ポール・マッカートニー 語録

ポール・マッカートニー 語録

Paul McCartney In His Own Words

当ブログは公表された著作物の出所を明示した上で、
規定に従って正当な範囲内で引用しています。

 7月20日午後、ニッポン放送では、公開収録イベント
『傑作「MIND GAMES」とジョン・レノンの真実』を開催。
ジョン・レノンやオノ・ヨーコと親交のあった湯川れい子は
2人の素の姿などを語った。

 

ビートルズが1966年に日本武道館コンサートのため

初来日した時に取材を行った湯川。

当時の一眼カメラで撮ったモノクロ写真が公開されたのだが、

“取材した”という証明の写真を撮る際、

ポール・マッカートニーがその場を仕切り、

「誰と一緒に撮りたい?」と聞かれ、

湯川が「リンゴ・スターと撮りたい!」とリクエストすると、

ポールがジョージ・ハリスンに「撮ってあげなよ」と促し、ジョージが撮影するに至ったという貴重なエピソードを明かした。

 

湯川に『MIND GAMES』の印象を聞くと、「(リリース当時は)このアルバムのことを全然好きじゃなかった」と明かす。

「ジョンがなぜあんなにもヨーコに影響を受けるのかがわからなかった」とも言うのだが、後にヨーコと親交を持つようになり「あの当時のジョンは不安定でお酒やドラッグに依存していて、(ヨーコは)偉大な存在なんだと分かるようになった」

とのこと。

 

ジョンと愛人関係にあったメイ・パンにインタビューした際の

エピソードも。ヨーコは、ジョンがメイ・パンと

『MIND GAMES』の宣伝に出ることを

「メイ・パンにジョンのことを頼んで送り出した」

と言っていたそう。しかしメイ・パンは「ヨーコからそんなことは頼まれていない。2人の意思で行動したんだ」と言っていたと、複雑な男女の思いが交差していたことが明かされた。

 

また、湯川はジョンから聞いた話として、

FBIや米政府から疎まれていた1970年当時、

ジョンがエルヴィス・プレスリーに電話し、

自身にまつわる米政府とFBIの動きを止めてもらえないかと

エルヴィス頼んだというエピソードも明かした。

 

2024-07-20 ニッポン放送 NEWS

 元ブラック・サバスのギーザー・バトラー(B)は、

バンド・メイトのオジー・オズボーン同様、若いとき、

ビートルズに大きな影響を受けたそうだ。

英国人のバンドでも成功できると希望を貰ったという。

米ミシガンのロック・ラジオ局107.7 RKRのインタビューで、

オジーと同じようにビートルズの影響を受けたかと

問われたバトラーは答えた。

 

「彼らの影響はとてつもなく大きかった。

当時、彼らみたいなバンドはいなかったから。
それまで、僕の兄たちはエルヴィス(・プレスリー)や

エディ・コクラン、バディ・ホリーなんかに夢中だった。

英国人ではいなかった。英国のロックンローラーたちは全て、

アメリカのサウンドを出そうとしていた。

アメリカのコピーだった。そして、成功しなかった。

 

そしたら、ビートルズが出てきた。

彼らは完全にオリジナルのサウンドだった。

しかも、全員、リバプール出身だった。僕らが生まれたところ

から90マイル(約145キロ)しか離れていない。

英国人のミュージシャンでも成功できるって、僕らに希望を

与えてくれた。ビートルズが成功してすぐ、ザ・ローリング・

ストーンズ、キンクス、ザ・フー、ハーマンズ・ハーミッツと

続いた。ブリティッシュ・ポップ・ミュージックの爆発だ」

 

2024.7.16 BARKS

中村明美の「ニューヨーク通信」

 

 日本では来週7月19日から開催されるポール・マッカートニー写真展が、一足先にNYのブルックリン美術館で開催中だ。

 

Paul McCartney Photographs 1963-64 Eyes of the Storm

と題された写真展で、ブルックリン美術館では5月3日から開始した。オープニングで見て来たのだけど、これがあまりに

素晴らしいので、日本のみなさんも一刻も早く行って欲しい。


https://www.eyesofthestorm.jp/
7月19日〜9月24日:

東京シティビュー(六本木ヒルズ森タワー52階)にて。
10月12日〜2025年1月5日:グランフロント大阪 北館にて。

この写真展が特別なのは、ビートルズが初めてアメリカに

来て大旋風を起こし、頂点に上り詰めるその瞬間の3ヶ月間、1963年12月〜1964年2月にポール自身が見ていたもの、

彼がペンタックス(会場にカメラも展示)で撮影した

パーソナルな写真が約250点も展示されるということ。

行けば分かるけど、かなりの見応えだ。

しかも、この60年前に撮られた写真は、2020年に

別のプロジェクトで倉庫を整理していた際に発見されたもの。

ポール自身は紛失したと思っていて、つまりこれまで世界で

誰も見たことがなかった写真なのだ。まず、ロンドンの

ナショナル・ポートレート・ギャラリーで

去年6月1日〜10月1日に開催され、現在世界を巡回している。

 

何百万人もの人達が、急に僕らに注目した。

その最中に、僕は絶対に忘れないような写真を撮った」。

 

この写真展の何が感動的かと言うと、恐らく音楽史の中でも

最も重要な瞬間を、ポールにしか見えていなかった視点で捉えられていて、それがあまりにピュアで尊いものに感じられること。しかもその写真が60年間も眠っていたわけだし。

 

ポールはこの写真展に関して、見た人に「この時期ならではの

僕らの、喜び、イノセンス、驚きなどを感じてくれたら嬉しい。それから良い写真が撮れてると思ってくれたら嬉しいな

と語っている。

写真展は、彼らが旅した順番に並べられている。当時の4人

のみならず、ファンが追いかける様子なども写されている。

以下大まかな流れ。

 

1)1963年リバプール、ロンドン

2)1964年パリ

3)1964年ロンドンからニューヨークへ
4)1964年ニューヨーク

5)1964年ワシントンDC

 

いくつかお気に入りの写真があるんだけど、これはその1枚なんだ。この女の子には、どこかすごく安らかな感じがあるよね。すごい良い気があるように思うんだ。ヘッドスカーフも素敵だしね。彼女の反応が好きなんだ。

それからこの写真(マイアミ警察の写真)。

イギリスでは警察が銃を持っているのは見ないからね。

だから車から見て、すぐに目がいって撮ったんだ

 

6)1964年マイアミ

 

マイアミの写真は、大半が休暇中のものだ。

だからビートルズが、プールサイドでリラックスしている、

パーソナルな面を見ることができると思う。それは、

旅の中でも、メディアもファンも目にしていない部分だよ

 

60年間見てなかった写真だけど、

35ミリで撮ったものを今はこんなに拡大できるから、

見てみたら、なんとチンパンジーが写ってることに気が付いた

 

(マイアミの写真は)ここでカラーになるんだ。

NYでエド・サリバン・ショーを終えて、とうとうマイアミで

休暇がもらえた。だからみんなで泳いで、プールでのんびり

してる。これがまた僕のお気に入りの写真の1枚なんだけど、

ジョージが人生を謳歌しているところ。
もしリバプールにいる若い時に、いつの日か、
マイアミのプールサイドで、日焼けして、

黄色ビキニの女の子と一緒に、お酒、多分スコッチとコーク、

を飲む日が来るよ、なんて言ったら、

ジョージは、絶対に大喜びしていたと思うんだ

 

以下、アメリカのCBSテレビが

ロンドンのギャラリーで行ったインタビュー。

内容の要約。

 

最高だったのは、写真はもう紛失したと思っていたこと

 

パリにいた時にテレグラムを受け取ったんだ。

『おめでとう! 米チャートで1位だよ』ってね

 

アメリカには1位になるまで行かないと

言っていたことについて。

 

そんなこと言うなんて、かなり勇気のあることだと思う。だけど、(イギリスの)大スターが『アメリカで有名になるんだ』、と行っても帰って来て、有名になってない例をいくつも

見ていた。だからアメリカに行って帰って来て、

敗北してガッカリしたくなかったんだよね

 

アメリカでリラックスしているように見えることについて。

 

僕らはリバプール出身のキッズで、なんとか(アメリカで)

有名になりたいと思ってる。それって簡単じゃない。でも僕らはアメリカでスターになって、みんなに愛されたわけだからね。

みんなすごく嬉しかった。1位になってから行ったのが秘訣

だったと思う。だって、アメリカに着いてジャーナリストに、『ヘイ、ビートル、なんでアメリカに来たんだ?』って

聞かれても、『僕らは、あなた達の国で1位になったんです』

って答えられたわけだからね(笑)

 

NYに着いてからはホテルから出られなくて、

ルームサービスを取るしかなかったことについて。

 

ルームサービスなんて食べたこともなかったからね。

それさえも楽しかったよ

 

NYからワシントンDCへは電車で移動。

写真は電車から撮ったもの。

 

駅で働く男性の写真が好きなんだよね。

自分の街にも同じような人がいるからね

 

マイアミでみんながクールな白いシャツを

着ていることについて。

 

普通ホテルってローブしか置いてないけど、

このマイアミのホテルでは、クールなシャツが

置いてあったんだよね。それから帽子までね

 

60年後に見て覚えていたか。

 

だいたい覚えていたよ。

あまりに忘れらない思い出深い瞬間ばかりだったからね

 

僕にとっては、これはアメリカの歴史の一部であり、

僕の歴史でもあり、ビートルズの歴史の始まりである、と

思ってる。だから、この写真を再発見できて本当に最高だった

 

ビートルズは、1964年2月終わりにイギリスに帰国。

4月までには、米チャートのトップ5を占拠した。

 

2024.07.12 rockin'on.com

 1970年にブラック・サバスのボーカリストとしてデビュー

して以来、世界中のハードロック/メタルファンを魅了してきたオジー・オズボーン。ブラック・サバスだけではなく、

ランディー・ローズ、ジェイク・E・リー、ザック・ワイルド

など、数々の素晴らしいミュージシャンとバンドで演奏して

きた彼が、“夢のバンドメンバー”について語った。

 

オジーが家族と運営する「The Osbournes Podcast」

の最新回で、視聴者から

「“夢のバンド”を組むとしたら誰を選びますか?」という質問をされたオジーは、「ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、私、ジミ・ヘンドリックスを選ぶかな」と答えた。

 

妻/マネージャーであるシャロン・オズボーンに

「ドラマーを選んでないわよ」と指摘され、少し考えた上で

「ドラマーはトミー・クルフェトスにする」と返答。

オジー・オズボーンやロブ・ゾンビだけではなく、

ビル・ワードが抜けたブラック・サバスのリユニオンで

ドラムを担当したトミー・クルフェトスを選出した。

 

リズムギタリストとベーシストにビートルズのジョン・レノンとポール・マッカートニーを選んだオジーだが、

彼は以前からビートルズの大ファンを公言しており、

2022年のローリング・ストーン誌のインタビューでは

「今でも最も好きなバンドで毎日聴いている」と答えていた。

 

また、彼は同インタビューで、ビートルズの2ndアルバム

『With The Beatles』が初めて購入したビートルズのアルバムだと明かしており、

「アルバムを聴くと昔を思い出す。ビートルズのようなブーツ、ビートルズのようなスーツ、そしてビートルズのようなカツラを被って学校に行っていた。あのカツラめっちゃ良かったな」

と学生時代を振り返っている。

 

2024.07.10 Bezzy

 ビートルズはシルク・ドゥ・ソレイユによる『LOVE』が

18年間に及ぶ上演を経て、現地時間7月7日にラスベガスで

閉幕している。

 

2000年にジョージ・ハリスンによって考案されたこの

シアトリカル・パフォーマンスはポール・マッカートニー、

リンゴ・スター、オリヴィア・ハリスン、オノ・ヨーコの

協力によって、2006年6月30日にラスベガスの

ザ・ミラージュで初演されている。

 

公演は特注の「円形劇場におけるテクノロジーを使った

サイケデリックなスペクタクル」による「他感覚のジャーニー」と評されており、新型コロナウイルスのロックダウンによる

中断はあったものの、2021年8月に再開されていた。

 

シルク・ドゥ・ソレイユは声明で述べている。

「『ザ・ビートルズ:LOVE』が最後の幕を下ろしました。

世界各国の1180万人以上の観客を集めた傑作はシルク・ドゥ・ソレイユの歴史においても最も刺激的でカラフルな

パフォーマンスの一つとして永遠に称えられることでしょう」

 

130曲のビートルズの音源を使ったサウンドトラックについて

ジャイルズ・マーティンは2017年に次のように振り返っている。「『LOVE』は常に自分なんか辞めさせられるだろうなと

考えていたプロジェクトでした。ジョージ・マーティンの息子がアビイ・ロードに踏み入れて、ビートルズの手つかずのテープに触れて、ラスベガスでのショウのためにそれを切り刻むなんて

バカげた考えでした。ありえないことだったのです」

 

「彼らはアーティスト人生を刷新してくれる素晴らしいものを

作ってくれました。何事も不可能だとは考えなかったのです。

最近の音楽界というのは少し厳格で、ルールを破るのが難しいのですが、シルク・ドゥ・ソレイユの場合、

おかしなアイディアでも挑戦してくれるのです」

 

2024.7.9 NME JAPAN

 

 ポール・マッカートニーが今年秋から開催する
<Got Back>ツアーの予定です(*追加の場合は追記)。
11/01 コロンビア公演が追加されました。


10/01 – Estadio Centenario – Montevideo, Uruguay
10/05 – River Plate Stadium – Bueno Aires, Argentina
10/06 – River Plate Stadium – Bueno Aires, Argentina
10/11 – Estadio Monumental – Santiago, Chile
10/15 – Allianz Parque – Sao Paulo, Brazil

10/16 – Allianz Parque – Sao Paulo, Brazil *
10/19 – Estádio da Ressacada – Florianópolis, Brazil
10/23 – Mario Alberto Kempes – Córdoba, Argentina
10/27 – Estadio Nacional – Lima, Peru

11/01 – Estadio El Campin - Bogota, Colombia *
11/08 – Estadio BBVA – Monterrey, Mexico
11/12 – Estadio GNP Seguros – Mexico City, Mexico
11/14 – Estadio GNP Seguros – Mexico City, Mexico *

11/17 – Corona Capital – Mexico City, Mexico

12/04 – La Defense Arena – Paris, France
12/05 – La Defense Arena – Paris, France
12/09 – Wizink Centre – Madrid, Spain
12/10 – Wizink Centre – Madrid, Spain
12/14 – Co-op Live – Manchester, UK
12/15 – Co-op Live – Manchester, UK
12/18 – The O2 – London, UK
12/19 – The O2 – London, UK


2024年06月12日(水) ポール・マッカートニー 語録 

2024年10月に南米でツアー開催
https://ameblo.jp/paulmihow/entry-12855797977.html

2024年06月17日(月) ポール・マッカートニー 語録 

2024年12月に英国&欧州でツアー開催
https://ameblo.jp/paulmihow/entry-12856511810.html

2024年06月21日(金) ポール・マッカートニー 語録 

2024年11月に南米ツアーでメキシコ公演を追加開催
https://ameblo.jp/paulmihow/entry-12857019870.html

 

ポールはブラジル公演について次のように述べている。「2023年をブラジルで締めくくったのは素晴らしい体験だった。前回訪れた時にみなさんが見せてくれた愛とあたたかさは素晴らしいものだった。戻って、もう一度会わないと、と分かっていたんだ」

 

2024.7.2 NME JAPAN

 10ccのグレアム・グールドマンが米SPIN誌の企画

「これなしでは生きられない5枚のアルバム」で

ビートルズのリボルバーを選んでいます。

 

「ビートルズがなかったら、ここにいないだろう。

彼らは、ソングライター、ミュージシャン、プロデューサー

としての僕の行動のほとんど全てに影響を与えてくれた。

彼らのアルバムならどれを選んでもよかったのだが、

このアルバムには僕が書くことを夢見ることしかできないほど

素晴らしい曲が入っている。No Beatles, No 10ccだよ」

 

2024/07/06 amass

 作曲家・ミュージシャン・プロデューサーのアル・クーパーがビートルズメンバーとのエピソードを回想しています。

 

■ジョージ・ハリスン

「1981年にジョージのアルバム『Somewhere In England』に参加した。ユーモアのセンスという点で、僕たちは本当に

意気投合していた。僕がハリウッドに住んでいた時、

夜の11時に玄関のベルが鳴った。ビートルズのジョージが、

一度も訪れたことのない家に、まったくアポなしで突然訪ねて

きたんだ。彼はそういうことをしていた」

■ジョン・レノン

「ジョンを知ったのは、彼がLAに亡命していた頃、

ハリー・ニルソンと過ごした時期(70年代半ば)だった。

彼はウィットに富んでいて、特に昼間に会うと素敵だった。

夜はほろ酔いがちだった。僕は両方の状態の彼を知っている。

僕がレーナード・スキナードのセカンド・アルバムを

制作していた頃、レコード・プラント・スタジオは

僕たちのクラブハウスになっていた。

ある日、ジョンがコントロール・ルームに入ってきた。

彼が去った後、スキナードが尋ねてきた。

“今のジョン・レノンだったの?”。僕がそう答えると、

彼らは深いため息をついて言った。

“あー、ちょっと休憩しよう”。そして彼らはそうした」

■ポール・マッカートニー

「フェイセズのドラマー、ケニー・ジョーンズのセッションで、マッカートニーがベースを弾いているのを見て驚いた。

彼は後に妻となるリンダと一緒だった。

僕の仕事の一部は、リンダが参加できるように、

キーボードで弾くことを教えることだった。

本当に奇妙なことだったけど、とにかく僕はそれをやった。

休憩時間にマッカートニーはピアノの前に座り、

“Georgia On My Mind”を弾いた。素晴らしかったよ」

■リンゴ・スター

「リンゴのドラムが大好きだった。ジョージ・ハリスンが

プロデュースした彼の曲で演奏したこともある。リンゴは僕と

一緒に撮った素晴らしいポラロイド写真を今でも持っているよ。この写真は、僕の著書『Backstage Passes&Backstabbing Bastards:Memoirs Of A Rock‘N’Roll Survivor』に掲載されているよ。この本はもうすぐ再版される予定だ」

 

2024/07/05 amass