3日前のブログで党大会での田村智子氏の結語がハラスメントではないとする自身が語る言葉を紹介した。

 

こう述べた件だ。

 

 

党大会という場は、オープンな場でマスコミの皆さんにもフルオープンの場でやりました。そのなかでいわば、党の綱領や規約に関わって、これは理解がどうなのかという発言があった場合に、そこに対しては厳しい批判が必要だったというふうに私は思っています。今も確信しています。そうでないと私たちが今本当に世の中を変えていくときに時に団結してね、安保条約を廃棄させようとしてるのは大変なことなんだと思います。民主党政権が辺野古の沖縄基地建設を止めさせようとして、頓挫した。挫折せざるを得なくなった。それにはアメリカや日本の政府からのものすごい圧力があったと思います。今、日本を支配している側が一番根幹にして守ろうというものに対して、それを突き崩そうとする私たちに対して、それは相当な妨害しようとする動きが凄まじくあるだろうと思うんです。だから、私たちは団結が必要なのだと思うんです。

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批判を受けたら、やっぱり自分が発言したこと、自分の意見をね、もう一度よく考えて、いろんなことを学んで、そして議論していくということが、何て言うかな、その真理に到達していく、私たちにとってはなくてはならない道なんですよね。そういう道を辿っていく100年の歴史でした。

 

 

 

「批判を受けたらもう一度よく考えて」ということが田村氏自身には当てはまらないという感じ方なのにも驚く。

しかし、今回のことは、共産党が信じる哲学と深く関係しているように思う。

 

マルクス自身がブルノー・バウアーやフォイエルバッハらとの宗教批判論争のなかで鍛えられた。

レーニンもカウツキーなどに激烈な論争をしかけている。

 

批判されたら、徹底的に批判し返す。

それは敵陣営であっても、党内でも同じ。

レーニンは党内で「日和見主義」「反革命」などと批判したし、他国の共産主義者には「背教者」というレッテルを貼った著作もある。

それが唯物論的姿勢なのだ。

「私」と「あなた」は互いに対立する存在である。

 

田村智子氏は「真理に到達する道」として、それと同じことをやっているだけだ、と思っているだろう。

 

しかし、21世紀なって「ハラスメント」をめぐる問題で、この「哲学」が通用しなくなっている。

 

まず、セクシャルハラスメント。

 

これは相手がどう感じるかであって、自分が何をどういう意図で話したかより、相手の感受性を重視する。

「私」より「あなた」が大事になってくる。

それは性的な言動というのはそれほど抑圧的になってしまうという理解があるからだ。

 

そして、田村智子氏で問題になったパワーハラスメント。

 

ここで、田村氏は「業務の範囲内」か「行き過ぎた指導」かを問われているのだが、あくまで業務の範囲内という姿勢だ。

 

昨年、小池晃書記長が田村副委員長(当時)を公然と叱責したときには党はパワハラとして認定し、小池氏は謝罪した。

しかし、党の田村氏は「パワハラだとは思わなかった」と言っていた。

この感受性が今回の遠因だとは思う。

 

しかし、その前にパワハラはその「内容」と「態様」で判断される。

 

必要な指導でも公然と力関係のなかで行うことが適切かどうかが問われるようになっているのだ。

 

マルクス、レーニンの時代と比べてもしかたないが、「力関係」「態様」ということを意識していないと、パワハラを生む組織体質になってしまう。

「私」と「あなた」は権力関係のなかで存在するという認識なのだ。

 

したがって、組織トップの田村氏が反省しない限り、この組織は変わらないだろう。