寺の3分の1は消滅すると言われている。


人口は減るし若い人は入信しないだろうしきっとそうなるのだろう。



宗教の話題は"デリケート"というか"タブー"というか極めてクローズドなジャンルに感じるけど、もっとオープンでもいいような気もする。


信仰は自由だが、依存・傾倒しすぎて生活が破綻した人を知っている。


何かにすがっても人生のあらゆる局面で選択し決断するのは自分自身。


信仰が助けになることもあるだろうが、周りに直接助けになってくれる人がいたらまた違うのだろう。



知り合いの靈氣マスターは言った。


「信仰する宗教にかかわらず常日頃"祈り"をしている者は手から発するエネルギーが強い」と。


「思い」はそのまま「エネルギー」になるのだろうか。


きっとそのエネルギーは「利他」のエネルギー。



こんなことを考えていたら自分がいかに"己のことばかり"考えているかを思い知らされるハメになってしまった。