スターリンの『弁証法的唯物論と史的唯物論』は、1938年にソ連で出版されている。

 

このころのソ連と言えばこういうことが起きていた。

 

1924年、レーニン死去。

1927年、ジメヴィエフ、カーメネフが党から除名される。

1929年、トロツキーがソ連から追放される。
1930年、トロツキーの『永続革命論』、1936年に『裏切られた革命』が出版される。
1936年、第一次モスクワ裁判(被告は、ジノヴィエフ、カーメネフなど)
1937年、第二次モスクワ裁判(被告は、ラデック、ピャタコフ、ソコーリニコフなど)
1938年、第三次モスクワ裁判(被告は、ブハーリン、ルイコフ、ヤーゴダ、ラコフスキーなど)
1940年、トロツキー、亡命先のメキシコでスターリンの放った暗殺者によって殺害される。

 

世界の人々がこういうことを知るのはずっと後のことだった。

 

しかし、ソ連は計画経済で躍進し、スターリンが主導する革命党はこの国の統治に成功しているように思われていた。

 

スターリンの統治は、現実離れした計画経済の失敗にあったという人がいる。いや、大国主義的な対外政策が問題だったという人もいる。いやいや、革命党の中央集権的な官僚制にこそその根源的な要因があったのだという人もいる。

 

しかし、パトラとソクラは、この本のテーマである哲学と歴史観にこそ本質的な問題が秘められているように思う。

そして、それはある種の人々の世界の認識の仕方で今でも続いているように思う。

 

まず、『弁証法的唯物論と史的唯物論』はこう始まる。

 

 

 弁証法的唯物論は、マルクスーレーニン主義党の世界観である。この世界観は弁証法的唯物論とよばれる。なぜなら、それは、自然現象を弁証法的にとりあつかい、その自然現象の研究方法、これらの現象の認識方法が弁証法的であり、この世界観による自然現象の解釈、自然現象の理解、その理論が唯物論的であるからである。
 史的唯物論は、弁証法的唯物論の諸命題を社会生活の研究におし拡げたものであり、弁証法的唯物論の諸命題を社会生活の諸現象に、社会の研究に、社会史の研究に適用したものである。
 マルクスとエンゲルスは、自分たちの弁証法的方法を特徴づけるさいには、弁証法の基本的な特徴を定式化した哲学者としてヘーゲルを引合いにだすことを普通としている。しかし、これは、マルクスとエングルスの弁証法がへ-ゲルの弁証法と同じものであるということを意味しない。
実際には、マルクスとエングルスは、ヘーゲルの弁証法からその「合理的な核心」だけをとり、ヘーゲルの観念論的な外殻を投げすて、弁証法をいっそう発展させたのであるが、これは、弁証法に現代的な科学的形態をあたえるためであった。

 マルクスは、こう言っている。

「私の弁証法的方法は、根本的にヘーゲルの方法と違っているばかりでなく、それとは正反対のものである。へ-ゲルにとっては、彼が、理念の名のもとに一つの独立の主体にさえ転化させている思考過程が、現実的なものの創造者であって、現実的なものは、その外的現象をなしているにすぎないのである。私にとっては、それとは反対に、観念的なものは、人間の頭のなかで置きかえられ、翻訳された物質的なものにほかならない。」
  〔大月書店版『資本論』第一巻第一分冊二二ページ〕

 マルクスとエンゲルスは、自分たちの唯物論を特徴づけるさいには、唯物論を復権させた哲学者としてフォイェルバッハを引合いにだすことを普通としている。しかし、これは、マルクスとエンゲルスの唯物論が、フォイェルバッハの唯物論と同じものであるということを意味しない。実際には、マルクスとエンゲルスは、フォイェルバッハの唯物論からその「基本的な核心」をとり、それをさらに唯物論の科学的=哲学的な理論に発展させ、その観念論的および宗教的=倫理的な特徴を投げすてたのである。よく知られているように、フォイェルバッハは、だいたい、唯物論者であったが、唯物論という名称に反逆した。フォイェルバッハは、「唯物論的な基礎をもっていたにもかかわらず、なお伝来の観念論的な囲いのなかにとじこめられていた」、「フォイエルバッハの立場が、事実上、観念論であることは、われわれが彼の宗教哲学と倫理学を見るにいたって、ただちにあきらかになる」とエンゲルスは、再三言明した。

  〔国民文庫『フォイエルバッハ論』三五、三九ページ〕


 弁証法は、対話する、論議をおこなうという意味のギリシア語「ディアレゴー」からきている。
弁証法は、古代では論敵の判断上の矛盾をあばきだし、それらの矛盾を克服することによって、真理を獲得する術と解されていた。古代では、一部の哲学者は、思考上の矛盾の暴露と対立的な意見の衝突とが真理を発見する最良の方法であると考えていた。思考のこの弁証法的な様式は、その後に自然現象へおし拡げられ、自然認識の弁証法的な方法に変わったのである。この弁証法的な方法は、自然現象を永遠に運動し、変化するものとみなし、自然の発展を自然における諸矛盾の発展の結果とみなし、自然における対立した諸力の交互作用の結果とみなした。

 

(p.7~9)

 

 

マルクス『資本論』、エンゲルス『フォイエルバッハ論』からの引用もある。

スターリンは、マルクス、エンゲルス、レーニンの本を読んでいる。

並みの人よりはるかに詳しいのだ。

 

マルクスの弁証法はヘーゲルから受け継いでいるが、「合理的な核心」だけを取り出し、ヘーゲル弁証法の観念論であった外殻を捨てて、弁証法を発展させた。

マルクスとエンゲルスは、フォイェルバッハの唯物論からその「基本的な核心」を宗教的=倫理的な特徴を投げすてた。

 

どこか違和感があるだろうか?

 

よく語られている弁証法的唯物論の説明としては理解できるのではないだろうか?

 

ただ、一か所「弁証法的唯物論は、マルクスーレーニン主義党の世界観である。」というところが引っかかるといえばひっかかるが、これは、全連邦共産党(ボリシェビキ)の党員に向けたものだからまあ当然なのだ。

 

問題はここからかもしれない。

 

 

 弁証法は、その基礎において、形而上学に正反対のものである。

 一、マルクスの主義の弁証法的方法は、つぎのような基本的な特徴をその特色としている。


 (a)形而上学とは反対に、弁証法は、自然を、たがいに切りはなされ、たがいに孤立し、たがいに依存しない諸対象、諸現象の偶然的な集積とみなさないで、関連のある、一つの全体とみなすものであって、この全体では諸対象、諸現象は、たがいに有機的に結びっき、たがいに依存しあい、たがいに制約しあっていると見る。
 だから弁証法的方法は、自然における現象はどれ一つとして、それを孤立した姿で、周囲の諸現象との関連なしに、とらえるならば、それは理解されないと考えるのである。なぜなら、自然のどんな領域におけるどんな現象も、それを周囲の諸条件との関連なしに、それらと切りはなして考察するならば、それは無意味なものと化しうるからであり、その反対に、どんな現象も、それを周囲の諸現象と不可分に関連させて、それをとりまく諸現象に制約されるものとして考察するならば、それが理解され、基礎づけられうるからである。


 (b) 形而上学とは反対に、弁証法は、自然を、静止と不動、停滞と不変の状態とはみなさず、不断の運動と変化、不断の更新と発展の状態とみなし、そこではつねになにかが発生し、発展し、なにかが破壊され、その寿命を終えつつあるとみなす。
 だから、弁証法的方法は、諸現象をその相互の関連と被制約性の観点からばかりでなく、その運動、その変化、その発・展の観点、その発生と死滅の観点からも考察することを要求するのである。
 弁証法的方法にとって、まずなにより重要なものは、その瞬間に安定的なものに見えていても、すでに死滅しはじめているものではなく、たとえ、その瞬間に不安定に見えても、発生し、発展しつつあるものである、なぜなら、弁証法的方法にとっては、発生し、発展しつつあるものだけが、うちかちがたいからである。
  エンゲルスは、こう言っている。「全自然は、最小のものから最大のものにいたるまで、砂粒から太陽にいたるまで、原生生物(原始的な生細胞-イ・スターリン)から人類にいたる まで、すべて永遠の生成と消滅、たえまない流転、やすみなき運動と変化のなかにある。」
〔国民文庫(1)『自然弁証法』二三ページ〕


 だから、弁証法は「事物とその概念における模写とを、本質的にそれらの関連、その連鎖、運動、生成と消滅においてとらえる」とエンゲルスは言っている。

〔国民文庫『反デューリング論』{1}六〇ページ〕

 (C) 形而上学とは反対に、弁証法は、発展の過程を、量の変化が質の変化をもたらすばあいの単なる成長過程とみなさないで、小さな暗々裏の量的変化からあらわな変化、根本的な変化、質的な変化への移行とみなすものであって、このばあい質の変化は、漸次的にではなく、急速に、突然に、一つの状態から他の状態への飛躍的な移行としてあらわれ、偶然にではなく、合法則的にあらわれ、目に見えない、漸次的な量的変化の蓄積の結果としてあらわれるものである。
 だから弁証法的方法の考えからいえば、発展の過程は、これを円環運動としてではなく、過ぎ去ったものの単なるくりかえしとしてではなく、前進の運動として、上昇線をたどる運動として、古い質的状態から新しい質的状態への移行として、単純なものから複雑なものへ、低度のものから高度のものへの発展として理解すべきである。

 

 (d) 形而上学とは反対に、弁証法の出発点は、つぎのようなものである。自然物や自然現象はすべて、自己の否定的な側面と肯定的な側面、自己の過去と将来、その命数のつきつつあるものと発展しつつあるものとをもっているから、それには本来、内的矛盾がそなわっている。これらの対立物の闘争、古いものと新しいもの、死滅に瀕するものと生まれ出つつあるもの、命数のつきつつあるものと発展しつつあるものとの闘争が、発展過程の内的な内容をなし、量的変化の質的変化への転化の内的な内容をなしている、と。
 だから、弁証法的方法の考えからいえば、低度のものから高度のものへの発展過程は、諸現象の調和のとれた展開としてでなしに、対象や現象に固有な諸矛盾の発露として、これらの矛盾にもとづいて作用する対立的な諸傾向の「闘争」としておこなわれるのである。

  「本来の意味で、弁証法は、対象の本質そのものにおける矛盾の研究である」とレーニンは言っている。
〔国民文庫『哲学ノート』(1)二二〇ページ〕

 さらに「発展は、対立物の。『闘争』である。」
〔国民文庫『哲学ノート』(2)三二七ページ〕

 以上が、マルクス主義の弁証法的方法の基本的な特徴の概略である。

 

(p.9~14)

 

スターリンは、世界の在り方について「形而上学」的なあり方に対比して、「弁証法」的なあり方を説明する。

というより、世界は弁証法的に存在し、それ以外は非弁証法的=形而上学的というように二分した説明をしているのに気付く人もいると思う。

世界は、弁証法か、弁証法でないか?

 

実は、これは現代ホスト界の帝王と呼ばれるローランドが「俺か、俺以外か」というアレなのだ。

 

俺か、俺以外か?

ほかの選択肢はない。

いや、ほかの選択肢があったとしても、それは「俺以外」のカテゴリーに過ぎない。

 

弁証法の次は、唯物論である。

 

 

 二、マルクス主義の哲学的唯物論は、つぎのような基本的な特徴をその特色としている。

 (a) 世界を「絶対理念」、「世界精神」、「意識」の具現されたものとみなす哲学的観念論とは反対に、マルクスの哲学的唯物論の出発点は、つぎのようなものである。世界は、その本性からして物質的である。世界の多様な諸現象は、運動する物質のさまざまな姿容である、弁証法的方法によって確認される諸現象の相互関連と相互の被制約性は、運動する物質の発展の合法則性である。世界は、物質の運動法則にしたがって発展してゆき、どんな「世界精神」をも必要としない、と。

  エンゲルスは、こう言っている。「唯物論的な自然観とは、ただ自然をあるがままに、外部的なつけたしなしに、とらえることにほかならない。」
〔国民文庫『自然弁証法』(2)二七ページ〕

 「世界、すなわちすべてのものからなる一なるものは、どんな神々によっても、どんな人々によっても、つくられたものではなく、それは、度にしたがって燃え、度にしたがって消えながら、過去にもあり、今もあり、未来にもある永遠に生きている火である」と説いた古代の哲学者ヘラクレイトスの哲学にかんして、レーニンはそれを「弁証法的唯物論の諸原理の非常にすぐれた叙述である」と言っている。〔国民文庫『哲学ノート』(1)三一九ページ〕

 (b) 実在的に存在するものは、われわれの意識だけであって、物質世界、存在、自然は、われわれの意識、われわれの感覚、表象、概念のなかにしか存在しないと主張する観念論とは反対に、マルクス主義の哲学的唯物論の出発点は、つぎのようなものである。物質、自然、存在は、意識の外に、意識から独立して存在する客観的な実在である。物質は一次的である。なぜなら、物質は、感覚、表象、意識の根源であって、意識は二次的、派生的だからである。なぜなら、意識は物質の反映であり、存在の反映であるからである。思考は、発展して高度の完成段階に到達した物質の産物である、すなわち頭脳の産物である、そして頭脳は思考の器官である。だから、ひどい誤りにおちいりたくないなら、思考を物質から切りはなすことはできないのである、と。


  エンゲルスは、こう言っている。「すべての哲学の大きな根本問題は、思考と存在、精神と自然との関係の問題である……’」の問題に、どのように答えたかに応じて、哲学者たちは二大陣営に分裂した。自然にたいして精神が根源的であると主張した人々は……観念論の陣営を形成した。他の人々、すなわち、自然を根源的なものとみなした人々は、唯物諭のさまざまな学派に属する。」
〔国民文庫『フォイエルバッハ論』二四一二六ページ〕
 

・・・・

 

 世界の認識は不可能であり、「物自体」は認識されえないというカントその他の観念論者たちの命題を批判するにあたって、エンゲルスは、われわれの知識を確実なものとみる唯物論の周知の命題を主張して、こう書いている。


  「あの人々にかぎらず他のいずれの哲学者にたいしても、そのもっとも痛烈な反駁は実践である。すなわち実験と産業である。もし、われわれが自然現象そのものを自分でつくりだし、それを、その諸条件から発生させ、そればかりか、それをわれわれの目的に役立たせることによって、そのような自然現象にかんするわれわれの認識の正しさを証明できるならば、カントのいう認識できない『物自体』も、おしまいになってしまう。植物体や動物体のなかに生まれる化学的物質も、有機化学がこういう物質をつぎつぎにつくりはじめるまでは、そのような『物自体』にとどまっていた。それを有機化学がつくりだすようになって。この『物自体』(Ding an sich)は、われわれのための物(em Ding fur uns)となった。たとえば、アカネ草の色素アリザリンがそうである。われわれは、これを、もはや野原のアカネ草の根のなかに生じるがままにしておかないで、コールタールからずっと安価に、かつ簡単につくりだしている。
コペルニクスの太陽系は、三〇〇年のあいだ、九分九厘までたしかな仮説であったが、しかしやはり一つの仮説にとどまっていた。ところが、ルヴェリエが、この体系内のデータにもとづいて、ある一つの未知の遊星がかならず存在しなければならないことを算出したばかりでなく、この遊星が天体のなかで占めるべき位置をも算出したとき、そしてさらにガルレが、実際にこの遊星を発見したとき、ここにコペルニクスの体系は証明されたのである」〔国民文庫『フォイエルバッハ論』ニ八ページ〕

 

 レーニンは、ボグダーノフ、バザロフ、ユシュケーヴィチその他、マッハの支持者たちの信仰主義を非難しており、そして自然における合法則性にかんするわれわれの科学的知識は確実なものであり、科学の諸法則は客観的真理であるという唯物論の周知の命題を主張しながら、つぎのように言っている。

  「現代の信仰主義は、けっして科学を否認するものではない。それは、科学の『法外な要求』すなわち客観的真理への要求だけを否認するものである。もし、客観的真理が存在するならば (唯物論者の考えているように)、自然科学は、外界を人間の『経験』に反映させるものであるから、もし、それだけがわれわれに客観的真理をあたえることができるならば、いっさいの信仰主義は無条件に否認されるのである。」
〔レーニン全集第四版第一四巻一四四―}四五ページ〕

 以上が、マルクス主義の哲学的唯物論の特徴のあらましである。

 

(p.18~23)

 

世界精神か、それ以外か?

 

実在するのはわれわれの意識だけか、それ以外か?

 

この場合は、「それ以外」だとみんな思うだろう。

 

実は、これは、現代ホスト界の帝王と呼ばれるローランドの「俺か、俺以外か」の逆の立論の仕方なのだ。

 

世界は、「形而上学か、それ以外(弁証法か)」と立論する。

 

そりゃ、それ以外の弁証法ですよね、と思わせる。

 

では、次には「観念論か、それ以外=唯物論か」と立論する。

 

そう、唯物論ですよね。

と、なりがちだ。

 

 

スターリン(エンゲルスも)は、物を物質と呼び、その物質でできているものを「物自体」とする。

これはカントの定義とは異なるが、エンゲルスはすべては物質でできるということで世界を説明する。

 

意識についても「意識は物質の反映であり、存在の反映であるからである。」と言うので、物質を扱う科学が求めるものに法則があり、それが真理と思わせる。

 

世界は物質でできている=唯物論か、それ以外か?

と問われれば、おそらくほとんどの人が、この世は物質からできている。だから唯物論が正しい、と思うことになるだろう。

 

選択肢を「俺か、俺以外か」と立てるのでそうなるのだが、その立論の飛躍に気づく人が案外少ない。

 

果たして、意識は物質なのか?

それは人間の脳の機能であって、物質とは言えないのではないか?

意識が物質であり、存在の反映でしかないなら、存在がないもの(例えば一角獣)をも意識できるのは、どうしてなのか?

 

世界認識において、存在が先か、意識が先かという立論の立て方自体が正しいのか?

 

でも、共産主義者にとって、「哲学」はマルクスで終わっていると思っているひとが結構いたりする。

マルクス以外はすべて観念論だからダメって、思っているのだ。

 

アルチュセールや廣松渉などマルクス主義者を自認するその後の哲学者もいるのだが、弁証法か形而上学か、唯物論か観念論かの論争がマルクスまでですでに終わっていると思っている人がかなり多いと思う。

 

共産主義者にとって、ニーチェは哲学ではないし、フッサールもハイデガーも、サルトルでさえ「弁証法的唯物論」でないので読むに値しないのだ。

 

唯物論か観念論かなど、主観と客観の問題や、主体と客体の問題を「現象学」や「実存主義」は、マルクスよりさらに先に深く考えたが、そんなことに関心のある共産主義者はほぼいないだろう。

 

そして、その弁証法的唯物論が、哲学と自然だけでなく、社会、歴史に拡張されることになる。

 

 哲学的唯物論の諸命題を社会生活の研究に、社会史の研究におし拡げることが、どんなに大きな意義をもっているか、これらの命題を社会史へ、プロレタリアートの党の実践活動へ適用することが、どんなに大きな意義をもっているかを理解することは、容易である。
 もし、自然の諸現象の関連と相互の被制約性が、自然の発展の合法則性をあらわすものであるならば、社会生活の諸現象の関連と相互の被制約性も、偶然ではなく、社会の発展の合法則性である。

 つまり、社会生活や社会史は、「偶然性」の集積ではなくなるのである。なぜなら、社会史は社会の合法則的な発展となり、社会史の研究は科学に変わるからである。
 つまり、プロレタリアートの党の実践活動の基礎となるべきものは、「すぐれた個人」の善良な願望ではなく、「理性」、「普遍的な道徳」などという諸要求ではなく、社会発展の合法則性であり、これらの合法則性の研究である。
 さらにもし、世界は認識されることができ、自然の発展法則についてのわれわれの知識は、客観的真理の意義をもつ確実な知識であるならば、ここから出てくる結論は、社会生活も社会の発展も認識されることができ、社会の発展法則についての科学のデータは、客観的真理の意義をもつ確実なデータであるということである。
 つまり、社会史にかんする科学は、社会生活の諸現象がはなはだ複雑であるにもかかわらず、たとえば、生物学のように、実用のために社会発展の法則を利用することのできる精密科学となりうるのである。
 つまり、プロレタリアートの党は、その実践活動にあたっては、なにかの偶然の動機を指針とすべきでなく、社会発展の法則やこれらの法則から出てくる実際的な結論を指針とすべきである。
 つまり、社会主義は、人類のよりよき未来にかんする夢から科学へ変わるのである。
 つまり科学と実践活動の結びつき、理論と実践の結びつき、両者の統一は、プロレタリアートの党の導きの星とならねばならないのである。

 

(p.23~24)

 

社会生活や歴史は、はたして「偶然性」の積み重ねなのか? それとも「必然性」に導かれているものか?

これは、日常でも宗教でも問い続けていることだろう。

 

しかし、スターリンは「社会史は社会の合法則的な発展となり、社会史の研究は科学に変わる」と言う。

そして物質でできているこの世界は生産によって、人間は世界を変えてきた。

 

生産は世界を発展させるものだ。

それは道具の発展とも言える。

しかし、生産関係が社会の矛盾を作ってきた。

 

 生産用具の変化と発展につれて、生産力のもっとも重要な要素としての人間も、変化し発展し、人間の生産上の経験、彼らの労働習練、生産用具を使用する彼らの技能が変化し発展した。
 歴史上の社会の生産用具の変化と発展に応じて、人間の生産関係、彼らの経済関係も変化し発展した。
 歴史上には、生産関係の五つの基本的な型、すなわち原始共同体的、奴隷制的、封建的、資本主義的、社会主義的な型が知られている。

 

(p.38)

 

弁証法的唯物論を歴史に当てはめると、歴史の法則、つまり史的唯物論になる。

 

 マルクスは、つぎのように言っている。
  「人間は、その生活の社会的生産において(すなわち、人間の生活に必要な物質的財貨の生産において(イ・スターリン)、一定の、必然的な、彼らの意志から独立した関係、生産関係にはいる。この生産関係は、彼らの物質的生産力の一定の発展段階に照応する。」(ゴシックはスターリン)
〔国民文庫『経済学批判』序言、一五ページ〕

 しかし、これは、生産関係の変化と、古い生産関係から新しい生産関係への移行とが、スムーズに、衝突なしに、震動なしに、経過するということを意味しないのである。その反対に、このような移行は、おおむね、古い生産関係を革命的にくつがえし、新しい生産関係を確立することによっておこなわれるものである。生産力の発展と生産関係の領域での変化とは、ある時期までは、自然発生的に、人間の意志にはおかまいなしに経過する。しかし、これは、ある瞬間までのことにすぎず、発生し、発展してゆく生産力が十分に成熟する間をもつ瞬間までのことにすぎない。新しい生産関係が成熟したのちは、現存の生産関係とその担い手である支配階級は、「克服しがたい」障害に変わるものであって、新しい階級の意識的な活動によって、これらの階級の暴力的な行動によって、革命によって、はじめてこの障害を一掃することができる。ここにとくにあざやかにあらわれてくるものは、古い生産関係の力ずくの廃止を使命とする新しい社会的観念、新しい政治的機関、新しい政治権力の巨大な役割である。

 

新しい生産力と古い生産関係との衝突にもとづき、社会の新しい経済的要求にもとづいて、新しい社会的観念が発生する。新しい観念は、大衆を組織し動員する。大衆は、新しい政治軍へ結集し、新しい革命権力を創造し、それを利用して、力ずくで生産関係の領域における古い秩序を廃止し、新しい制度を確立する。発展の自然発生的な過程は、人間の意識的な活動に席をゆずり、平和的な発展は、暴力的な変革へ、進化は革命へ席をゆずる。

 

(p.47~48)

 

古い生産関係は暴力的な革命によって壊されることになる。

それは歴史の必然なのだ。

 

そういう世界認識のもとで、1917年にロシア革命(2月革命)が起き、ソビエト連邦という国家ができた。

 

それから約70年度にその国家が消滅した。