ポール・マッカートニーには、まだ誰も聞いたことのない
面白い話がたくさんある。英版『GQ』が、新たなポールの
いち面を発掘するインタビューをおこなった、その後編。
By GQ JAPAN編集部 2019年1月5日
ジョン・レノンとビートルズ
「60年代にロンドンでLSDをやってトンでたときに、世界の真実が見えちゃったことがあったんだ。いちばんすごかったのは、
螺旋がずーっとあって。その螺旋の上を、いろんな色の宝石
みたいなのがいっぱいのぼっていくわけ。すごくキレイだった。で、それからしばらくして、DNAの螺旋が発見されたんだよ」
最近、マッカートニーは経験者の友人からマイクロドージングをすすめられた。彼はマイクロドージング否定論者ではないが、「孫までいるようなトシになって、いまさらそういうのは
もういい」と思ったという。「すすめられたときは、60年代の
頃のプレッシャーの感じが蘇ってきたよ」。ビートルズのなかで、彼はオクテの良い子タイプだとみられていた。現実にも、LSDに手を出したのは4人のなかで最後だった。
「やったら最後、戻ってこれないと聞いてたし、病院送りに
なるのはゴメンだった。僕はすごく現実的なタチで、それに
関しては父親の影響が大きいね。彼はすごく分別あるタイプで、息子も分別重視の方向で育てたから」
─でも結局のところドラッグには手を出したわけで、
やってみて、どうでしたか。戻ってこれなかった?
「んー……。そうだね。でも、やる前に想像したほど
悪くはなかったな。おかげで見えたこともあったし」
─では、やってよかったと?
「んー……。そうだね。もっとサッサと覚めてくれたら
いいのにと思ったりはしてたけど」
─ジョン・レノンとのパーソナリティの違いとして
そのへんのことがあると、以前どこかで……。
「たしかにいったね。なにごとにつけ、常に僕のほうが
注意深かった。やはり、父親の影響が大きいと思う。
でジョンはというと、母子家庭で育った。お父さんはどっかへ
いっちゃっていたし、叔父さんもいなかった。
いっしょに暮らそうとしたけど、死んじゃった。
ジョンは、自分は鬼子なんじゃないかと思うっていってたよ」
─自分が受けようとしていた穿頭手術をあなたもやるように
ジョンがいってきたというのは、本当ですか?
「皆さんご存じのとおりジョンはぶっ飛んだやつだったし、60年代はそんな時代だったんだよ。頭蓋骨にちょっと穴を開けて、
プレッシャーを抜いてやる。なるほどよさそうだ。
『オーケイ。じゃあジョン、どんな感じになるか、
まずは君がやってみてくれ』って僕は」
─2人して穿頭手術を受けようとか、彼は本気で?
「どうかな。違うと思う。それに、僕がノーといったら、
それはほんとにノーってことだから。そんなことがわからない
ジョンではなかったし、だから僕としても、
『この大馬鹿野郎!!』とまでいう必要はなかったんだ」
─では、ビートルズ末期のミーティングで彼が自分のことを
イエス・キリストだといったというのは……。
「覚えてない。でも『サージェント・ペパーズ』のとき、
ジャケットにキリストとヒトラーを出そうとしたのは覚えてる。結局、笑い話で終わったけど。たしかにヒトラーも有名人では
あるけど、ヒーローではない。ジョンのヒーローといったら
それはウィンストン・チャーチルだったから、ヒトラーの件は
やっぱりたんなる悪ふざけの提案だったと思う。
そういうことをするやつだから」
いつものインタビューとは違ったカタチでポールに自身の過去を振り返ってもらうという狙いのとおりになったこともあったし、ならなかったこともあった。場合によっては、その場で話題にもなっていない件に彼が怒りの反撃を試みてきたりもした。
たとえば─。
「ビートルズが崩壊したとき悲しかったのは、ビジネスのことを考えたら僕がビートルズに対して訴訟を起こすしかなかったことだね。そして結局僕が悪者になった。ジョンがビートルズよりもヨーコをとって去っていったから解散になったのに。まわりからさんざん悪者扱いされたから、当の僕自身、ことによるとほんとにそうなのかもと思いかけたよ。訴訟の件で最悪だったのは
それ」
でもそうかと思うと、ビートルズ結成前の、衝撃的なまでに
ヴィヴィッドで生気あふれる話が聞けたりもした。
「あのときは、ジョンの家にいたんだ。僕らだけで。
酒飲んでパーティとかではなくて、1人ずつ椅子に座っていた。電灯を消して、誰かがマスターベーションを始めた。続いて、
他の全員も」。いたのは5人ぐらい。マッカートニーとレノンと、レノンの友人が3人とか。各々が任務遂行に励むなか、
誰かが叫んだ。「『ブリジット・バルドー!』『ウォー!』
とか、そんなの」とマッカートニー。「想像をたくましくして、
全員さらに励んだわけ」。そのとき、別の1人がムードを台無しにしてやろうと企んだ。それが誰かは、ご想像のとおり。
「ジョンが、『ウィンストン・チャーチル!』とかって(笑)」
─そういう儀式は、当時よくやっていたんですか?
「いや、1回きり。あるいは2回きりとか。いまにして思えば
バカなことをやったものだけど、でも罪のない遊びだよね。
少なくとも、誰をも傷つけなかったし。
ブリジット・バルドーをふくめてね」
カニエ・ウェストとの楽曲制作と今
2014年のこと、2008年に知り合ったカニエ・ウェストから
メッセージが来た。いっしょに曲作りをやりませんかと誘われてマッカートニーはイエスと答えた。L.A.のビバリー・ヒルズ・
ホテルの裏手にあるバンガローで2回か3回にわたって
おこなわれた曲作りのセッションは、マッカートニー的には少々困惑ものだった。長々としたトークの合間に思いだしたように
彼はアコースティック・ギターやピアノを弾き、
それをエンジニアが録音していた。カニエ自身もiPhoneで。
「僕がよく知ってる曲作りとは、だいぶ様子が違ったね。
ちゃんと演奏するとき用にベースをもっていったけど、
使わなかったし」
それがカニエ流だった。件のセッションで彼らは曲そのものを
作ってはいなかった。そうではなく、「素材のストック」を
作っていたのだ。たとえばカニエの『オール・デイ』で、
マッカートニーは20人もいる作曲者の
─あるいは「素材のストック」に貢献したうちの─
1人としてクレジットされていた。
「まさか、ケンドリック・ラマーといっしょにやってるとは
思わなかった! 実に名誉なことだよ」とマッカートニー。
「ケンドリックや他の18人がどこをやってるかはわからない
けど、いまはそういう作りかたなんだ。いいじゃない」
ブラーやゴリラズで有名な英国人アーティストのデイモン・
アルバーンいわく、このコラボは「才能の無駄遣い」。
彼自身も巻き込まれそうになり、マッカートニーに「ご注意を」とメールを送ったという。
「デイモンがリスペクトしてくれてるのは嬉しいけど、
僕は別に迷惑とか失礼だとか思ってはいないんだ。
いきたければどこへでも、誰かに止められたって出かける。
それでおもしろかったらいい。カニエが僕を使ってあげたん
だなって思う人がいっぱいいるだろうけど、そのとおり」
ウィングスのアルバム『バンド・オン・ザ・ラン』の録音を
ナイジェリアでやっていたとき、ポールと、当時の妻のリンダは道に迷った。地元の人のアドバイスを無視して暗いなかを
徒歩でホテルへ戻ろうとしたからだった。途方にくれていたら、フェラ・クティ(ナイジェリア出身のミュージシャン)の
バンドの演奏が聴こえてきた。眠気を誘うようなピアノのリフ。気がついたら、ポールは泣いていた。
「あの曲は一生忘れないよ。まだリフを覚えてる」。
コンサートを終えたリヴァプールのキャヴァーン・クラブの上の階の楽屋で彼はそういった。その宣言どおりにというべきか、
部屋の一角に置いてある電気ピアノのところへいき、電源を
入れた。そして45年前に聴いて涙した曲のピアノのリフを
再現してみせた。ポール・マッカートニーが弾くようなものとはとても思えないフレーズを、ぴったり正確に。
ポール・マッカートニーの表向きの顔は、どこにでもいる普通の人のそれだ。ただのはったりかもしれないし、また一面の真実かもしれないが。だが今回、何度も会ってともに時間をすごすなかで、ほかにもいろんな顔がチラ見えした。もっとずっとヘンだったり、脆かったり、うぬぼれ屋だったり、カタブツだったり、
つましかったり、オタクだったり、エキセントリックだったり、楽しくやれる感じだったり。それがわかったのが今回の収穫の
ひとつ。なぜなら、いろんな顔のどれひとつとして、彼の
成分として不必要だったり無関係だったりはしないだろうから。
インタビューのどアタマでもそれっぽいことはいっていたが、
当初彼はとくに大きな夢などもっていなかった。全然。
キャヴァーン・クラブのようなところで毎晩毎晩毎晩演奏して
将来の栄光を築き上げようとか、そんなことは。
その後に起きたことは、だから本人をふくめて誰にとっても、
まさかの事態だった。
「ちょっと小遣い稼ぎをしてクルマでも買って、
女の子たちとつきあって……ぐらいだったんだ」と彼はいう。「でもそれが、こんなことになっちゃった。
人生、なにが起こるか……」