前回のブログで、スターリン『弁証法的唯物論と史的唯物論』を一通り読んだ。

 

 

 

1956年にソ連共産党第20回大会でニキータ・フルシチョフによる秘密報告「個人崇拝とその結果について」が行われたが、フルシチョフ報告で語られたのは、この『弁証法的唯物論と史的唯物論』が間違っていたとかいう問題ではない。

 

この本で書かれている弁証法的唯物論と史的唯物論というのは、今でも案外間違っているとか思っているひとは少ないじゃないだろうか。

この本をレーニンが書いたことになっていれば、今でもどこかの出版社から版を重ねていたかもしれない。

 

というのは、スターリンはこの本の哲学の部分でレーニンとそう違ったことを言っているわけではない。

 

1913年に「プロスヴェシチャーニエ(啓蒙)」という雑誌に掲載された「マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分」というレーニンが書いた文章がある。

 

 

 マルクスの学説は、すべての文明世界において、マルクス主義をなにか「有害な宗派」のようなものとみているブルジョア科学全体(官学的なものも、自由主義的なものも)のきわめて大きな敵意と憎悪とをひきおこしている。これ以外の態度は期待もできないのである。階級闘争のうえにきずかれている社会では、「公平無私の」社会科学はありえないからである。いずれにしても、官学にしても自由主義的な科学にしてもすべて、賃金奴隷制を擁護しているが、マルクス主義は、この奴隷制度にたいする容赦のないたたかいを宣言したのである。賃金奴隷制の社会で、公平無私な科学を期待するのは、資本の利潤をへらして、労働者の賃金をふやすべきではないかという問題で、工場主たちに公平無私を期待するのとおなじくらい、ばかげた無邪気なことである。

 

「マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分」p.7

 

 

 

 

だが、それだけではない。哲学の歴史と社会科学の歴史とが、まったく明白にしめしているとおり、マルクス主義には、世界文明の発展の大道のそとで発生した。なにか閉鎖的で硬化した学説という意味での「宗派主義」に似たものはなにもない。反対に、そもそもマルクスの天才は、ほかでもなく、人類の先進的な思想がもう提起してきた問題に答えをあたえたという点にある。彼の学説は。哲学、経済学。社会主義のもっとも偉大な代表者たちの学説をまっすぐに直接に継続させたものとしてうまれた。
 マルクスの学説は正しいから、全能である。その学説は完全で均整がとれており、どのような迷信とも。どのような反動とも、またブルジョア的抑圧のどのような擁護とも妥協できない、全一的な世界観を提供している。それは、人類が一九世紀にドイツ哲学、イギリス経済学、フランス社会主義という形でつくりだした最良のものの正統な継承者である。
 マルクス主義のこの三つの源泉であると同時にその構成部分であるものについて簡単にふれてみよう。

 

「マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分」p.8

 

マルクスの学説は正しいから、全能である。

レーニンがこう書いたパンフレットのような論稿は、「マルクス主義」を宗教の教義のように扱うもととなったと考えている人もいる。

 

マルクスの学説は「全能」なんだ。

そう思って、革命に身を投じた人たちがいるんだろう。

 

 

 マルクス主義の哲学は唯物論である。唯物論は、ヨーロッパの近代史全体をつうじて、とくに一八世紀の終わりに、あらゆる中世的なガラクタに反対する、制度および思想のなかの農奴制に反対する、断固とした戦闘がもえあがったフランスで、自然科学のあらゆる学説に忠実で、迷信や偽善等々に敵対するただ一つ終始一貫した哲学であった。だから、民主主義の敵は、全力をあげて、唯物論を「論破」し、くつがえし、中傷することにやっきとなっていたし、どちらにせよ、いつも宗教を擁護するなり支持することになってしまうさまざまな形態の哲学的観念論を擁護していた。
 マルクスとエングルスは、哲学的唯物論をもっとも断固として守りぬき、この基礎から逸脱するどんな偏向でも、ふかいあやまりであることを、いくども説明している。彼らの見解がもっとも明瞭に。くわしくのべられているのがエングルスの著作、『ルートヴィヒ・フォイェルバッハ』と、『反デューリング論』であり、これらの著作は、-『共産党宣言』とおなじように- 意識をもつ労働者のだれもがかならず手もとにおかなければならない書物である。
 しかし、マルクスは一八世紀の唯物論にたちどまってはいないで、哲学をさらに前進させた。彼はドイツ古典哲学、とくにヘーゲルの体系の諸成果によって哲学をゆたかにしたのであるが、このヘーゲルの体系は、またフォイエルバッハの唯物論へとすすんだのであった。これらの成果の主要なものが、弁証法である。すなわち、もっとも完全な、ふかい、一面性をまぬかれたかたちでの発展にかんする学説、永遠に発展していく物質の反映をわれわれにあたえる、人間の知識の相対性についての学説である。自然科学のさいきんの諸発見-ラジウム、電子、元素の変換―はふるい、腐朽した観念論へ[あらたに]もどっているいろいろのブルジョア哲学者たちの学説にもかかわらず、マルクスの弁証法的唯物論の正しさをみごとに確証した。

 

「マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分」p.9~10

 

弁証法的唯物論について、書いていることはレーニンもスターリンも同じだ。

そして、それを人間社会の認識へと広げたことも同様である。
 

 マルクスは哲学的唯物論をふかめ発展させて、それを徹底させ、その自然認識を人間社会の認識へとひろげた。科学思想の最大の達成は、マルクスの史的唯物論であった。これまで歴史観と政治観とを支配していた混沌と気まぐれにとってかわって、おどろくばどまとまった整然とした科学的理論があらわれた。この理論は、生産力の発展の結果として社会生活の一つの制度から、他の、より高度の制度が発展してくること ―たとえば農奴制から資本主義が生長してくる- ことを証明している。

 人間の認識が、人間とは独立して存在する自然、すなわち発展しつつある物質を反映するのとまったくおなじように、人間の社会的認識(すなわち哲学的、宗教的、政治的などのさまざまな見解や学説)は、社会の経済的構造を反映する。政治的諸制度は経済的基礎の上にたつ上部構造である。たとえば、現代のヨーロッパ諸国家のさまざまな政治形態が、プロレタリアートにたいするブルジョアジーの支配の強化に役だっていることは、しわれわれがみているとおりである。
 マルクスの哲学は完成された哲学的唯物論であって、それは人類に、とくに労働者階級に、偉大な認識の道具をあたえた。

 

「マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分」p.10~11

 

ドイツ哲学、イギリス経済学、フランス社会主義という三つの源泉を、弁証法的唯物論と史的唯物論、『資本論』の経済学、科学的社会主義という構成部分にまとめたのはレーニンである。

 

マルクスの学説とまとめを、レーニンは1915年に『グラナート百科事典』に「カール・マルクス」という項目でまとめている。

全能のマルクスは、このころすでに百科事典の一項目になっているのだ。

 

では、マルクスの考えを「全能」として、体系にしたのはレーニンなのかと言えば、そうではない。

 

 

1878年にエンゲルスが書いた『デューリング氏の科学の変革』(『反デューリング論』)ですでにマルクスの思想は体系化されている。

その『反デューリング論』から三章を抜粋した『空想より科学へ ー社会主義の発展ー』の出版によって、「空想的社会主義」「弁証法的唯物論」「資本主義の発展」としてマルクスの思想は「マルクス主義」になったと言える。

そのなかの「弁証法的唯物論」にはこういう記述がある。

 

 

 

 

ヘーゲルの弁証法は逆立ちしている。

  へーゲルの体系がみずから提起した問題を解きえなかったということはここでは重要でない。それよりもこの問題を提起したことが彼の画期的功績であった。そしてこの問題は個人の力で解けるものではなかった。いうまでもなく、へーゲルは、-サン・シモンにも劣らない- 当時の最も博学な学者であったに相違ないが、彼とても第一に彼自身の知識の範囲が限られていた。第二に彼の時代の知識と見解もその広さと深さとに限界があった。その上なお第三の制約があった。というのは、へ-ゲルは観念論者であったから、彼にとっては彼の頭のなかの思想は現実の事物や過程を抽象してできる模写ではなかった、それ
とは反対に、事物とその発展とは、世界そのもの以前にどこかにあらかじめ存在している[理念](イデー)が模写として現われているものと考えた。このため。一切のものは逆立ちさせられ、世界の現実の関連は完全に顛倒された。だから、個々の関連をヘーゲルがいかに正しくいかに天才的に把握したとしても、上述の理由から。細目については。多くの点がつぎはぎされ。こじつけられ、虚構されざるをえなかった、要するに、さかさまであった。かくしてへーゲルの体系そのものはついに巨大な流産であった、しかもこの種のものとして最後のそれであった。それはそのため救うべからざる内的矛盾に悩んでいた。すなわち、それは、一方では人間の歴史は一つの発展過程であるという歴史観を本質的な前提とした。それならば、それは性質上、いわゆる絶対的真理を発見してそれをもってその知的結論とすることはできないはずのものであったのに、他方で、自分の体系こそは絶対的真理の精髄だといったのである。自然と歴史の認識の一切を包括するところの永久に完成した体系などいうものは、そもそも弁証法的思惟の基本原則とは両立しない。といっても、外界全体の体系的な認識が世代から世代へと巨大な進歩をとげうることを、この原則は、断じて否定しない、それとは反対に、それを肯定する。

 

(略)

 

一切の歴史は階級闘争の歴史である

 こういう新しい事実は従来の一切の歴史を新たに研究しなおす必要を感ぜしめた。その結果、従来の一切の歴史は、原始時代を除けば、階級闘争の歴史であったことがあきらかになった。そしてこの闘争しあう社会階級は常に生産と交換関係の、一言でいえばその時代の経済的諸関係の産物であること、それゆえに、そのときどきの社会の経済的構造が、つねにその現実の基礎をなし、歴史上の各時代の、法律制度や政治制度はもちろんそのほか宗教や哲学やその他の観念様式などの全上層建築は結局はこの基礎から説明すべきものであるということがあきらかになった。へ-ゲルは歴史観を形而上学から解放して、それを弁証法的にした、--けれども、彼の歴史観は本質的には観念論であった。いまや観念論はその最後の隠れ家たる歴史観から追放され、一つの唯物史観なるものがここに生まれた。そしてそれは従来のように人間の存在をその意識から説明する方法ではなく。人間の意識をその存在から説明する方法であった。

 

「空想より科学へ」p.58~61

 

 

この文章に、フォイエルバッハは出てこないが、ヘーゲルは、本質的に観念論であったので、弁証法的思惟の基本原則と両立しなかったということになっている。

 

そして、「弁証法的唯物論」の章はこう結ばれている。

 

社会主義を科学としたのはマルクスである。

 この二大発見、すなわち唯物史観と、剰余価値による資本主義的生産の秘密の暴露とは、われわれがマルクスに負うところである。社会主義はこの発見によって一つの科学となった、そこでこの科学はこれについて、その細目と関連とをヨリ十分に研究しなくてはならぬ。

 

「空想より科学へ」p.58~61

 

マルクスは、唯物史観と剰余価値による資本主義的生産の秘密の暴露という二大発見をした。

このことによって、マルクスの社会主義学説は科学となったのだ。

 

では、マルクスの学説を「科学」と持ち上げ、宗教的教義とし、マルクスを全能の神のようにしたのはエンゲルスなのか?

 

いや、そうではないのである。

 

この本の序文はマルクスによるものなのだ。

 

フランス語版へのマルクスの序文(一八八〇年)

 このパンフレットにおさめられているのは.フリードリヒ・エングルスの最近の著書『科学の変革』〔『反デューリング論』〕の一部を翻訳したもので.かつて『社会主義評論』誌上で三つの論文としてはじめて公表されたものである。
 近代社会主義の最もすぐれた代表者のひとりであるフリードリヒ・エンゲルスは一八四四年に『国民経済学批判大綱』によって世に知られた。この論文は、はじめマルクスとルーゲがパリで
発行した『独仏年誌』にのったものである。『大綱』には科学的社会主義の若干の一般原則が早くも公式としてのべられている。エンゲルスは当時住んでいたマンチェスターで『イギリス労働
階級の状態』(一八四五年)という重要な書物をドイツ語で書き。マルクスはその意義を『資本論』のなかで高く評価している。彼は最初のイギリス滞在中でも、その後ブリュッセルでも、社会主義運動の公式機関紙『ノーザンースター』紙とロバート・オーウェンの『ニュー・モーフル・ワールド』紙の寄稿者だった。

 

そして、この序文はこう結ばれている。

 

 彼は、最近、(科学一般、とくに社会主義に関するオイゲン・デューリング氏の自称新理論に対して駁論を書いて)、それに、皮肉にも『デューリング氏の科学の変革』という題をつけ。これを連載論文として『フォーヴェルツ』誌におくった。これらの一連の論文は一巻にまとめられ、ドイツの社会主義者に好評を博した。われわれは、このパンフレットにおいて右の本の理論的部分
から最も適切と思われるものを抜萃した。これは、いわば科学的社会主義の入門となるであろう。

 

「科学的社会主義」つまり、「マルクス主義」のちに「マルクス・レーニン主義」と呼ばれることになる。

すでにここでマルクス自身によって、体系として閉じられてしまったのだ。