ポール・マッカートニー 語録 MP4 「ジョン・レノン 失われた週末」メイ・パンが語る | ポール・マッカートニー 語録

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Paul McCartney In His Own Words

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 ビートルズ瓦解後のジョン・レノン(1940~80年)の

人生には、「失われた週末」と呼ばれる時期がある。

1973年9月から75年2月までの18か月間のことだ。

妻オノ・ヨーコと別居していたその1年半は、

酒に溺れた迷走期だと一般的にはとらえられてきた。だが、

当時、ジョンと一緒だった女性メイ・パンが明かす歴史は、

通説と様相を異にする。

ドキュメンタリー映画「ジョン・レノン 失われた週末」(5月10日から全国順次公開)で、ジョンとヨーコの神話の陰に隠れてきた「私の物語」を語ったメイ・パンにインタビューした。

 

「これは私自身の物語」

 

 <私の名前はメイ・パン。これは私自身の物語だ>という言葉とともに映画は始まる。監督とプロデュースはイヴ・ブランドスタインとリチャード・カウフマン、スチュアート・サミュエルズが共同で手がけた。

 

 メイは中国系移民の両親のもとニューヨークで生まれ育ち、

1970年、19歳の時に音楽業界に飛び込んだ。

職場はビートルズと関係のあったアブコ・レコード。

翌年、ジョンとヨーコによる前衛映画制作を手伝ったのを機に、2人のパーソナルアシスタントに指名された。

そして73年、10歳年上のジョンと恋に落ちる。

ジョンはニューヨークの自宅ダコタハウスを離れ、

メイと2人でロサンゼルスに旅立ち、1年半をともにした。

 

 のちのインタビューでジョンは、この時期について

「18か月間の『失われた週末』」と語っている。

酒に溺れる作家を描いた映画「失われた週末」

(ビリー・ワイルダー監督)になぞらえたらしい。

実際、この時期のジョンはやんちゃな夜遊びでメディアに

派手な話題を提供していたが、同時に、もっとも多作で

商業的に成功した時期でもあった。

エルトン・ジョンをゲストに迎えた「真夜中を突っ走れ」で

ソロ活動では初めての全米シングルチャート1位を獲得。

ほかにもアーティストたちとの交遊を作品に結実させていた。

 

 本作は、その日々の始まりから本当の終わりに至るまで何が

あったのか、メイはどのような思いをジョンに注いでいたのか、彼女が語る言葉を軸に描き出していく。2人一緒の日々が

いかに濃密であったかを物語るのは、彼女が撮影した写真だ。

ビートルズ解散後のポールとのツーショットなど音楽史的に

貴重な瞬間をとらえたものも多いが、何より心に残るのは、

飾らぬ笑顔のジョンを撮ったくさんの写真……。

その豊穣な日々の母体として、愛情深いメイとのラブストーリーがあったことが浮かび上がる。ジョンと、最初の妻シンシア

との間に生まれた長男ジュリアンとの再会を手助けしたのも、

メイだった。

 

「世の中に出回っているのは神話」

 

 それから半世紀を経て、なぜメイは改めて映画で

「失われた週末」について語ったのだろう。オンラインでの

取材に応じたメイは、すべての質問に明朗に答えた。

 

 「私は現実に起きたことをすべて知っていますが、

世の中に出回っているのは『神話』であって、

真実ではありませんでした。でも、その神話、

そのうそが繰り返し語られれば、真実とすりかわってしまう。

私は、そろそろ実際通りに正す時期が来たと思いました」

 

 「世の中には(ビートルズのことに)精通している

ハードコアなビートルファンもいて、そうした人たちが

私に会うと言うのです。

『あなたが語ってくれるのをずっと待っていた。

その(時期の)一部については知っているけれど、

あなた自身から聞きたい』と」

 

 「ジョンが『失われた週末』と言ったのは、その通り。みんなが『あなたはいつも酔っ払っていたね』と言い続けたので、

彼は『ああ、失われた週末みたいなものだ』と答えたわけです。後にジョンは私に言いました。『マスコミは(失われた週末を)失われた時間というかもしれないけれど、そうじゃない』と。

そこにいなかった人は口を出すべきではない。

そして、私の物語、真実の物語を取り戻す時がきたのです」

 

 きっかけは、監督のひとり、イヴ・ブランドスタインとの会話だった。彼女は約4半世紀前、メイのジョンとの日々の映画化を持ちかけた。それは成立しなかったが、2人は友人になった。

 

 「最初にイヴが考えていたのは、私の本の映画化権の取得

でした。でもそれから25年後、友だちとしておしゃべりを

していた時にドキュメンタリーのアイデアが出て、

それこそ私が求めていたものだと伝えました」

 

 メイは、1983年に自伝「Loving John」、

2008年には彼女の写真と文でジョンとの日々を振り返る「Instamatic Karma」(日本語版の当初の書名は

『ジョン・レノン ロスト・ウィークエンド』、改題・新装版は『ジョン・レノン 失われた週末』=ともに河出書房新社)を

発表している。

 

「かつての本に関しては、私がそれを書いたことすら

知らない人もいました。今回のドキュメンタリーを見て

『本を書いたらいいんじゃないですか』

という人たちがいっぱい出てきたのだけれど、

『書いたわよ!』って。ふふ。おかしいでしょう。

なぜ知られなかったのか、本当のことはわからないけれど」

 

 神話の陰に隠れてしまったもの。

それが一人の女性の声であったことが、

世の中の仕組み、メディアの構造、

そして歴史はいかにして作られていくか

ということについても考えさせる作品でもある。

 

 「かつてジョンは私にこう言っていました。

『真実は明らかになる』と。この物語を語るのに

50年もかかるとは思ってはいませんでしたけどね」

 

 「今、私たちは、より視覚的、映像的な時代を生きている。

日常的にビデオ通話を使ったり、TikTokやインスタグラムで発信したり。それと映画は少し違うけれど、テクノロジーの

進化によって今は人々に物事が伝えやすくなったと思う」

 

 「私の人生、私の物語」を伝えようとする姿は共感も集めた。

 

 「たくさんの女性、若い女性から、私は彼女たちの

『ヒーロー』で『尊敬している』という声をもらいました。

そんなふうに言ってもらえるなんて! とても誇りに思います。そして彼女たちにはこういうふうに言うことにしています。

『いいかな、真実を手放さないようにすれば、

その真実はあなたを導いてくれる』って」

 

「これが私の知っていたジョン」

 

 映画そのものの作り手は3人の監督たち。

口出しはしなかったという。

 

 「イヴがまずリチャードを連れてきて、彼が撮影部分を担当。スチュアートはストーリーラインを全部把握した

(資料映像担当の)アーキビスト。

話し合った上で私は3人にまかせることにしました。

あれこれ口出しして、『これがいい』とか『これはいや』

と言うような人間にはなりたくなかったから。

彼らをコントロールせず、自由にやってほしかった。

そして完成した映画を見た時、

これがまさしく私が求めていたものだと感動しました」

 

 映画の柱は「メイの物語」だが、写真や彼女以外の人々の

証言、当時の映像、さらにはジョンが残したイラストつきの

メモなどがそれを支えている。

ジュリアン・レノンも重要な証言者の一人だ。

メイはジュリアンの母シンシアと強い友情で結ばれていた。

 

 とりわけ強く印象に残るのは、数々の写真に映るジョンの

リラックスした表情。メイのカメラの前の彼には構えたところがない。この映画に加え、メイは写真展も開いている。

 

「これらの写真は、私が撮った、私のもの。見て楽しむだけに

撮ったもので、気取らぬ家族写真に近いものです。長い間、

私のベッドの下の収納スペースにずっと保管していました。

それらの写真の中のジョンを見て、みなさん、とても驚きます。彼が笑っているのを初めて見たという人もいます。ポーズを

取るどころか、まるでカメラを意識していない写真もあります」

 

 「これが私の知っていたジョン。私たちはそんなふうに

(写真に写っているように)暮らしていました」

 

 「もちろん世間一般のボーイフレンド、ガールフレンド同様、浮き沈みはありました。

でも、全体としては建設的なものでした。

たくさんの人々が周囲にいて、たくさんの友人に会いました。

そして私は重要な出来事が起きた時、いつも一緒にいました。

ジョージ(・ハリスン)と再会した時はうれしかった。

ジョンがポールやリンゴと話している時もうれしかった。

彼らはビートルズというグループではなくなっても、

ずっと『兄弟』でした。いろいろなことを一緒にやってきて、

その後もずっと互いを大切にしていた」

 

「またポールと曲を書くべきかな」とジョンは言った

 

ジョンがメイに贈った2人の未来予想図のようなイラストなど、見ていて胸が詰まるような思いにさせられる瞬間もあるが、

メイ自身の語りは終始明快だ。

 

 「私の言葉は心からのもの。やっと胸の中にあるものを解放することができて、人々に見てもらうのと同時に聴いてもらえる。だから大丈夫でした」

 

 音楽的に豊かな日々であったことも、

「もちろん」伝えたかったという。

 

 「私はずっと彼の表現と創作のサポーターでした。

彼が曲を書きたいと言ったら、いつでもそれを優先しました」

 

 「私たちが別れる直前、

彼は私に『またポールと曲を書くべきかな』と尋ねてきました。私は思いきり勧めました。

『もちろん書いたほうがいい。

あなたがたのソロはもちろんグッドだけれど、

2人一緒なら、グッドを超えてグレートになる』と。

彼はそれを理解して、ポールが滞在していたニューオリンズに

行くつもりになっていました。そこでポールは次のアルバム(「ヴィーナス・アンド・マース」)の制作プロジェクトを

進めていました」

 

 ただ、ほどなくしてジョンはダコタハウスに戻り、

「すべては変わりました」。もっとも

物語はそこで終わったわけではないという点にも注目したい。

映画の終幕、映しだされる「現在」の足取りも心動かす。

 

 見た後は、濃密な18か月間を

「失われた週末」と呼ぶのはちょっと居心地が悪く思える。

そう伝えると、メイ・パンはほほえみながら、こう言った。

 

 「だから(英語での原題は)

『The Lost Weekend:A Love Story』なのよ」。要するに、「失われた週末」は「ある愛の物語」でもある。

 

2024/05/09 讀賣新聞オンライン