ポール・マッカートニー 語録

ポール・マッカートニー 語録

Paul McCartney In His Own Words

当ブログは公表された著作物の出所を明示した上で、
規定に従って正当な範囲内で引用しています。

 ポールが動物や自然を愛していることは周知の事実で、

彼の曲作りには自然界が定期的に取り上げられています。「Country Dreamer」(最近リリースされた「The Backyard – One Hand Clapping Sessions」に収録)のような曲は、

田舎とその中に住む生き物に対する彼の感謝を示しています。

 

実際、ポールは6月に彼のお気に入りの動物は馬であることを

明らかにしており、彼が長年にわたって馬に乗っているすべての写真やビデオを考えると、それは理にかなっています。

彼のアパルーサ馬は2020年にマッカートニーIIIのアートワークを飾り、「3 Legs」のミュージックビデオには、

RAMが収録された頃にポールとリンダが

スコットランドの農場で馬に乗っている映像が含まれています。

 

これを念頭に置いて、今月の「You Gave Me The Answer」の質問は、Facebookのジェニファーから来ています...

 

ジェニファー:私のお気に入りの写真のいくつかは、馬に乗ったあなたです。最初に馬に乗ることを学んだのはどこで、

そして今でも乗っていますか?

 

ポール:リンダと一緒に学びました。

彼女はとても上手なライダーでしたが、

私が彼女の馬を買うまでは自分の馬を持っていませんでした。

彼女が大学にいたとき、彼女はアリゾナ州スコッツデールにある地元の厩舎で手伝っていました-その見返りに、

彼女は馬や何かに乗ることができました。

 

彼女は実際に15歳のときにマディソンスクエアガーデンで

乗馬チームと一緒に乗っていました。

それに参加するには、上手でなければなりません! だから、

基本的に彼女は私に何をすべきかを教えてくれました。

 

PaulMcCartney.com:1969年から1970年にかけてスコット

ランドでライドをしている様子を撮影した映像がありますが、

とても自信に満ち溢れていますね。

 

ポール:そうそう、学ぶのにそれほど時間はかかりませんでした

。しかし、それは正式なレッスンではありませんでした。

ただ『馬に乗って、まっすぐに座れ』という感じでした。

むしろ、姿勢やお尻を押し込むことなどが重要でした...

そして、たくさん転んで学びました!

 

僕がついにヘルメットを手に入れたことを知って、あなたは喜ぶでしょう。いつもカウボーイか何かのような気がしていたので、帽子をかぶるのが好きだったと思います。

でも、ナンシーとメアリーはヘルメットをかぶっていて、

孫たちはみんなヘルメットをかぶっていたので、

僕は分別を身に付けた方がいいと思ったんだ。

これはごく最近のこと、ここ数週間のことです。

速報:僕は豪華な新しい帽子を手に入れました!

 

27.08.2024 PaulMcCartney.com )自動翻訳を一部修正

 ウイングスのカタログの中ではあまり知られていない曲の一つ

だけど(おそらく「ウイングス」からリリースされなかったからだろう)、心温まるストーリーが込められているのは確かだよ。

 

「Walking in the Park with Eloise」は

50年前の10月に録音されました!

 

ファンに人気のこの曲は、ポールの父ジム・マッカートニーが

作曲した曲としてスタートしたが、1974年に「ザ・カントリー

・ハムズ」によって録音され、リリースされた。この曲は、長年にわたって何度か登場しており、特に2014年にリリースされたVenus and Mars Archive Collectionに収録されています。

2016年には、映画『Ethel & Earnest』のためにオーケストラの演奏が録音され、このバージョンは最近、The 7" Singles Box

にも収録されました。

 

この曲はポールの感情に共鳴しており、

1982年の「Desert Island Discs」に収録された曲で、彼は父が「私の知る限り、1曲しか書かなかった」とコメントしている。

 

そこで、オリジナルのスタジオバージョンが

作成されてから50年を記念して、

Facebookでハリーからの完璧な質問を見つけました...

 

ハリーのFacebook:あなたとウイングスが

「Walking in the Park with Eloise」を

録音したことに対するお父さんの反応はどうでしたか?

 

ポール:ああ、は気に入ったよ。本当にそれを愛していた。

は自分が「書いた」ことを決して認めようとはしなかった。

ピアノで弾いた曲を「作り上げた」だけだと言いました。

それで僕は言ったんだ、

『うん、最近はそれをライティングと呼んでいるんだ!』と。

父は物理的に何かを表記で書き留めたのではないという

意味だったと思う。

 

この曲のレコーディングは、僕がナッシュビルにいたときに

行われた。チェット・アトキンスに話したら、彼は

『君のお父さんのために録音すべきだよ!』って言ったんだ。

だから、それはチェットのアイデアだったんだ。何人か集まって録音したんだ。それから父に聴かせたんだけど、

父は「書かなかった」曲を聞いてとても喜んでくれたんだ。

 

PaulMcCartney.com:

彼が長年プレイしてきたものだったのですか?

 

ポール:ああ、父が僕たちのピアノで作ったものだったんだ。

父はたいてい「古いスタンダード」を全部演奏していたから、

僕はそれらについて豊富な背景知識を持っているんだ。

父は音楽を読んだことはなく、すべて耳で読んでいた。

僕が小さい頃、ピアノに手を伸ばす前に、

すべてがしみ透っていたんだと思う。

 

そういう曲に興味を持つようになったんだ。

フレッド・アステアの曲をテレビやラジオで聞いて、

天国だ、俺は天国にいる!」と歌っていた。

そして、その曲を作るための技術のありがたみを学ぶんだ。

彼がどうやってやったのか、どんなトリックを使ったのか、

僕は理解した。

 

僕の音楽教育の多くは、他の作曲家が使ったトリックを聞いて、「ああ、僕はそれが大好きだ」と思っただけだった。

僕もやるよって。例えば、「Bésame Mucho」という曲は、

マイナーキーで始まり、メジャーキーに入いる。

なんて素晴らしいトリックでしょう!

 

PM.com:「Walking in the Park with Eloise」はナッシュビルで録音されたとおっしゃっていましたね。私たちはそこにある

ラブレスカフェを訪れましたが、そこには「カントリーハム」の広告看板があります。「The Country Hams」というバンド名のインスピレーションはここから来ているのですか?

 

ポール:ああ、その通りだよ。そして、その駐車場で

チェット・アトキンスとジェリー・リードに会ったんだ。

僕たちはそこに行き、食事をした-

桃のプリザーブが彼らの専門だったことを覚えているよ。

 

PM.com:音楽史の素晴らしい作品ですね!

駐車場には小さなプレートがあるはずです。

 

ポール: 

ここがポールがジェリーとチェットに会った場所だよ!」

 

27.09.2024 PaulMcCartney.com )自動翻訳を一部修正

 ロッキング・オン2024年9月号では、ポール・マッカートニーのインタビューを掲載! 以下インタビューの冒頭部分より。

 

「僕はただビートルズから遠ざかるための
道を切り拓いていただけなんだ」

 

ビートルズに関して、最初で最後、そして永遠不変の真実は、

良くも悪くもそれが決して逃れることができないものだという

ことである。ポールがリハーサルを行なっているアビイ・ロード

・スタジオの中に一歩足を踏み入れた瞬間から、その事実は

目が眩むほどに明白なのだ。とにかくどっちを向いてもファブ・フォーのメモラビリアだらけで、その中には今も生きて呼吸を

しているものもあり(休憩スペースでは紛うことなきジョージ・マーティン本人がお喋りに興じていた)、そのすべてが何とも

言えない圧を醸し出しているのである。

 

元祖Apple Scruffs(訳註:ビートルズの追っかけファンの別名

。ジョージ・ハリスンが同名の曲でそう呼んだことから)は

もはや孫がいてもおかしくない世代だが、スタジオのある

通り沿いには相変わらず種々雑多な人々がたむろしていた。

建物の中に戻り、伝説のスタジオ2のコントロールルームで

ポールと向かい合わせで腰を下ろすと、自分の嗅覚までもが

歴史の中に迷い込んでしまったように感じられた。

後にポール本人から半ば冗談めかして言われた、

「おいおい、早くそこから出ておいでよ!」。

 

1970年に時を戻そう。新たに元ビートルズという肩書を得て、あくまで強気ではありながら、彼に与えられていた選択肢には

限りがあった上に、どれも取り立てて魅力的とは言えないもの

ばかりだった。

 

まずひとつめはシド・バレットを踏襲し、以後35年間一切

何の活動もせず沈黙を守り続けることで、移り気な天才が

生み出した無垢の結晶たるレガシーを遺すという道。

ふたつめは自ら自分自身のトリビュートバンドと化し、

つまるところクリエイティブな成長などという観念には

鼻も引っかけずに、『ザ・サージェント・ペパー・レヴュー』や『アビイ・ロード:ザ・ミュージカル』等と銘打っては

数年おきに世界各地を巡り、「あの頃」を懐かしみたがる

大勢の客から根こそぎふんだくって回るという道。

そして3つめは、もう一度原点に立ち戻り、

何もかもまっさらにして再スタートを切る、という道である。
(以下、『ロッキング・オン』2024年9月号記事へ続く)

 

2024.08.10 rockin'on.com

 スティングは、歌いながら歌詞の意味を考えると感情的になりがちなので、曲の本当の意味について考えないようにしていることがよくあるという。特に1993年のヒット曲「Fields of Gold」は「涙ぐんでしまう」と『Professor of Rocck』のインタビューの中で語っています。

「僕はよくあるんだけど、そういった曲を歌う時は、曲の本当の意味について考えないようにしなければならない。そうしないと

、そこに引っかかって(喉を指して)歌えなくなってしまう。

他の誰かが歌ってくれるのを聴いている時は、

少し涙を流してもいいんだけどね (笑) 」

「Fields of Gold」は他のミュージシャンからも称賛されました

。中でもポール・マッカートニーは以前に、

自分が書きたかった曲だとも述べていました。

「あの曲に関して僕が受けた最大の名誉のひとつは、

マッカートニーが遠まわしに、

自分が書きたかった曲のひとつだと言ったこと。

僕が書きたかった彼の曲なら、いくらでも挙げることができる。彼が僕の曲を挙げたことは、

ビートルズ・ファンである僕にとって大きな意味を持つ。

マッカートニーは、僕がソングライターになろうという

勇気を持てた理由のひとつなんだ。

彼とレノンは、自分たちの曲で世界を制覇した。

彼らの例がなければ、イギリスの若者たちの世代全体が、

自分たちもやってみようなどとは考えなかっただろうね。

だから、自分でもやってみようという考えをくれた彼と

ジョン・レノンには感謝しているんだ」

「Fields of Gold」の真の意味について

考えを巡らせたスティングは次のように語っています。

「この曲は、英国のフォークの伝統に深く根ざしている。

伝統について、そして絶え間なく起こり続けること、

つまり生命のサイクルについて語っている。

僕たち現代人は、自分たちのごく近い祖先が、自分たちの祖父母や曽祖父母たちとまったく同じように暮らしていたことを忘れていると思う。来年、自分たちに何が起こるかなんてわからない。でも、僕たちの先祖はそんな不安を抱いていなかった。

彼らは同じことをしようとしていた。

毎年大麦を収穫し、毎年大麦を植えるつもりだった。

だから“Fields of Gold”という曲は、

継続について歌っているんだ。死を越えた愛の継続についてね」

 

2024/09/24 amass

 2015年4月に行われたポール・マッカートニーの 
Meat Free Monday に関するインタビュー映像です。

インタビューの中で、ポールは、自分の農場にいた羊の親子を

見ていた時にベジタリアンになったことや、ベジタリアンでいることがとてもハッピーであることとともに、Meat Free Mondayの主旨と始めたきっかけ、誰でも簡単にトライすることのできるとても良いアイディアであることを話しました。

「みんな、やってみよう、君ならできる!」と呼びかける、

とてもポジティブなインタビューです。

 

第1回:マッカートニー・シリーズとは(総論)
『マッカートニー』   (1970年)
『マッカートニーⅡ』(1980年)
『マッカートニーⅢ』(2020年)

 

第2回:マッカートニー(詳細その1)
①アルバム『レット・イット・ビー』
②アラン・クラインとフィル・スペクター
③ビートルズ解散
 

ジョン「お前はアホだ。言うつもりはなかったけど、俺はグルー
プを抜けるよ。そのほうがさっぱりする。離婚みたいなもんだ」
 

ポール「ビートルズの活動休止の原因は、
個人的、ビジネス上、および音楽的な意見の相違によるもの」
「“レノン=マッカートニー”の共作活動が復活することはない」
「リンダが支えになってくれてよかった」

 

第3回:マッカートニー(詳細その2)
ポール「機材を準備したのはクリスマスの頃だった」

 

第4回:マッカートニーⅡ(詳細その1)
1.アルバム『バック・トゥ・ジ・エッグ』の不評
2.ウイングスを続ける意欲の低下
3.日本での現行犯逮捕と公演中止
 

2011年に発売された『マッカートニーⅡ』のアーカイヴ・
コレクションのインタビューで、ポールは語っている。
 

「僕にとってはすごく変な時期だった。
このバンドで日本に行くのが嫌だったからね。それに
リハーサル不足だと思っていた。そういうのは好きじゃない。
僕は大抵いいライヴができると自信が持てるようになるまで
リハーサルするんだ。その場合は喜んでツアーに出るよ。
でも公演が決まっていて、東京でリハーサルするという話だった
から“うーん、ちょっとギリギリだよね……”って感じだった。
それで動揺していたんだ。で突然逮捕されてしまった。
分かんないけど、すごく奇妙だな、と思うんだ。
まるで演奏しなくて済むようにわざと逮捕されたかのような。
今でも謎だよ。“僕が逮捕されるように、
誰かがそこに置いたのか?”とも思ったりする。
分かんない。サイコ・ドラマみたいだよ」

 

第5回:マッカートニーⅡ(詳細その2)
「カミング・アップ」

「テンポラリー・セクレタリー」

「ウォーターフォールズ」

 

第6回:マッカートニーⅢの発売背景
『エジプト・ステーション』から2年
新型コロナウイルス感染症の世界的流行

 

ポール「今年の初めに休暇でイギリスに戻ってきて、

田舎にある自分の農場に行ったら、

たまたま娘のメアリーと彼女の家族、つまり

僕の4人の孫たちと一緒に隔離生活を送ることになったんだ」

 

「(サセックスにある)自宅スタジオで少し作業をしなければ

ならなくなり、それがきっかけで作業を始めたんだ。

隔離期間中に少しずつ新曲のレコーディングを行なっていき、

夕方に家に帰るとメアリーと家族がいるという、とても

素敵な時間を過ごせたよ。孫たちとのたくさんの時間をね」

 

「映画作品のために、イントロの音楽やインストゥルメンタルが必要だった。それで僕は、スタジオでその音楽を作らなければ

ならなかったんだ。その作業をしているうちに、“悪くないね。いい感じだ、これをやってみようか”と思うようになった。

それから9週間、いろいろやってみて、“ああ、この作品は

完成させた方がいいだろう。おお、完成できそうだ。そう、これでいいんだ”と思って、全曲を通しで聴いてみた。そこで、これは紛れもなく一枚のアルバムになるという確信が得られたのさ」

 

「過去の2作と同じように、すべて自分一人で作り上げたん

だから、『マッカートニーⅢ』と呼ぶのにふさわしいだろ」

 

「ほとんどが新曲だよ。中には、未完成のまま残してあった曲(92年録音の「When Winter Comes」)もあった。スタジオに入ってから“待てよ、あの曲はどうだろう? 

試しにやってみよう”と思って、実際にやってみたら、

“おや、まあ”ってなるんだ。何がよくなかったのか、

なぜ気に入らなかったのかを考えてみると、

場合によってはヴォーカルや歌詞が合っていなかったり、

ただ何かが噛み合っていなかったりすることもあった。

そういう部分を全部削ぎ落とし、

“よし、じゃあ、まったく違う曲にしてみよう”と」

 

「自分一人で考えを巡らしている時は自由度が高いし、

常に僕自身が楽しんでいることでもある」

 

第7回:マッカートニーⅢの聴きどころ

BBC Radio 6 Music用のインタビューで、「パンデミックの

影響を受けた曲があるか?」と聞かれたポールは、こう答えた。

 
「比較的新しい曲のいくつかはね。〈Seize the Day〉は、

辛い時期があっても今を生きるんだと歌う曲だけど、

パンデミックを乗り切るためには、良いことに目を向けて、

それを掴む努力をした方がいいということを僕自身や

この曲を聴いている人にも思い出させてくれるはずだ。

間違いなく僕の助けにもなった」

 英タブロイド紙のThe Sunは、

ビートルズのアメリカ初上陸から60周年を記念して、ビートルズの米国での驚異的な成功を追った新しいドキュメンタリー映画『1964』が、Apple TV+で配信される予定だと報じています。

この映画には新しいインタビューとアーカイブ映像が

含まれており、これまで公開されたことのない

ビートルズの映像も登場するという。

関係者は次のように語っています。
「ビートルズは1964年2月にアメリカ進出を果たし、

歴史を作りました。

Apple TV+では、彼らの成功を振り返るドキュメンタリーが

公開されます。ローリング・ストーンズのようなバンドが

アメリカで成功するための道を

ビートルズがどのようにして切り開いたかも描かれます。

ビートルマニアは英国で異常なほど盛り上がっていましたが、

アメリカ人もそれに負けないくらい熱狂的なファンでした。

ビートルズがアメリカに到着した際に全米を熱狂の渦に巻き込み

、彼らがどこへ行くにも何千人ものティーンエイジャーが

押し寄せたという信じられないような光景は、

人々の記憶に残るでしょう」

情報筋によると、『1964』は感謝祭の11月28日に配信される

予定。その情報筋は「ビートルズファンは必見です」

とも述べています。

 

2024/09/23 amass

 2013年10月14月に最新アルバム『NEW』を

リリースするポール・マッカートニー。飽くなき挑戦と実験、

そして冒険スピリッツを満載したこのアルバムは、

71歳になろうともみずみずしさを無くさない

ポールならではの会心の一作となった。

 

そのポールへのインタビューが到着した。

いまのポールの肉声をみなさんにお届けしよう。

──新アルバムのタイトルは「NEW」ですが、

あなたにとってどういった新しさのあるアルバムなのですか?

ポール:新しい曲、新しい試み、新しい姿勢、新しい演奏方法、すべてが新しいんだよ。

──ニュー・アルバムの聴きどころは?

ポール:皆に気に入ってもらえたらと思う。

曲や、僕の歌い方や、演奏など気に入ってもらえたらいいね。

そして聴いた人に喜びをもたらせるようなアルバムであると

望んでいるよ。それが実現したら嬉しいね。

 

──このアルバムは着手してから完成させるまでに

6年かかったそうですがなぜそんなに長くかかったのですか?

 

ポール:6年かかった理由は、途中で他のプロジェクトを

やったからだ。いろいろなオファーがくるからね。良いオファーならイエスと言う。面白いと思えばすぐに引き受ける。例えば、「ニューヨーク・シティ・バレエのために曲を書いてもらえ

ますか?」と言われた時、イエス!だった。やりたかった。

時間もかかった。また以前から父親の世代が愛したスタンダートを録音するということも考えていた。子どものころに聴いて

育った曲の数々。特別な愛着があるんだ。父親との思い出、

子供のころの思い出。僕にとって特別、あの頃が甦ってくる。

それをアルバム『キス・オン・ザ・ボトム』でやった。それにも時間がかかった。ツアーもやったし。その間にちょっと時間が

できたので、今が新作アルバムをやる時かなと思ったんだ。

──最初は4人のプロデューサーを試すというつもりが最終的には彼らと一緒にアルバムを完成させることになったそうですね。4人の作法に驚きを感じましたか? 4人はプロデューサーと

いうより共作者的な存在だったのでしょうか。

ポール:そうなんだ。最初は、4人のプロデューサーを起用した場合どんなことがを可能か知りたくて、試しにスタジオに入ろうと思ったんだ。一緒にやってみて彼らの作業ぶりをみたとき、

4人とも凄く面白いと感じたんだよ。それぞれ異なる理由でね。

 

ポール・エプワースは実験するのがすごく好きで、

スタジオに行くとアイデアがすでにあって、それを試してみる。マーク・ロンソンは、僕の曲をベターなサウンドにしたり、

ベターなパフォーマンスを引き出しながらやった。

イーサン・ジョンズとはとても自然体で歌いそのまま録音した。心配になって、「あれでいいのかい。ヴォーカルは大丈夫?」

ってきくと「完璧だ」って。

ジャイルズ・マーティンの場合は、何度もテイクをやって曲を

完成させていく。

4人とも一緒にレコーディングするのが楽しかった。

それでそのまま4人全員を起用することになったんだよ。

 

──あなたにとって、

最近感じた新しさ(NEW)なことは何ですか?

 

ポール:僕にとってNEWには沢山の意味がある。

孫がいるが、彼らのいう事すべてが新しいんだ。

子どもの言うことには毎回驚かされるばかりだよ。また、

10歳の娘がいるんだけど、彼女の言うことも何もかもが新しい。先日も「パパ、アルバムのタイトルのNとEとWには

それぞれ終止符を入れるべきよ」って言われたんだ。

それで「なぜだい?」ってきいたんだ。そうしたら、

「終止符をいれたら、これは何の短縮形か?」

って質問されるからだよって。それで僕は

「では“N.E.W”は何の短縮形なのかい?」と尋ねたんだ。そうしたら娘は「Numerous Epic Words(数多くの広大な言葉)!」だって。びっくりしたね。まさに新しい驚きだったよ。

 

2013.10.14 BARKS

 マイケル・ジャクソンが残した遺言にビートルズの版権を

ポール・マッカートニーに譲るとの記述がなかったことで

マッカートニーが失望したとの報道がなされたが、

ポールはこれは事実ではないとの声明を発表した。

 

マイケルは80年代、ビートルズの版権を管理する音楽出版社

ATVを購入。それを薦めたのはポール本人であったが、その後、ポールが版権の買戻しを求めたところマイケルが断ったため、

2人の関係が険悪になったといわれていた。

しかし、ポールは火曜日(2009年7月7月)

オフィシャル・サイト(Paulmccartney.com)に、

マイケルと仲違いしたわけでも遺言の内容に

ガッカリしたわけでもないとのメッセージを掲載した。

「つい最近メディアは、マイケルが僕にビートルズの版権を

譲ると遺言に記したらしいとの考えを思いついたが、

それは完全に作り話で、僕は一瞬たりとも信じなかった。

そしていま、彼が版権を残さなかったことで

僕がショックを受けていると伝えられている。

最初の報道が事実だとは少しも考えたことがなかったので、

僕がショックを受けているというのはまったくの事実無根だ。

 

だから、言われていることを信じないでくれ! 

マイケルと僕は実際、何年にも渡って疎遠になってはいたが、

仲違いしていたわけではない。

こういうとき、メディアはいろんな話をでっちあげようとする。だから時として、

僕は記録を正しておくべきだと感じることがある」

ポールはマイケルが亡くなった直後、

「ものすごく悲しく、ショックだ。マイケルと一緒に仕事をし、親しくできたのを名誉だったと思っている。

彼は優しい心を持った、才能あふれる青年だった。

彼の音楽は永遠に残る。彼との思い出は楽しいものだった」

ポール・マッカートニーとマイケル・ジャクソンは80年代、

立て続けに2曲のデュエット・シングル「The Girl Is Mine」(1982年)「Say, Say, Say」(1983年)を制作している。

 

2009.7.9 BARKS