1995年、元テレビの脚本家でテレビ番組で司会なども務めていた人気タレントの青島幸男が参議院議員を辞職し、東京都知事選挙に立候補した。

選挙前、内閣官房副長官として7人の内閣総理大臣を補佐し、自民・自由連合・社会・公明4党からの推薦、新党さきがけからの支持を受けていた石原信雄の当選が有力視されていた。また、5選不出馬により勇退する鈴木俊一前知事も事実上、石原を後継に考えていた。

 

このとき革新勢力はどうだったか?

1990年代に入り退潮傾向に歯止めのかからない革新勢力は日本共産党、翌年に社会党を離党し新社会党を結党する社会党左派が、早稲田大学法学部名誉教授で弁護士の黒木三郎を擁立した。一方、元NHK記者で知名度の高い上田哲も、市民参加型行政への転換を掲げ、社会党の一部の支持を受けて出馬した。

 

しかし青島は、開発が進む臨海副都心地区で開催が予定されていた鈴木肝煎りの世界都市博覧会の中止を公約に掲げ、石原や大前研一、岩國哲人、上田哲ら有力候補を破り、170万0933票を獲得して圧勝した。

石原信雄の落選は、「国民の政党に対する不信感の表れ」の象徴的な出来事だと言われた。

 

このとき、青島幸男は選挙活動をいっさい行わなかった。

公約には「世界都市博覧会中止・東京臨海副都心開発見直し」「破綻した2信組の救済反対」を掲げていた。

反現職都知事、反カネのかかる選挙だった。

 

都知事選では「30年間、政党に所属しないでやってきた私は都民のために勇気を持って決断し、行動できる」と既成政党の支援を受けず、街頭演説を一切行わなかった。しかし無党派層を取り込んで、与党相乗りの官僚出身候補らに圧勝。当時の自民党幹部は、無党派層を「怪物みたいだ」と表現した。

 

 

この統一地方選挙では、元参議院議員(青島と同期)で無党派を掲げる横山ノックも大阪府知事に当選し、投票率の向上もあって「無党派層」に注目が集まり、同年の流行語大賞にも「無党派」がノミネートされた。

 

で、そうやって生まれた青島都政はどうだったのか?

青島の知事就任後、東京都議会は臨海副都心開発を見直した上、都市博の開催を求める決議を賛成多数で可決する。しかし、青島は「中止補償は金で購いがつく。青島は約束を守れる男かそうでないのか、信義の問題なんだ!」と反対し、公約通り中止を決定した。

 

「青島は約束を守る男か、守れない男か、信義の問題だ」と、就任早々、大見得を切って登場した青島都知事、それが4月11日には「中止したほうがいいという姿勢は変わっていないが、断固中止というまで意固地ではない。規模を3割縮小したほうが財政負担が軽いということになれば、やってもよい」とやや軟化したと思うと、その3日後にはまた、「このまま進めても都民の利益は一つもない」として、規模を縮小しての開催でなく、あくまで中止する考えを示した。それに対してマスコミは、都市博の開催、中止には賛否両論であった。5月18日の東京都議会では異例の記名投票が行われ、賛成100、反対は23という結果、またまた青島都知事の決断を鈍らせた。5月末になって開催まで10カ月と近づく。当初25の企業グループが参加予定していたが、東京はイベントの競合も厳しく、パブルの崩壊、地域活性化のイベントも見直しの時期として、12の企業グループに半減した。それでも出展企業の多くは総事業費20~30億円を投資して、1日も早く決定してほしいと、苛立ちを募らせた。そして悩み迷い抜いた青島都知事は5月31日、遂に中止の決断を下した。公約を果たしたとはいえ、青島都知事の都政運営には暗雲がたちこめていた。

 

 

世界都市博中止問題の議論をしていた最中に、都庁舎の都知事秘書室で青島宛の小包が爆発する事件が起きた。

この小包を開梱していた職員が左手の全ての指と右手親指を失う重傷を負った。後にこの事件はオウム真理教による犯行と断定されている。オウム真理教の宗教法人の所轄庁が東京都であり、宗教法人法による解散請求問題が浮上していたため、都知事の青島が狙われたと思われる。

都知事としての青島は、都市博中止以外には特に目立った施策はなく、2信組救済の税金投入をしないなど、他の公約を守ることもないまま官僚・役人任せの行政に終始した。このため、徐々に青島に対する批判は高まった。

もっとも、オール野党であったために独自色を出すことができなかったという意見もある。

1期務めた1999年、任期満了で都知事の職を退任した。この時、2期目に立候補をするかどうか直前まで決めておらず、態度表明の記者会見の直前でも都政担当記者はおろか、ナンバー2である副知事でさえも退任するかどうかを知らなかった。

「ポスト青島」をめぐる1999年東京都知事選挙では、民主党を離党し、衆議院議員を辞職して出馬した鳩山邦夫を後継指名したが、石原慎太郎が当選し、鳩山は次点に終わった。

 

青島幸男は選挙活動をほとんどしないのに当選した。

いや、選挙活動をしないという選挙活動が、カネのかかる選挙ということへのアンチテーゼの選挙活動だったのだろう。

これは青島幸男がテレビで名が売れていたためにできたことだ。

無名の候補者がやっても何の意味もない。

 

青島幸男現象と比較して石丸伸二現象はどう位置づけられるか?

 

選挙前、石丸伸二は東京都民にほとんど知られていなかった。

しかし、ある層には有名な存在だった。YouTubeを見る人たちにとっては。

安芸高田市の市長として旧態依然とした議会に「恥を知れ、恥を」という市長として有名だったのだ。

それが選挙戦で一気に爆発した。

 

SNSの約20人の部隊がボランティアで集まった。

動画配信や編集が上手い人たちだ。

カメラも数台で撮影し、深夜まで編集している者もいた。

無名の石丸伸二がネットを通じて有名になり、一目リアルに見たいという観衆が集まった。そのなかには選挙権のない他府県の人たちもいた。

でも、ネットや街頭演説はリアルな石丸伸二を伝えていたのだろうか?

 

安芸高田市でのポスター代不払いでの民事訴訟で敗訴したこと。

市議への名誉毀損裁判で二審も敗訴していることなどは大きな話題にはならなかった。

ネット民は知っていたか知らなかったはわからないが、それが政治家としての信用性でフォーカスされることはなかった。

 

これらの裁判を追えばわかるが、石丸伸二がロジカルに物事を解決することが長けているとは到底思えない案件だ。

 

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石丸伸二が安芸高田市の市長を辞職した後の選挙では、反石丸候補が勝利した。

石丸市政に反対していたある人はブログにこう書いている。

 

田舎町で大ウソを交えた劇場型政治の主役を演じた石丸君が、何を勘違いされたのか、著名な財界人に担ぎ出され、選挙の神様と言われるコンサルタント、政党関係者、政治評論家等々に支えられても、完全に泡まつ候補として見られていました。

石丸君の当初の公約は、安芸高田市長選挙の時と全く同じ「政治再建、都市開発、産業創出」を掲げ、唯一具体的な事業は、安芸高田市で将来の財政状況も考えずに実績づくりのために予算化した「学校給食の無償化」だけでした。

安芸高田市において混乱だけを引き起こした「政治再建」、何ら手掛けることもなかった「都市開発と産業創出」が公約として並んでいたのです。

そして、選挙戦の後半に入っても、実業の経験もなくFX取引のレポートを書いていただけの、二元代表制すら理解していない人間が「経済と行政の専門家」を標榜し、内容のない煽るだけの短い演説を繰り返していたのです。

一方で、SNSを使った選挙は他候補を圧倒していたと言われています。

安芸高田市で行われていたように、内容のない煽るだけの演説であっても、動員された観衆を前に演説する姿を切り取って「歯切れのいい言葉と新鮮さを売りにした姿」に編集し組織的に拡散したのでしょう。

 

 

 

テレビで大見得を切るとウケる。

大規模イベントに反対するとある層からは支持がある。

経済活動のなんたるかを考えもしない。

 

SNSのせいで、有名でもない人がお金をあまりかけずに有名になる時代になった。

ホリエモン、ガーシー、ひろゆき、ヒカキン、N国党の立花孝志、そして今回都知事選に立候補した人たちも有名人になる可能性があった。

それに騙される人たちが生まれる。

それは繰り返される。

 

「無党派」と呼ばれるひとたちが正しい選択をするのかどうかはわからない。

 

テレビのインタビューで蓮舫の演説を聞いて、群れから離れていったある人はこう言っていた。

 

「反自民、反○○って反対するのが先にあって、ホントに何をしたいのかがよくわからない」

 

批判が嫌われる時代になったのも事実だろう。

そのくせ、石丸伸二が長老議員ののろまな姿を批判するのを見ると、胸がすく思いになるのはなぜだろうか?

 

政治にも流行廃りがあって、いつも新しい何かが求められる。

都知事選の同じポスターがあふれる掲示板なんかもその象徴だろう。

立花孝志は、今の選挙掲示板への批判だと言っていた。

「自民党をぶっ壊す!」と言った小泉純一郎が壊したものはなんだったのだろうか?

 

そういう無意味なことが今も起きている。

 

批判が批判として機能しない時代。

ポピュリズム的な受け狙いのバラマキ。

紋切り型の弱者救済。

イメージだけで内容がない政策や法改正。

 

これまでもそうだったし、おそらくこれからもそうなんだろう。