(ソ連時代のスーパーマーケット)

 

志位氏の講義の今回分は「利益第一主義」への批判です。

 

 

 

 

1.吸血鬼なのか、それとも経済を動かすアニマル・スピリッツなのか?

 

志位氏は、資本主義批判の第一の角度として「利益第一主義」を上げるのです。

 

中山 それではまず第一の角度――「利潤第一主義」からの自由についてお聞きします。そもそも「利潤第一主義」とはどういうことでしょうか? まずそもそも論からお話しください。

志位 資本主義では、生産は何のために行われるか。マルクスは、『資本論』で、“資本主義では、資本のもうけを増やすことへの限りない衝動が、生産の推進力――生産の動機となり目的となる”と繰り返し言っています。私たちはこれを「利潤第一主義」と呼んでいるんです。

・・・

マルクスは「吸血鬼」という言葉まで使っているのですが、さっき紹介した「オックスファム」の「報告書」の超富裕層のもうけぶりは、「吸血鬼」という言葉がぴったりくるのではないでしょうか。もちろんこれは、超富裕層の人々の個々人の人格を批判しているわけではありません。「資本家」である以上は、そういう「資本の魂」を持たざるを得なくなってしまうということが、マルクスが言ったことなのです。

 

人間が生産に対して駆り立てられることを昔から経済学では話題にされます。

ジョン・メイナード・ケインズは1936年の著作『雇用・利子および貨幣の一般理論』でこのことを「アニマル・スピリッツ」よ呼びました。

 

中山 その人が悪い人だからとか、良い人だからとかいうことではないんですね。衝動に突き動かされているということですね。

志位 ある企業の代表がどんな人格者であっても、資本家としては「資本の魂」をもって行動するということです。「衝動」という言葉が使われていますが、抑えがたい力で突き動かされるということですね。

 

ケインズは『雇用・利子および貨幣の一般理論』で次のように書いています。

 

投機による不安定性のほかにも、人間性の特質にもとづく不安定性、すなわち、われわれの積極的活動の大部分は、道徳的なものであれ、快楽的なものであれ、あるいは経済的なものであれ、とにかく数学的期待値のごときに依存するよりは、むしろおのずと湧きあがる楽観に左右されるという事実に起因する不安定性がある。何日も経たなければ結果が出ないことでも積極的になそうとする、その決意のおそらく大部分は、ひとえに血気(アニマル・スピリッツ)と呼ばれる、不活動よりは活動に駆り立てる人間本来の衝動の結果として行われるのであって、数量化された利得に数量化された確率を掛けた加重平均の結果として行われるのではない。

 

『雇用・利子および貨幣の一般理論』

 

 

 

マルクスはこの資本家の精神を吸血鬼に例えていますが、ケインズは「アニマル・スピリッツ」を人間の経済活動にとってプラスの意味で使っています。

つまり、このアニマルスピリッツがあるから、資本主義社会は製品やサービスのイノベーションを生んだのだと。

ハンガリーの社会主義を経験したコルナイ・ヤーノシュという経済学者は著書『資本主義の本質』のなかで1917年以来の重要なイノベーションを111件ピックアップしています。

 

※リストはこちらを参照。

 

 

 

トランジスタやファックス、電卓、ノート型パソコン、携帯電話、電子レンジからインスタントコーヒー、テトラパック、ボールパンなどです。そのうち合成ゴムだけが、社会主義国であるソ連で開発されたものなのです。その1件だけです。

 

つまり、資本主義のアニマルスピリッツがそういうイノベーションを生み出すことができると結論付けています。

 

 

 

2.商品の余剰と産業予備軍はゼロがいいのか?

 

志位氏は利潤第一主義をパネルにこうまとめています。

 

資本主義では「利潤第一主義」が特別に激烈


1、追求する富は「カネ」の量
2、儲けを市場で競い合う自由競争の社会
3、「生産のための生産」が合言葉

 

そしてこういいます。

 

中山 カネもうけの衝動が特別に激しいと。

志位 そうです。

 

ここまで志位氏は資本主義を批判しているつもりかもわかりませんが、とくにおかしいことを言っているとは思いません。

経済活動における人間の魂の源泉を説明しているだけです。

ただ、ここから資本主義のマイナス面を指摘します。

 

中山 「利潤第一主義」は、具体的にどんな害悪をもたらしているのでしょうか?

志位 大きく言って、二つの害悪を指摘したいと思います。

 第一は、貧困と格差の拡大です。

 第二は、「あとの祭り」の経済です。ちょっと耳なれないかもしれませんが、これについては後で説明します。

 

前者の貧困と格差の拡大については、その通りでしょう。

放っておいたら資本主義のシステムはそうなるようにできています。

そして失業の問題です。

 

志位 マルクスは『資本論』のなかで、資本が蓄積されていくと、技術革新によって、景気が良いときであっても労働者が「過剰」になる、そして「過剰」になった労働者を職場からたえずはじき出すプロセスが進むことを明らかにしています。経済が発展しているのに、仕事につけない「過剰」労働者がいつも大量に存在するという状態が、資本主義社会では当たり前になっていく。

 資本主義が生み出す、現役労働者の数を超える「過剰」な労働者人口のことを、マルクスは「産業予備軍」と呼び、そうした失業、半失業の労働者の大群を生み出すメカニズムを『資本論』で明らかにしました。資本主義社会では、失業は決してなくなりません。資本主義の国で失業者がゼロの国はありませんよね。

 

志位氏はマルクスの言を借りて、失業が絶対悪で、失業者をゼロにすることが良いことだと思わせます。

 

志位 すなわち「産業予備軍」――大量の失業者の存在は、労使の力関係を、資本家にとってすごく有利にしてしまいます。

 

産業予備軍の存在が社会にとって悪なのかどうか、商品の余剰が社会にとって悪なのかどうか?

このあたりが、資本主義社会と社会主義社会の価値観と実際の経済を考えるうえで実は重要なのです。

 

社会主義経済の破綻を経験したコルナイ・ヤーノシュという経済学者はある程度の産業予備軍と商品の余剰は必要だと言っています。

商品に余剰を生まないので良いと思われた「計画経済」のもとで、スーパーマーケットから商品が欠乏し、労働者の品質管理の意欲がない工場から火を噴くテレビが生まれました。

『モスクワのテレビはなぜ火を噴くか』(築地書館)という本があります。

そこにはソ連の計画経済が行き着いたテレビによる月15件の火災事故について書かれています。

 

「ソ連全土で、第11次5カ年計画(1981-85年)の間にカラーテレビが火を噴いて起きた火事は1万8400件、これによる死者927人、負傷者112人、物的損害は1560万ルーブルにのぼった」ソ連内務省の報告として『アガニョーク(灯)』の1987年25号が暴露した数字だ。

 

『モスクワのテレビはなぜ火を噴くか』(築地書館)

 

 

 

計画経済でなく、需要と供給を市場で調整するしくみが資本主義の競争によるイノベーション、品質の向上を保障しているのです。

 

 

3.「あとの祭り」は資本主義より社会主義のほうが反動が大きい

 

志位氏は「あとの祭り」についてこう言っています。

 

志位 マルクスは『資本論』で、資本主義の社会では、「社会的理性」が、いつも“祭りが終わってから”はじめて働くと特徴づけました。これは言葉をかえると「あとの祭り」の経済になるということです。

中山 「あとの祭り」になると。

志位 ええ。資本主義社会では、生産の計画的な管理が可能なのは、個々の企業の内部だけのことです。社会的規模では競争が強制されますから、「生産のための生産」が無政府的に行われる。そのために生産のいろいろなかく乱が起こり、「社会的理性」が働くのは“祭りが終わってから”になる。つまり、「あとの祭り」になる。こういう特徴があります。

 

斎藤幸平氏も同じようなことをマルクスから引用して話を展開するので、けっして志位氏だけが詭弁を使っているとは言いません。

しかし、このあと、恐慌について説明し、こんなことも資本主義のせいにしています。

 

志位 『資本論』を読んでいて驚くのは、資本主義のもとでの「利潤第一主義」による産業活動によって、自然環境の破壊が起こることを早くも告発していることです。これをマルクスは、「物質代謝」の「攪乱(かくらん)」と表現しています。マルクスが『資本論』でとりあげているのは、資本主義のもとでの「利潤第一主義」の農業生産です。もうけ第一で自然がどうなろうとお構いなしという農業経営によって、土地の栄養分がなくなって荒れ地になってしまう。そうすると農業そのものが成り立たなくなってしまう。そうした事態を、マルクスは「物質代謝」の「攪乱」と表現しました。これは、現代に恐るべき規模で起こっていることの先取り的な告発ですね。

 

中国の光化学スモッグ、ソ連のチェルノブイリ原発事故のことはどうなのでしょうか?

そして、農業のことを言うとソ連で進められた農業集団化による失敗、ウズベキスタンでの灌漑の失敗などは資本主義ではなく社会主義計画経済のもとで起きていることです。

 

中山 そうですよね。びっくりしました。

志位 いま起こっている気候危機は、地球的規模での「物質代謝の大攪乱」です。でもこればかりは「あとの祭り」にしてはならなりません。人類は、この最悪の社会的災害を、「あとの祭り」になる前に、「社会的理性」を働かせて、解決することができるかどうかが問われています。

 資本主義のもとでも、その解決のためにありとあらゆる知恵と力を尽くす必要があります。しかし、その解決ができないのであれば、資本主義には退場してもらって、次の社会に席を譲ってもらわなければなりません。

 

 

そうですよね。びっくりしました。

これは、なにかセンスの悪い漫才でも聞かされているようです。

 

中山 害悪だらけの「利潤第一主義」ですが、どうすればこれをとりのぞくことができるのでしょうか?

志位 生産の動機と目的そのものを変える社会変革が必要になってきます。資本主義のもとでは、生産手段――工場とか機械とか土地とか、生産に必要な手段を資本が握っています。そのことから資本はこれを最大限に使って、自分のもうけを最大化しようとする。それがさきほどお話しした「利潤第一主義」を生んで、いろいろな害悪をつくりだす。どうすればこの問題を解決することができるか。マルクスが出した答えは、「生産手段の社会化」――生産手段を個々の資本家の手から社会全体の手に移すということでした。

・・・


中山 「社会化」というのは「国有化」ということですか?

志位 「生産手段の社会化」といいますと、「国有化」を連想される方も多いかと思うんですが、私たちは「国有化」が唯一の方法と考えていません。生産手段を社会の手に移すには、いろいろな方法や形態があって、情勢に応じて、いちばんふさわしい方法や形態を、国民多数の合意で選んでいけばいい。その「青写真」をいまから描くことはできないし、描くことは適切でないというのが、マルクスやエンゲルスの考えでした。社会進歩の道を前進するなかで、みんなで見いだしていく。

 私が、ここで強調しておきたいのは、建前上は、「生産手段の社会化」がやられていたとしても、肝心の生産者が抑圧されているような社会は、社会主義とは無縁だということなんです。崩壊してしまった旧ソ連社会がそうでした。旧ソ連には「国有化」はあった。「集団化」もあった。しかし肝心の生産者がどうなっていたか。抑圧され、弾圧され、強制収容所に閉じ込められ、囚人労働が経済の一部に位置づけられていました。こんな社会は、経済の土台の面でも社会主義とは無縁の社会だったと、日本共産党は大会の決定でそういう歴史的判定をやっています。そして、こういう社会を「絶対に再現させてはならない」と、綱領で固く約束しています。

 

最近ではソ連の国家による計画経済があまりに評判が悪すぎるのを意識してか、日本共産党は「国有化」という表現を避けるようにしているようです。

 

そして、こういうことにしているのです。

 

生産手段を社会の手に移すには、いろいろな方法や形態があって、情勢に応じて、いちばんふさわしい方法や形態を、国民多数の合意で選んでいけばいい。

その「青写真」をいまから描くことはできないし、描くことは適切でないというのが、マルクスやエンゲルスの考えでした。

 

いやいや、計画経済を唱えたのはカール・マルクスで「自由に社会化された人間の産物として彼らの意識的計画的管理のもとにおかれる」(資本論第1部)と言いました。

しかし、マルクスに計画経済によって、経済活動のしくみがどう変わるかの想像力がなかっただけです。

 

1917年のロシア革命の後、内戦状態のなかで戦時共産主義と言う配給制の経済が敷かれました。

生産力があまりにも低いので、レーニンは農業者の資本主義化を一時進めましたが、やがて集団化に切り替えました。

そしてその後、急速な工業化、農業の大規模集団化も導入しました。

農村から都市への労働者の移動や、女性の労働者化などによって労働力人口が急速に増え、ある時点までソ連は経済成長を続けました。労働力人口が増え、工業化が進展する経済成長の時期だったのです。

資本主義の開発独裁の国でも似たような現象になります。

 

しかし、労働力が飽和状態になったあたりから、経済成長は止まり、計画経済が逆に成長を阻害するようになったのです。

 

 

1990年まで東欧の国々は経済成長が止まっていました。

世界の産業構造が変化しているのに、ソ連・東欧ではその波に乗れていませんでした。

そして、商品が市場から欠乏し、不満を言えば反体制派とみなされ、弾圧されました。

ゴルバチョフが改革を唱え、情報公開を進めましたが、それはゴルバチョフの予想を超え、国家の崩壊に至りました。

 

1990~1991年頃の社会主義崩壊により資本主義が一気に導入されました。

しかし、一時期よけいに経済が停滞します。

失業が増え、大量の産業予備軍ができたのです。

 

しかし、数年後、経済は急速に伸びます。

これは産業構造に合わせて、失業者が新たな産業に従事するようになったからです。

 

資本主義社会ではある程度の失業者=産業予備軍を抱え、社会主義国のような壊滅的な社会の崩壊を常に避けています。

 

 

上の表のように東欧のほとんどの国が社会主義計画経済によって国家が壊滅し、資本主義への移行によって蘇っています。

そこには商品の需要と供給を調整する市場があるからです。

同じように労働市場にも需要と供給があり、産業予備軍がその調整をしているのです。

 

しかし、性懲りもなく、志位氏はこういうことを言っています。

 

志位 こうしてマルクスは、「自由」をキーワードにして、「生産手段を集団に返還させること」、つまり「生産手段の社会化」を、わずか数行の論立てで導きだしています。“自由を得るためには生産手段を持つことが必要だが、一人では持てないからみんなで持とう”。これが「生産手段の社会化」だと言っています。ここで言われている「自由」という言葉は、搾取からの自由、抑圧からの自由を意味していると思いますが、もう一つ含意があるように思います。

中山 なんでしょう?

志位 次にお話をする「人間の自由で全面的な発展」につながる「自由」です。これも含まれているように思います。マルクスが、「生産手段の社会化」を「自由」をキーワードにして論じたことは、たいへん重要な意味を持っていると思います。ぜひ心に留めておいてほしいなと思います。

 

レーニン、トロツキー、スターリンはマルクス、エンゲルスを必死で読んでいました。

とくにスターリンの読書量はすさまじく、執務室の隣に専用の図書室がありました。

最近、蔵書のメモ書きも紹介する本が出版されています。

スターリンは、政敵トロツキーの本も線を引きながら読んでいたようです。

 

 

だから、志位氏に言われなくてもレーニンもスターリンもマルクスがどういっていたかは十分に知っているのです。

しかし、「自由」を唱えていて、実際には「自由」を抑圧することはよくあります。

 

その「自由」は一般的には「自由」だが、学校では別だとか。

公務員には「自由」は制限されて当たり前だとか。

 

あっ、そうそう、革命党での「表現の自由」は違うって日本共産党も誰かを除名処分にしましたよね。

唱えていることと、実際に行うこと。

これが一致していない組織が、「自由」を語るのはあまりに説得力が欠けるのです。