マルクス・ガブリエルの近著『倫理資本主義の時代』では「倫理資本主義」について展開している。
パトラとソクラは、コルナイ・ヤーノシュが社会主義の失敗から資本主義の本質を考えていることをもとに、社会主義のやり方が間違っていたのか、それともマルクスが間違っていたのかについて考え、現代の経済学・哲学批判を行う予定だった。
しかし、その答えをマルクス・ガブリエルは簡潔にこの本のなかでまとめている。
1.倫理とは何か?
マルクス・ガブリエルはその思考の枠組みをまずこう述べている。
本書は「倫理資本主義」という新たな概念を提唱する。経済的利益は道徳的に優れた行為の結果として得られる、またそうあるべきだという考え方だ。私たちが現在直面する複雑な社会的、経済的、政治的危機に対処するために、社会体制の変更や革命は必要ない。ただ、共通の目標を達成する方策にかかわる新たなビジョン、社会経済活動の指針となる「善」についての新たなビジョンは必要だ。つまり新たな価値観の地平、私たちが社会生活の意義を共有するためにともに追い求めるべき何かが必要なのだ。そのような方向性を提示すること、しかもこれから述べるさまざまな理想を実現するための具体的道筋まで示すことが本書の目的だ。
この新たな世界を皆さんと足並みをそろえて歩んでいくために、現状分析や倫理資本主義の基礎の説明に入る前に、まずは基本的概念をいくつか定義しておこう。とりわけ「倫理」と「資本主義」について、さらに「社会」について共通の理解を得ておく必要がある。それぞれを見ていこう。
(p.24)
そして、まず倫理について述べている。
同じ状況に置かれた人は何をすべきか、あるいは何をすべきではないかにかかわるのが「道徳的」事実だ。溺れる子どもの例でいえば、子どもを救う能力がある者ならば誰もが子どもを救うべきであるというのが道徳的事実である。子どもが誰であるかは関係ない。救われる子ども、子どもを救える人を誰に置き換えてもかまわない。それによって子どもを救うべきだという道徳的事実が変わることはない。こうした意味で倫理の要請は普遍的で、無条件に拘束力がある。人類共通の人間性にかかわる事実に基づいて、何をすべきか、すべきではないかを示している。
(p.26)
倫理とは人類が長い歴史のうえで社会的合意になってきたもので、奴隷制度が誤っていると今では誰でもが思う。
最近では、スウェーデンのグレタ・トゥーンベリが始めた「フライデーズ・フォー・フーチャー」の環境運動やミー・トゥ-(#MeToo)運動などが倫理観の変動に影響を与えている。
そして、その倫理を形作る道徳的進歩には対話が必要だと言っている。
道徳的進歩には対話が必要だ。誰もが自分とは違う道徳観や倫理観を持つ人々に耳を傾けなければならない。世代、宗教、文化、言語、社会階級、政治的党派などの壁を超えた対話や会話は、道徳的事実を発見するための重要な手段であり、道徳的進歩の推進力となる。
(p.33)
ソ連・東欧で試された社会主義社会というのも間違いではなかったのか?
そういう対話が共産主義運動を担う人たちのなかでもヨーロッパでは起きて、社会主義が復活することはなかった。
2.資本主義とは何か?
次に「資本主義」とは何かということについてマルクス・ガブリエルはまず資本主義をこう定義する。
一般的に「資本主義」は、経済の本質的特徴を表す言葉だ。経済の入門書や「資本主義」の伝統的な定義からは、資本主義の条件として次の三つが浮かび上がる。
・生産手段の私有
・自由契約
・自由市場
一般的に生産手段とは特定の事業のインフラだ。伝統的には機械や建物といった工場のハ-ドウェアを指していた。機械や工場の建物、さらには機械を使って新たな財を生産する労働者を雇う金融資本を持つ者は資本家だ。資本家は資本を再投資して利益を生み出すことがこれは資本の蓄積と呼ばれる。こうして資本家の投資が物質的財やサービスの生産につながり、その結果経済は成長する。
自由契約とは、労働契約の詳細を一元的に交渉する中央機関や独立した第三者が存在しないことを指す。言うまでもなく、自由契約は国家の規制や干渉と共存できる。なぜなら国家は契約や労働者の権利、そして資本家が労働契約を交渉するための基本的な法的枠組みに従って従業員を採用または解雇する権利を保護するからだ。自由契約の対極にあるのが、封建主義や奴隷制度といったきわめて搾取的で不道徳な隷属的労働だ。
資本主義の定義の三つめの構成要素が、自由市場だ。一般的に市場は参加者に、交換したいモノについての価値判断を比較する場を提供する。私かリンゴを生産し、あなたがリンゴを買いたい消費者だとすると、私は自分のリンゴの価格を決めることで価値判断を下し、あなたはそれだけの値打ちがあるかという価値判断をする。市場に出されたモノの最終的に測定可能な価値を決定するメカニズムは、中央機関が計画したり規制したりするものではなく、その意味で自由だ。それはすべての市場参加者が示す多くの価値判断の比較から生まれる。自由市場は価値判断を交換するプラットフォームとして剰余価値を生み出す。市場は単に(カールーマルクスとその信奉者が考えていたような)工場労働者が生産する有形財を交換するプラットフォームではない。古典的工場のような会社において労働者と交渉して労働力を購入し、生産に投資するというのは、重要ではあるが剰余価値を生み出す一つの方法に過ぎない。
(p.33)
カール・マルクスが資本主義を分析した時代、市場は単に工場労働者が生産する有形財を交換するプラットフォームに見えた。
古典的工場のような会社において労働者と交渉して労働力を購入し、生産に投資するというのは、重要ではある。
しかし、それは剰余価値を生み出す一つの方法に過ぎないとガブリエルは言うのだ。
3.剰余価値とは何か
では、人間が生み出す剰余価値とは何なのだろうか?
一般的に「剰余価値生産」とは、次のような不可思議な人間の能力を指す。人間は何千年にもわたり、身の回りの自然(岩、石、樹木、河川、人間や人間以外の動物など)を変容させてきた。狩猟をし、道具をつくり、草花を育て、動物を家畜化し、それを基に複雑な文明をつくりはじめた。それを通じて身の回りの自然物の価値を変えた。自動車が部品の総額より高価なのは、価値を獲得したからだ。住宅には原材料を足し合わせたより大きな価値がある。コンピュータにソフトウェアを組み合わせるとコンピュータショップでハ-ドウェアを買ったときより価値は高まる。原材料と人間の経済におけるその価値との差が剰余価値だ。ざっくりいうと、マルクスと今日のネオ・マルクス主義者は、剰余価値を生み出すのは人間の労働だと考える。自動車部品を足し合わせた価格と最終製品である自動車の価格の差は、人間の労働による付加価値だ。マルクス主義者は、資本主義者(基本的には労働者に生み出させた資本を投資・再投資する能力を持つ企業の所有者)は労働者が生み出した価値の一部しか(賃金というかたちで)彼らに還元しないので、労働者を搾取していると考えた。
(p.35)
これがマルクスの考えた「搾取」の構造だ。
生産手段を私的所有している資本家は、労働者が生み出した価値の一部しか労働者に「賃金」という形で還元しない。
労働者は資本家に搾取していると考えた。そして、その剰余価値の大半は資本として蓄積される、と。
では、今の社会ではどうだろうか?
ただ現代の知識社会、とりわけサービス産業やデジタル革命は、資本の蓄積という概念とその実態を大きく変えた。剰余価値は人間が自然を文化的産物に変えることで生まれるという事実は変わらないものの、すべての経済的剰余価値が人間の肉体労働から生まれるわけではない。人間が経済の基本的資源としてありのままの自然を使っていた時代は完全に過去のものとなったことに注目すべきだ。ありのままの素材(今日のインターネットやコンピュータテクノロジーに不可欠なレアアースも含む)に加えて、人間は文化をさらなる文化にも変える。たとえば芸術品の価格は芸術市場における投機によって上昇する。経済のうち知識など非物質的財やサービスが占める割合は相当なものだ。
(p.35)
パトラトソクラは、ピカソのドローイングが、その費やした労働時間とは関係なく、価格がつけられることを指摘し、『資本論』の分析が当てはまらない事例を示した。
大谷翔平の契約料(広義の賃金)が資本家の資本の蓄積を支えるものかどうかも検討した。
人間はマルクスの時代には、経済の基本的資源としてありのままの自然を使っていた。
しかし、それは完全に過去のものとなっている。
Facebookはインターネットを通じてユーザーの書き込みという無償の労働でFacebookというサービスを作っている。自然を加工して生産物を作り、それを市場で交換するという経済では説明できない。人間は文化をさらなる文化にも変えているのだ。
芸術品の価格は芸術市場における投機によって上昇する。
4.剰余価値生産は人間の価値判断の副作用
かつてマルクス経済学の剰余価値説について限界効用説からの批判があった。
今日、剰余価値生産の謎は限界効用理論を使って説明するのが一般的だ。これは現代の主流派経済学における重要な概念だ。この理論は、なぜダイヤモンドのほうが直接的効用の高い水よりも経済的価値が高い(そしてより高価である)のかという疑問に答えようとしている。主流派経済学は、それはダイヤモンドのほうが限界効用が大きいためだと説明する(だから〔限界効用理論]と呼ばれる)。〔限界効用とは、ある財を追加で一単位消費することで得られる満足度のこと。通常、水は世界中に豊富に存在するため限界効用が小さい。それに対してダイヤモンドは希少であり限界効用が大きい。総効用の大きさではなく限界効用の大きさによって価格が決まるとするのが限界効用理論〕
これは経済理論のなかでもかなり専門的な概念だ。本書ではもっと一般的な概念を使おう。それによって主流派経済学を超越するのにも役立つ。この一般的概念によると、剰余価値生産は人間の価値判断の副作用だ。一ドルで買える物品のなかで、私か新鮮なリンゴに最大の価値を見いだす場合、私は一ドルをリンゴと交換する。他の人が同じような状況でリンゴにどれだけの価値を見いだすか、またリンゴの供給量がどれくらいかなど、実際のリンゴの価格はたくさんの価値判断の結果となる。価値判断のなかには、リンゴの生産者や販売者による「消費者はリンゴにいくら払うか」という期待がある。価格が高すぎればリンゴは売れず、ライバルがもっと安く売ってしまうかもしれない。この結果、実際の競争と思惑の競争が起こる。このようにモノやサービスの実際の価格は、価値判断、期待、文化的慣行、人間の基本的ニーズによる複雑なシステムを表すことになる。
(p.36)
限界効用説の批判に反論するためにカール・マルクスは微積分を勉強したという逸話もある。限界効用説の論争はそれほど専門的なのだが、ガブリエルは限界効用説でなく、「人間の基本的ニーズ」を超えるところからマルクス的な世界では説明できなくなることを述べている。
このように経済は人間の基本的な生存ニ-ズに根差しているが、基本的ニーズがおおよそ満たされた途端、それを超えていく。人間が、ダイヤモンドをはじめ直接役には立だないが、自らのより大きな願望を投影できるようなモノを作りはじめるのはこの段階だ。共産主義下の生活が退屈なのは、労働者を搾取から守り、より良い世界(人間がダイヤモンドや消費財などのために地球環境を破壊するようなモノを生み出さない世界)をつくろうと、より大きな願望が生まれるのを抑制するためだ。
しかし人間の経済の複雑化から生じる問題を解決するなら、もっと良い方法がある。それによって生活が退屈になることはなく、むしろ個々の消費者のニーズや魅力的なモノを大切にし、自由民主主義の活力や多様性に富む豊かさを増大させるような方法だ。重要なのは、自由市場の強みや、道徳ルールを守った競争から生まれる創造性を生かしつつ、善行から利益を得るにはどうすればよいかだ。
(p.37)
資本主義経済では、限りない欲望が不必要なものを大量に生産させて、自然を壊すという批判がある。
しかし、個々の消費者のニーズや魅力的なモノを大切にし、自由民主主義の活力や多様性に富む豊かさを増大させるような方法もあるのだ。
5.市場と国家
では、市場において国家はどのような役割を担うべきなのだろうか?
自由市場も国家による規制と対立する概念ではないことを、もう一度指摘しておこう。市場は法的に保護された境界のなかで機能し、たとえば特定の商品は市場での取引から除外される(奴隷制度の廃止、あるいは民主主義の下では自分の投票権を売ることはできないなど)。自由市場の対極にあるのは、国家などの中央機関がどんなモノをどんな目的で生産し、どの価格で売るかまで完全に決定するような計画経済(厳密な意味での共産主義など)だ。資本主義と国家による規制は相容れないものではない。むしろ今日の自由民主主義の社会政治制度においては、国が私有財産を保護し、合法的な市場取引についての法的および社会的ルールを提供するという意味において、両者は補完的だ。国家による規制を一切受けない完全に無秩序な資本主義システム(「自由放任」と呼ばれることもある)は支離滅裂なたわごとだ。そのような体制においては私有財産や契約を保護する法的枠組みもなく、それは経済の弱体化につながる。
(p.38)
市場は法的に保護された境界のなかで機能する。
これがガブリエルの考えだ。奴隷制度の廃止、あるいは民主主義の下では自分の投票権を売ることはできないなどを例示している。
自由市場の対極にある共産主義国での計画経済では、資本主義のニーズを国家によって規制する。
今日の自由民主主義の社会政治制度においては、国が私有財産を保護し、合法的な市場取引についての法的および社会的ルールを提供するという意味において、両者は補完的になっている。
6.倫理資本主義の考え方
ソ連や東欧での共産主義をめざす社会主義革命は失敗した。
資本主義を批判し、それをひっくり返そうとした試みは失敗したのだ。
それは実はマルクスの『資本論』や『共産党宣言』が資本家階級と労働者階級で構成される社会を分析するだけでなく、その階級を解消を善とするビジョンが前提としてあったことが原因だろう。
マルクスは人間は資本主義の中では生きていけなくなると思い、階級をひっくり返すためにそれらの本を書いたのだ。
ガブリエルの倫理資本主義は、資本主義と言う経済の仕組みのなかでも人類は生きていけるというビジョンがある。
倫理資本主義とは、倫理と資本主義を融合させられるという考え方だ。道徳的に正しい行動から利益を得ることは可能であり、またそうすべきである。資本主義のプラットフォームは人間性を向上させるため、道徳的進歩を遂げるために活用できる。今日の資本主義がサクセスストーリーとしてこれほど広範に受け入れられるようになった要因の一つがここにある。歴史の発展とそれに伴う社会政治的闘争を経て、資本主義は途方もない科学技術的進歩をもたらし、そこから生じる剰余価値の一部は産業、政治、市民社会で好ましい用途に使われる。
(p.43)
倫理と資本主義を融合させ、道徳的に正しい行動から利益を得ることは可能であり、またそうすべきである、という考えだ。
国家が道徳的に優れたサービス(医療、機会均等、あるいは無償教育)を提供するためには税収が必要で、その税収は経済活動の副作用として生み出される。要するに、道徳的に正しいことをして利益を得る(倫理資本主義)のと、道徳的に正しいことをするために利益を得ることの両方が存在する。そして両方を組み合わせ、道徳的に正しい行動によって得た利益を使い、道徳的に正しい行動をすることもできる。
このように資本主義社会は根本的に不公平、搾取的、貪欲、破壊的である(単にそう思われているというだけでなく)という理由で体制変更や革命を求めるのは誤りであり、危険な考えだ。まず認識すべきこととして、厳密な意味で資本主義社会などというものはあり得ない。資本主義は常に経済活動の(重要ではあるが)一つの側面に過ぎず、また経済活動もはるかに大きい社会の一部に過ぎない。近代において、資本主義はより大きな自由主義的構想、具体的には社会全体の決定権や支配権を社会生活の単一のレイヤーに委ねないという構想に組み込まれている。あらゆる取引が市場で商品化される資本主義社会があったとしたら、それは全体主義的な悪夢のような世界だろう。そこでは人権を売ったり、政治家を買収したりすることまでできるはずで、どこまでも腐敗した社会だからだ。幸い、私たちの社会はそのようなものとはかけ離れている。マルクス主義的およびネオ・マルクス主義的急進左派が私たちは資本主義社会に生きていると盛んに主張するという事実は、それが彼らのイデオロギ-の一部だからだ。私は本書を通じて、彼らは社会に対して誤った概念、社会的現実への誤った認識を持っているだけだと主張していくつもりだ。
もちろん資本主義も私たちの社会も、完璧ではない。私たちは暗黒の時代に直面し、世界史上まれに見る途方もないスケールの悪の脅威にさらされ、さらなる道徳的進歩が切実に求められている。うまく機能している自由主義の民主主義社会は現在おおよそ平和な状況にあるものの、不当な格差、人種差別、女性差別、家庭内暴力、悪質な経済主体、悪しき経営モデルが生み出した生態学的危機などに起因する問題はあまりに多く、今日の倫理的発達段階で足を止めているわけにはいかない。このような社会問題は解決する必要がある。倫理資本主義とは道徳的進歩を経済の推進力にも変えていこうとする考え方だ。
(p.44)
資本主義社会は根本的に不公平、搾取的、貪欲、破壊的であるが、そういう理由で体制変更や革命を求めるのは誤りなのだ。
ガブリエルは、「厳密な意味で資本主義社会などというものはあり得ない」という。
これは、ガブリエルには、資本主義は常に経済活動の一つの側面に過ぎず、また経済活動もはるかに大きい社会の一部に過ぎないという考えがあるからだ。
いまや資本主義はより大きな自由主義的構想に組み込まれている。それは社会全体の決定権や支配権を社会生活の単一のレイヤーに委ねないという構想だ。あらゆる取引が市場で商品化される資本主義社会があったとしたら、人権を売ったり、政治家を買収したりすることが当たり前の倫理になるはずで、腐敗した社会が資本主義のスタンダードになるだろう。
私たちの社会はそのようなものとはかけ離れているとガブリエルは言う。
マルクス主義的およびネオ・マルクス主義的急進左派が私たちは資本主義社会に生きていると盛んに主張するという事実は、それが彼らのイデオロギ-の一部だからであり、誤った概念、社会的現実への誤った認識を持っているだけなのだ。
7.資本主義の仕組みが存在する社会で大切なこと
では、資本主義の仕組みを含んだ社会で大切なことは何だろうか?
資本主義の特徴としてとりわけ重要なのが、私的領域の余地を残すことだ。なぜなら私的領域は買うこと、売ること、そして消費への新たな欲求を生み出す余地をつくるからだ。こうした欲求が資本主義の燃料になる。対照的に共産主義は、経済的検討の対象とならない社会領域がほぼ皆無になるほど、政治と経済の領域を融合させようとする。共産主義は資本主義ほど私的領域に関心がない。むしろ共産主義は中央による経済計画によって予測が立てやすいように、人々の私的欲求の複雑さを抑える必要がある。だが資本主義も共産主義も(敢えて両極を挙げるが)、社会と経済を一致させることはできない。両者は常に異なる。そして社会と経済はそれぞれ他のシステムに組み込まれる。たとえば自然のシステムだ。自然は社会経済活動をとりまく環境となる。人間という動物は自然の資源が提供される環境でしか剰余価値を生み出すことができないが、自然の資源のすべてが社会経済的評価の対象となるわけではない。自然のうちどの部分が経済の一部となるか自体が社会政治的議論の対象であり、それゆえに国家の規制対象となりうる。気候危機の時代に、この事実は経済活動においてより重要性を増している。
あらゆる経済は成長し、機能しつづけるために成長を必要とする。だからといってこれから見ていくとおり、資本主義が地球の限界を超えて成長し、地球を破壊するのが必然というわけではない。資本主義的な経済成長は、より多くの物質的資源を使用し、結果として地球の有限な資源を容赦なく消費し尽くすことと同義ではない。サービス経済や知識経済も経済の一部だ。ある会社の提供するサービス(私立学校あるいは私立大学の提供する教育サービスなど)には経済的価値(対価と潜在的利益)があるが、それに付随して地球の資源を直接消費するわけではない。もちろんこうした事業体の物理的インフラを維持するには資源の消費が欠かせないが、大学やインターネット企業をある種の工場のようにみなし、教育の剰余価値を隠れた物質的条件に還元してしまうのは誤りだ。
このように、経済が社会と完全に一致することは決してない。人間のすることすべてに対価があり、経済的価値判断の対象となるわけではない。そのうえ資本主義は、私たちの経済活動のすべてとイコールではない。私たちが「資本主義」と呼ぶものは、市場で価値判断を交換するためのかなり穏やかな条件の集合に過ぎない。私たちの経済的生活や現実はもっと複雑なものだ。そこには決して完全に商品化することのできない倫理的、法的、政治的、宗教的、美的価値観など、数多くの非資本主義的条件や価値判断が含まれている。
(p.41)
マルクス・ガブリエルは、資本主義の仕組みを含んだ社会で大切なことは私的領域の余地を残すことだと言う。
その理由は、私的領域は買うこと、売ること、そして消費への新たな欲求を生み出す余地をつくるからだ、と。
こうした欲求が資本主義の燃料になる。
対照的に共産主義は、経済的検討の対象とならない社会領域がほぼ皆無になるほど、政治と経済の領域を融合させようとする。
そうマルクス・ガブリエルは言う。
共産主義は資本主義ほど私的領域に関心がない。むしろ共産主義は中央による経済計画によって予測が立てやすいように、人々の私的欲求の複雑さを抑える必要があるのだ。
それはパステルナークが革命後のソ連を描いた「トクトル・ジバコ」などを見るとよくわかる。
資本主義の限界についてもマルクス・ガブリエルは語っている。
あらゆる経済は成長し、機能しつづけるために成長を必要とする。しかし、資本主義が地球の限界を超えて成長し、地球を破壊するのが必然というわけではないのだ。
資本主義的な経済成長は、より多くの物質的資源を使用し、結果として地球の有限な資源を容赦なく消費し尽くすことと同義ではない。
また、サービス経済や知識経済も経済の一部だが、インターネット企業のサービスや私立大学の提供する教育サービスなどの経済的価値(対価と潜在的利益)が地球の資源を直接消費するわけではない。大学やインターネット企業をある種の工場のようにみなし、コミュニケーションというサービスや教育の剰余価値を隠れた物質的条件に還元してしまうのは誤りなのだ。
経済が社会と完全に一致することは決してない。人間のすることすべてに「価値」があるが、経済的価値判断の対象となるわけではない。資本主義は、私たちの経済活動のすべてとイコールではないのだ。
「資本主義」と呼ばれているものは、市場で価値判断を交換するためのかなり穏やかな条件の集合に過ぎない。
私たちの経済的生活や現実はもっと複雑であり、そこには決して完全に商品化することのできない倫理的、法的、政治的、宗教的、美的価値観など、数多くの非資本主義的条件や価値判断が含まれている。そういうものをすべて経済的な価値に還元してしまうのが大きな誤りなのだ。
7.日本の共産主義者の誤解
しかし、日本の共産主義者はマルクス・ガブリエルのようには資本主義の本質を考えない。
いまだにマルクスの『資本論』にすがろうとする。
まるで聖書かコーランだとでも思っているのだろうか?
日本共産党の志位和夫議長は、『Q&A共産主義と自由」―「資本論」を導きに』という本の出版発表記者会見でこのように語っている。
マルクスは『資本論』を作成していく過程で、資本主義的な搾取の秘密を明らかにしていくわけですが、そのなかでマルクスは、「それでは搾取によって奪われているものは何だろうか」ということを考え抜いていくわけです。彼の結論は、人間が搾取によって奪われているのは「モノ」や「カネ」だけではない、「自由に処分できる時間」―「自由な時間」が奪われている。マルクスは『資本論草稿集』のなかで、「資本家は自由な時間、すなわち文明を、横領する」という言葉を使って、そのことを告発しています。
いま一つ、マルクスが考察したのは、「人間にとっての真の富とは何か」という問題です。もちろん富と言った場合に、物質的な富、これは人間らしい生活の基礎であり土台であり、それなくしてはいかなる「自由」も語ることはできません。同時に、マルクスは、それはあくまでも基礎であり土台であって、そのうえに、万人が「自由に処分できる時間」―「自由な時間」を持ってこそ、人間の「自由で全面的な発展」を実現することができると考えました。マルクスは「時間は人間の発達の場である」(『賃金、価格および利潤』)という有名な言葉を残していますが、『資本論草稿集』のなかでは「『自由に処分できる時間』こそ、人間と社会にとっての『真の富』である」ということがずばり語られています。搾取によって奪われている「自由な時間」を取り戻し、拡大し、万人が「自由な時間」を十分に持つことによって、自分自身の能力を「自由に全面的に発展」させることができる社会をつくろう。これこそが社会主義・共産主義だ。これがマルクスが『資本論』や『草稿集』でのべているメッセージです。
資本家から自由時間を取り戻せ!
ということだ。
社会主義革命によって確かにソ連では8時間が実現した。
そのことだけを捉えれば、労働者の働き方は革命によって改善された。
プラスの面ではある、しかし、マイナス面として、コルナイ・ヤーノシュの分析では社会主義革命にとって導入された自由経済から計画経済への転換でイノベーションは起きないようになり、物資の欠乏は常態化した。
それは社会主義の経済とイデオロギーは、欲望の私的領域までに介入することになるからだ。
プロレタリア文学とかプロレタリア絵画とかいろんな分野で文化が色分けされるようになった。
それはブルジョア思想を排除するためだった。社会主義社会にブルジョアはいてはいけないし、ブルジョア思想は要らないのだ。逆かもしれない。社会主義を標榜する国家にとってブルジョア思想の名の元に多くの人が収容所に隔離されり、処刑されたりした。
自由とは何かまで価値転換されたのだ。
労働者階級しかいないことになる社会主義社会ではそうなってしまうのだ。
志位氏にある記者がこんな質問をしたらしい。
――今回、この本で、時間に着目したのは興味深いと思っています。ジョージ・オーウェルの『パリ・ロンドンどん底生活』という本で、貧しい人たちは、休日、自由な時間があっても、有意義な使い方ができないということを書いています。時間ができても、のんべんだらりと過ごしている人たちも多いのでは。どう考えていますか。
志位 マルクスを読んでいきますと、「自由に処分できる時間」を持つことの重要性とともに、それを「享受する」ことの重要性も言及しています。人間は労働によって、物質的な富をつくり、さらに「自由な時間」をつくりだしていくわけですが、そうした活動をつうじて、それらを「享受する」――人間的に活用する能力、有意義に使っていく能力も――もちろんそのなかには豊かな余暇ということも含まれると思いますが――、発展させていく、これがマルクスの大きな展望だと言えると思います。
志位氏の考えでは、自由時間の確保が先で使い方は二番目なのだ。
自由のために時間を確保するという考えだったら、AI革命によって労働時間を短縮させることが有効だろうが、そういう言及は一切ない。
時間の使い方について説くものはネットや書店にごまんとある。
志位氏には目的としての体制変革があるだけだ。
その体制変革によっていかに人々の自由が失わさせられたかへの反省はない。
ジョージ・オーウェルの名前を出したこの記者は、ジョージ・オーウェルが書いた『1984年』を意識させようとしたのかもしれない。多くのひとが知っているのは『パリ・ロンドンどん底生活』より『1984年』のほうだ。
ジョージ・オーウェルの『1984年』はイギリス共産党がスターリン主義に染まっていた頃の批判の書らしい。
あの小説をすべての共産党員は読むべきだと思うが、国家が私的領域に介入していく姿がSF小説として描かれている。
志位氏の講義に感動したとかいう若い人のコメントが「しんぶん赤旗」に載っていた。
このコミュニティーはどうなっているのだろうか?
オウム真理教に傾倒していった若者たちは、環境破壊や家族の問題を憂う人が多かった。
オウム真理教の教義と修行に共感した人たちだった。
自由時間が政治活動の社会主義革命によって得られるのだと誤解する主張がまかり通っている政党がある。
党員が異論を本に書くのも除名の理由になる。
こういう政党こそ変わらなければならないのではないだろうか?
パトラとソクラのブログを読んでいる日本共産党員は多くないと思う。
だからここに書くことはあまり意味がないのだろう。
共産党側からもこのブログが反共ブログなので読むなと言われることもないと思う。
無視するだけだろう。
しかし、こういう私的領域の主張は大事なことだと思う。
共産党の人たちがこのブログを読んで目覚めてほしい。