あざます。ぱよ造でふ
批評(ジャッジ)だいきらい その③ です。
最近は、批判されることはない、と書きましたが
たとえば、歌を歌ってると批評はあります。
ただやっぱり、直接的には よかったよ
と言った人々が、別のところで
あれはちがった、あれはもっと… なんて
言ってたよ――と、なぜかべつの人経由で
必ず耳に入ってくるんですね―
コンニャロ―と思う以上に びっくりします。
なににびっくりって、
ダブルスタンダードな批評家のことより
ど―あっても否定的批評を耳にしたいんだという
じぶんに一番びっくりします。
褒められてるときですらも どこかで
あなたはわたしを判ってない
否定しないなんて、おかしい
とか思ってるじぶんを見つけます。
我ながら、こじらせてんな―と思います
周囲を見ても、TVを観ても、ネットを観ても
いつも誰かが誰か(なにか)を評してる。
政治批判も
芸能人ネット炎上も
観に行った舞台の出来栄えを
あれやこれや評論するのも
日常的に、目に、耳に入ってくる。
好きなもの、大事なものを讃える。
その同じ口で、同時に
好きなものと対極にあるものを
引き合いに出して、けなす。
否定じゃないよ……と前置きしつつ、disる。
批判は言うのは平気だけど
言われたときの逃げ足は光の速さ。
一神教。
原理主義。
戦争の原点も、 元をたどれば
一番好き にあるのでしょう。
いったい何様目線?
ほんと、うんざりする。
うんざりな上、滑稽で笑える。
全部、わたしもやってること。
批判してるときって、なにか わくわくしない?
あれ、なんなんだろう?
裁きまくって
裁かれるのを心待ちにしている。
世界はじぶんが創っている。
じぶんがじぶんに与えたものしか受け取れない。
そう最初に言い出したひと、誰なの?
ほんと、あなたの仰るとおりです (笑)
そんな感じに、ふつふつと煮詰まりゆき
外に出れば、ひとの言葉に いちいち苛立ち
近親憎悪を煽られ
家にこもれば無力感に腐れる日々。
この時間がいつまで続くのかなと
思っていたところに、じわじわと
存在感を顕にし始めたのが、なぜか
マグダラのマリアさん なのでした。
(つづく)