1.全労連の調査は正しいのか?

 

全労連の最低賃金に関するこの要求を見て、いやあ、えらい高い要求だなあ、どうせこけおどしだろうと思っていました。

 

でも、ホームページを見て驚きました。


最低賃金」と「生計費」が5分でわかる!
全国一律の最低賃金
1,500円を勝ち取って
格差解消&「普通の暮らし」の実現へ!
なぜ、全国一律に最低賃金1,500円の実現が必要なの?

最低生計費を調べたら「大都市は物価が高いけど、地方は物価が安い」は間違いだとわかったからよ
「最低生計費=節約を極めた生活」ではないよ。
健康で文化的な「人間らしい暮らし」のこと。

 

 

最低賃金について、「5分でわかる!」というのにびっくりですが、全国一律1500円要求には調査した根拠があると書いてあります。

 

出典:全労連・国民春闘共闘「最低生計費試算調査」(持ち物財調査で7割の人が持っている物や、余暇、社会保険などの費用を丁寧に積み上げるマーケット・バスケット方式)

 

とか。

 

これはどういう調査かと言うと、全労連の組合員に偏っている調査で、全体の労働者の実態を完全に反映していない可能性があります。

また、もともと全国一律の基準を目指しているため、地域ごとの生活費の違いが十分に考慮されていません。健康で文化的な生活のための調査らしいです。つまり、いくら欲しいですかと聞いているわけです。

を採用していますが、これは実際の消費行動を完全に反映するものではなく、理論的な積み上げに過ぎないため、現実の生活費と乖離することがあります。

とくに全労連のマーケット・バスケット方式の調査には以下の批判があります。

・品目選定が恣意的になるとの批判があります。

・労働組合団体との合同調査であり、調査対象者が労働組合の組合員やその関係者に限られ、回答者の平均所得も高いことが多く、正社員が多くを占めます。

・一部の費目で算定基準が曖味になっている部分があったり、品目の耐用年数の設定が実情にそぐわない部分があったりします。

 

〇令和 2 年度生活困窮者就労準備支援事業費等補助金社会福祉推進事業
マーケットバスケット方式による最低生活費の試算に関する調査研究事業<報告書>より

 

https://www.murc.jp/wp-content/uploads/2021/04/koukai_210421_1.pdf

 


もともと全労連の調査目的が、生活に必要な費目を積み上げた、きちんとした生活=「健康で文化的な最低限度の生活」を送るための最低生計費を全国統一で求めることであるため、そういう結果が出るのは当たり前です。


2.経済学における最低賃金の問題

 

今、大学の経済学部の授業では通常こういうふうに学びます。

 

オーソドックスな理解からすると、最低賃金の引き上げを擁護することは極めて困難です。最低賃金が労働市場における均衡賃金以下に設定されていれば、最低賃金はそもそも意味がありません。他方、均衡賃金より高く設定されていれば、最低賃金は失業を生み出すことになるからです。

 

 

簡単に言うとこういうことです。

 

経済学では、需給曲線を学びます。

これは完全雇用をモデルにしていますが、均衡賃金より下に設定しても「最低賃金」を法的に強制することは意味がなく、均衡賃金より上に設定すると、失業を生み出す原因になるというものです。

 

 

 

たとえば、世界で一番多くの大学が採用しているグレゴリー・マンキューの教科書『経済学入門』ではこう書いてあります。

 

もし最低賃金かこの図で示されているように均衡水準よりも高ければ,労働の供給量は需要量を上回る.その結果,失業が生じる.このように,最低賃金が存在すると,仕事をを持っている労働者の所得は増加するが,仕事を見つけることができない労働者の所得は減少する.
 最低賃金について十分に理解するために,経済は単一の労働市場からなるのでなく,さまざまなタイプの労働者に対応する多くの労働市場からなることを覚えておこう.最低賃金の影響は労働者の熟練度と経験に依存する,熟練度が高くて経験豊富な労働者は,均衡賃金が最低賃金よりもはるかに高いので影響を受けない.こうした労働者に対して,最低賃金は拘束力を持だない.
 最低賃金は10代の若者の労働市場に対して最も大きい影響を与える.10代の若者は労働力のなかでも熟練と経験が最も乏しいので,均衡賃金が低くなりやすい.そのうえ,10代の若者は,しばしば実地訓練(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)と引換えに低い賃金を進んで受け入れようとする(10代の若者のなかにはまったく給与を受け取らずに「研修生(インターン)」として進んで慟く者もいる,しかしながら,研修生制度(インターンシップ)は無給なので,最低賃金が適用されない.もし彼らに最低賃金が適用されれば,そういう仕事は存在しなくなるだろう).その結果,最低賃金は10代の若者の多くに対しては拘束力を持つが,その他の労働者に対してはそれほど拘束力を持だない.

 

マンキュー『入門経済学』(第二版)p.150

 

 

 

 

オバマ政権を支持していたノーベル賞学者のジョセフ.E.スティグリッツの『入門経済学』ではこう書かれています。

 

低賃金の南部を廃絶することにより,連邦政府は人種差別と白人優越主義の最も堅固な砦を破壊したのである. 1960年代の公民権運動は,南部の資本流入への熱望を武器として利用することができた.同様に,北部への移住によって,多くの黒人たちの所得と教育の機会は劇的に増加することになった.しかし,その移住は同時にその他の黒人たちを,時とともにむしろ状況が悪化していく失業率が高いゲットーへと流入させてしまうことにもなった.

 

スティグリッツ『入門経済学』(第四版)p.190

 

 

 

ただ、アメリカでも最低賃金が経済や労働者の雇用にとって有効かどうかは今でも議論があるのも事実です。

最近の研究ではこういう見解もあります。

 

「最低賃金上昇の効率上のコストは小さい、小規模な所得再分配政策である。最低賃金に反対する人々はその効率上のコストを過大に懸念し、また上昇を主張するグループはそれによる貧困削減の影響を強調しすぎる」という内容である。

 


 

有効だという人は「貧困削減」の影響を強調しすぎているし、反対する人は最低賃金を実施する効率上のコストを過大視しすぎているということです。

 

最低賃金は、実際には思うほどの貧困対策になっていないし、コストも大きすぎないというものです。

 

 

3.実際の最低賃金の設定

 

日本では、実際の最低賃金は厚生労働省が審議会を開いて決定しています。各地にも審議会があり、そこで物価上昇や企業の支払い能力、現在の賃金状況を調査しています。

 

 

厚生労働省が最低賃金を決めるときに用いている統計資料は次のものです。


賃金構造基本統計調査:労働者の賃金の実態を把握するための調査で、産業別、職種別、企業規模別などの詳細なデータが含まれます。

 

 


最低賃金に関する実態調査:最低賃金の適用状況や影響を把握するための調査です。

 

 


地域別最低賃金の全国一覧:各都道府県の最低賃金額やその改定状況をまとめた資料です。

 

 


これらの統計資料を基に、労働者の生計費や賃金の支払能力などを総合的に考慮して最低賃金が決定されます。

 

最低賃金の効果とコストを考慮して決めているのが日本の最低賃金です。

 

中央最低賃金審議会で検討している資料を見るとそれがわかります。

 

 


わかりやすいのは審議会の見解から資料を辿ることです。

 

https://www.mhlw.go.jp/content/11302000/001127109.pdf

 

 

今回、この問題を考えたきっかけはブログに書き込まれたあるコメントからです。

 

調べてみて、パトラとソクラは全労連がどういう調査をしているのかを初めて知りました。

全労連での調査サンプルは正規社員が多く、また、生活水準をモデル化しているので、最初から予想している全国一律1500円という結果になることがわかります。

自分の見たい姿に結果をもっていく恣意的な方法です。

それが日本の経済や社会にどういう結果を招くのかまったく考えもしません。

実際にハローワークの職員と話してみるとわかりますが、最低賃金で問題になるのは非正規のパートタイム労働者のケースや身体障害者の短時間労働のケースが多いようです。

日本の産業構造で非正規労働者が多いことは問題だと思いますが、そういう事情を無視して最低賃金を設定することはできません。

日本で女性のM字カーブの労働が徐々にしか変わらないのは、被扶養者という扱いがまだ日本ではメリットになっているところがあるからです。一つの世帯で世帯主と非世帯主という関係があり、一家の家計が成り立っているという事情です。

一ヶ月150時間働く労働者が誰も時給900円であるわけではありません。
市場経済では、労働力も商品となっており、労働市場というものもあります。長く働く人は、時給の高いところを求めます。

 

上の雇用需給のモデルはあくまでモデルですが、この変形を考えればわかります。

日本では日本独特の労働市場が形成されています。この労働市場があるので、安すぎる賃金に留め置かれることはなく、餓死者が出ていません。

最低賃金を全国一律1500円にしたら、まず地方で廃業に追い込まれる飲食店が多発するでしょう。

地方の中小・零細企業にとっての人件費圧力と都市部では異なります。

そうするとそこで雇われていた労働者は失業します。

それらの飲食店の廃業は地域経済の衰退につながるでしょう。

 

全労連の労働者は比較的正規社員が多いようです。

その人たちの水準で日本全国の多種多様な労働者の生活を考えるのは間違いです。

 

いや、非正規労働廃止、もっと言うなら労働者階級が搾取されない社会を目指しているからこれでいいのだ、という理屈もあるでしょう。

 

それは社会主義革命モデルで、現在の世の中を考えていることになります。

ここは市場経済がある社会です。

 

根本的な思考の誤りがあるのに気付いてほしいものです。

全労連の調査方法の改善を期待します。

 

パトラとソクラは、東京土建の問題を2023年11月にこうブログで書きました。

 

その第三文明12月号に柳原滋雄氏が、「共産党関連団体でも「排除の論理」が横行」というタイトルの記事を寄稿している。

柳原氏によるとこういうことだ。

2019年3月に東京土建一般労働組合の副委員長に就任した島原孝氏は、組合員の要望実現のために尽力してきた。
ところが自民党や公明党に働きかけを行ったところから雲行きがおかしくなる。

 

(以下『第三文明』12号より

 副委員長に就任した島原氏は、組合員の要望実現のためには都議会野党の日本共産党だけでな く、与党にも働きかけが必要と考え、仲間を募り、20年7月に自民党、公明党の都議にも働きかけを行う。コロナ機で組合員業者の仕事の逼迫が予測されたた め、リフォーム助成度の創設を提案したのだ。両党はこの働きかけに乗り気の反応を示したというが、そうした行動に足元から冷や水を浴びせたのが土建幹部たちだった。

 

「あなたの行動は分派活動に当たる」——4役(委員長、副委員長、書記長、書記次長) から同様の言葉が飛び出し、島原氏らは統制委員会という名の「査問」にかけられ、4カ月後に 役職解任と組合員の権利停止、さらに除名処分を言い渡された。除名処分には再加人禁止が含ま れ、事実上の「死刑宣告」に等しい措置だった。

 

 

 

 

島原氏は東京土建で分派活動の理由で除名されていました。

自身の除名処分の無効について東京土建を相手取って島原氏は裁判を提起したのです。

その結果、最高裁まで争い、除名処分は無効となりました。

 

この裁判結果は「読売新聞」にも掲載されて、終わったものと思っていました。

 

しかし、東京土建の中央執行委員会は、第三回の中央執行委員会でこんなこと決め、6月10日に執行委員長名で公表しました。

 

 

5月22日読売新聞の朝刊で「東京土建役員の除名 無効」とする記事が掲載された。本記事は東京土建役員の島原氏らが本部に無断で都議会自民党に要望活動等をしたことに対し、組合が除名処分をしたことは無効であるとの上告審の判断を報道したものである。この記事ではあたかも自民党への要請行動は組合に混乱をもたらす行為と判断し、組合が島原氏らを除名したかのように記載されている。


しかし、組合は島原氏らが本部役員(当時)の立場でありながら組合の中に東京土建の名を冠した別組織を作り、さらには組合の中で会員募集を行い、東京都連役員を巻き込んで要望活動を行ったことを、「組合に混乱をもたらす行為」であると判断して除名処分にしたものである。判決文においても未来の会の活動にはある面「組合を混乱させる行為」があったとの認定している。除名処分が無効とされたことをもって未来の会の活動を「是」とした判決ではない。むしろ、判決の表現の中には島原氏らの行動の問題点も述べられている。


裁判の中で島原氏らは「東京土建本部は共産党だ」として自民、与党への交渉を行う団体を作った。さらに組合のための行動でもないと主張した。組合は全政党と平等な関係をもって活動をしていて現在に至るまで特定の会派に、偏った要望などはしていない。逆に島原氏らは、東京土建本部が要求実現のために東京都連を通して行ってきた交渉ルールを無視する行為をした。また、島原氏らは本部役員の立場でありながら、事実と違う理由をつけ、組合の中に「東京土建未来の会」と称する団体を作り、「本部は共産党、未来の会は与党へ」と実態と違う構図を作り、東京土建の中で会員募集を行うなど分裂につながる活動を行い組合に混乱を引き起こした。繰り返すが、東京土建が特定の政党を支持することはない。判決では分裂に至っていないから分裂行動ではないとしているが分裂してからでは組織が崩壊してしまう。島原氏は未来の会は解散すると約束しながら解散せずに活動を継続させたことから処分に踏み切ったものである。統制処分は組合自治の原則に基づくもので、本部定期大会でも確認された。今回の司法の判断は組合自治を認めない不当判決であることを私たちは強調したい。

 

「『未来の会に関する「読売新聞報道」についての東京土建の見解』2024年度第3回中央執行委員会 中央執行委員長 中村隆幸」より

○未来の会に関する「読売新聞報道」についての東京土建の見解(2024年度第3回中央執行委員会 中央執行委員長 中村隆幸)

https://www.tokyo-doken.or.jp/cms/wp-content/uploads/doken_data/top/240610_news.pdf

 

不当判決!

だって。

 

「司法の判断は組合自治を認めない不当判決であることを私たちは強調したい」

とか。

 

なんか部分社会の法理、万歳!なんて勢いですね。

 

さらに東京土建は声明でこんなふうに続けています。

 

島原氏は判決による自分たちの誤った行動・問題点の指摘を棚に上げて、除名処分を無効にしたことだけを取り上げ「まっとうな判決」とコメントしている。記事における成蹊大の原教授のコメントも「組合内の民主的活動は守られるべき」となっているが、組合での議論と決定に従って行動する組合民主主義を破ったのは島原氏らだ。島原氏らの行動が組合民主主義に沿ったものではないことは判決文を精査すればわかることである。組合内の民主主義とは組合内において徹底的に議論する事であり、議論に納得できないとして「未来の会」のように別組織を作って活動することではない。

 

読売新聞の記事については取材要請が東京土建に来たが、裁判により組合員に復帰した島原氏らのことを慮り(おもんばかり)、東京土建は応じなかった。しかし、島原氏はコメントを寄せるなど取材協力をおこない記事が作成された。
このような記事によりいくつかの支部の組合員からの問い合わせでは、「組合として対応するべき」等の意見が本部、支部に寄せられた。区議会議員からも東京土建で何が起きているか問い合わせがあった。


これまでの自治体要請の取り組みの到達に加え、100万人国会請願署名の到達をふまえ、組合員要求の実現の為にこれから全会派への議員要請、自治体要請を展開するときに、この新聞報道によってブレーキをかけられた状況となっており、組合の運動に影響を及ぼす混乱を引き起こしている。


さらに未来の会関係者は記事の内容等の事で支部組合員に連絡し、新聞記事を拡散している。まさに組織的な混乱が島原氏らによって現在進行形で進められている。


以上のことを、第3回中央執行委員会(2024年6月3日)で確認した。今後は、東京土建が組合員の生活と仕事を支える運動に注力していくためにも、未来の会の問題を支部・本部で組織的に解決していくことを訴えていく。

 

○未来の会に関する「読売新聞報道」についての東京土建の見解(2024年度第3回中央執行委員会 中央執行委員長 中村隆幸)

https://www.tokyo-doken.or.jp/cms/wp-content/uploads/doken_data/top/240610_news.pdf

 

東京土建はどうなっているのか?

 

裁判結果を真摯に受けとめ反省します。

ってこととは正反対みたいですね。

 

むしろこの判決で、議員への要請活動にブレーキがかかって迷惑している、みたいな。

 

ところで、裁判所の見解はホントはどうなのでしょうか?

 

松竹伸幸氏のメルマガに判決文の引用がありましたので、それを繋いでみましょう。

 

分派活動について、地裁判決ではこう書かれているようです。

※地裁判決を高裁判決が多少補正していますが、地裁判決と大筋同じです。

 

最高裁は控訴棄却しているので、ベースは地裁判決の内容だということがうかがえます。

 

以上に加え、本件綱領及び本件規約において、被告が統一と団結を大切にし、これを強めるよう努める旨規定されていることも併せ考慮すれば、原告らの未来の会としての活動が、被告の本部役員に対し、被告の分裂を企て、被告に混乱をもたらそうとしているとの懸念を抱かせるものであったことは否定し難い。


原告らにおいて、被告の現状に対する不満や批判を前提として、都議会与党との連携を図る目的を有していたとしても、被告において特定政党支持の立場を前提としていない以上、要請行動の在り方に関する意見の対立については、被告内部の議論と多数決による解決が想定されていたものというべきである。上記の不満等や目的の存在により、原告らの活動が直ちに被告の方針や綱領に反するものとはいい難い。

 

島原氏の行動は、確かに東京土建の分裂を企て、混乱をもたらそうとしているという疑念を東京土建側に抱かせるものであったことは否定しがたい。つまり、東京土建の幹部が島原氏らを分派活動を行っていると思うことも無理はないと。

 

でも、東京土建がどんな目的で議会要請を行っていたとしても、東京土建は特定政党支持の立場を前提としていない以上、要請行動の在り方に関する意見の対立については、東京土建の議論と多数決による解決が想定されていたものというべきである、とも言っています。

だから、島原氏らの活動が直ちに東京土建の方針や綱領に反するものとはいい難い、と。

 

さらに地裁はこう述べています。

 

以上述べたところを総合すると、原告らの活動は、被告による要請行動に対する批判や不満に基づくものと推認されるものの、この点が直ちに被告の分裂を企て、被告に混乱をもたらすものとはいえない。また、原告らの活動は、その内容面においては被告の方針に沿うものであり、相手方との関係において、被告の活動との誤認等を意図したものとはいえず、また、組織の面においても、被告の内部に別組織を形成し、被告の分裂を図ったものとは直ちに認め難い 。以上によれば、原告らの未来の会としての活動が、被告の分裂を企て、被告に混乱をもたらす行為であったとはいえず、本件規約 40条1項4号の統制事由に該当するとは認められない。


除名処分の無効には、東京土建による除名処分の手続き上の瑕疵が影響していると思われます。

 

裁判所が認めた手続き上の瑕疵はこういうことです。

 

そもそも令和2年10月1日の第7回中央執行委員会では統制委員会に対し統制処分の申立てをすることについて相当数の反対票が投じられ、統制処分の可否自体については慎重に賛否を集計すべき状況であったにもかかわらず、同年11月2日の第8回中央執行委員会においては、会場に出席した参加者からの拍手、ウェブを通じた参加者からの意思表示によって採決が行われ、賛成多数として統制委員会の答申を承認する旨議決されており、投票の秘密性も担保されず、また、賛成が多数か否かも不明瞭な投票方法によって、採決が行われたということができ、手続として不適正であったといわざるを得ない。

 

除名処分いついて、参加者からの拍手、ウェブを通じた参加者からの意思表示によって採決が行われたとか。

投票の秘密性なし、賛成が多数か否かも不明瞭な投票方法によって採決が行われたと裁判所は言っています。

 

でも、これはひどいですね。

ソ連で行われたブハーリン裁判みたいです。

 

高裁判決で補正されたのは、島原氏らが意見を表明した統制委員会の審理の場で、処分理由にLINEグループでのやり取りがあったけれど、それは明らかになっていなかった。その結果、島原氏らは、この問題では何も弁明する機会は与えられなかった。

このことを高裁判決はこうこう述べていま。

 

控訴人(東京土建)が、本件LINEグループの投稿を上記申立ての対象たる統制事由の証拠として用いるにとどまらず、その投稿を基に上記各事由を統制事由として追加して本件各統制処分をしたことは、統制委員会規程に違反することが明らかである。

 

むしろ東京土建がやったことが、規定違反だと。

まあ、当たり前のことですね。

 

でも、東京土建の執行部は、あくまで島原氏の行動は組合内の民主主義を破ったと今でも言っています。

 

裁判所の見解はどうだったのでしょうか?

 

東京土建執行部は、島原氏がつくった「未来の会」は規約に定めのない組織であり、規約に反すると主張していました。

 

でも高裁判決はこう言っています。

 

組合員有志が任意団体を設立することを禁止しているとは認められない。

・・・

(未来の会は任意団体であって東京土建の)組織体制と抵触するものではなく、(東京土建の)方針に沿うものであり、分裂を企図したとは認められない。

 

東京土建の側は、未来の会の活動について、東京土建執行部の決定を経ずして行うことは認められていないとも主張しましたが、東京高裁の判断はこうです。

 

未来の会を設立したことが、本件規約に違反するとは認められず、未来の会として活動した当時、組合員有志が任意団体を設立して特定の政党に要望活動をすることが許容されないことが明らかにされていたとは認められない。

 

最も東京土建執行部が判決を曲解しているのは、

 

判決文においても未来の会の活動にはある面「組合を混乱させる行為」があったとの認定している。除名処分が無効とされたことをもって未来の会の活動を「是」とした判決ではない。むしろ、判決の表現の中には島原氏らの行動の問題点も述べられている

 

と主張していることです。

 

しかし、実際の判決では、

 

未来の会の活動が控訴人(東京土建)に混乱をもたらすものであったと判断したことは、一定の根拠に基づくものであったということはできる。

 

とはしていますが、(除名の根拠とされた規約第40条4号により)「分裂の企図と併記して、……混乱をもたらす行為」を処分理由にしていることをこう言っているのです。

 

その混乱の程度は、分裂の企図に類するような控訴人に実害を生じさせるおそれを有するものであることを要すると解される。

・・・

(東京土建に)実害を生じさせるおそれがあるほどの混乱をもたらす行為であったとは認められない。

・・・

原判決(地裁の除名処分無効)は相当であり、本件控訴及び附帯控訴はいずれも理由がないから棄却する。

 

それでも東京土建が最高裁の判決も「不当!」というのはどうなんでしょうか?

 

裁判所が言っているのは、島原氏らが「未来の会」をつくって運動したことが、執行部に分裂の疑念をもたせたことは否定できない。

しかし、除名にああ対するほどの分派活動ではなく、むしろやっていたことは東京土建の方針に沿っていることだった。

それなのにいい加減な手続きで除名処分したことは認められない、ということです。

 

東京土建執行部には真摯な反省が求められます。

むしろ組合員がこういう執行部は辞めさせるべきではないでしょうか?

 

1.どういう事件なのか?

 

パトラとソクラ:医療生協さいたまの役員の職場内性暴力の問題についてどういう事件なのか教えてください。

 

copilotの答え:

 

医療生協さいたまの役員による職場内性暴力の問題は、元専務理事の斎藤氏が女性職員に対して性暴力を行ったという事件です。この事件に関して、以下のような経緯があります:

 

 

 


加害行為: 斎藤氏が女性職員に対して性暴力を行った。


処分と退職: 斎藤氏は共産党から除名されましたが、専務理事の職からは円満退職し、2800万円の退職金を受け取りました。


隠蔽と対応: 共産党埼玉県委員会はこの事実を他の党員や第三者に伝えないように通達し、事件を隠蔽しました。そのため、被害者への謝罪や救済、再発防止策の策定が行われていません。


被害者の訴え: 被害者やその支援者が共産党に対して意見や質問を送ったものの、回答はなく、逆に共産党から除籍されました。

 

 

 
日本共産党内でも有志の後援会ができています。
 
このサイトでは一連の経緯についてこう書かれています。
 
○経緯と現状

2021年10月    医療生協さいたまで、セクハラの疑いがある理事の自己都合退職を、理事会が承認。セクハラは問われず。
2021年11月    「医療生協さいたまのセクハラをなくす会」発足、ウェブサイト開設。
2021年11月    代表平川の自宅に、医療生協の雪田理事長名義で、特定記録の郵便が届く。内容は「情報を提供してほしい」
2021年11月    上述の要請に、当会から「サイトで開示している」旨返答。
2021年11月    理事長名義で、セクハラ被害者あてに、聴聞に応じるよう要請する通知。
2021年12月    前述の要請に、被害者から「労組の聞き取りに応じており、そこで事実は確認できる。たびたびの聴取は耐え難い」旨を返答。
2022年01月    医療生協さいたまが、「事実調査委員会」を設置(医療生協の顧問弁護士の事務所内)。
2022年01月    性被害証言を躊躇する被害者に対して医療生協さいたまの顧問弁護士が「理解できない」旨の回答。結局、任意の弁護士に陳述書の作成を依頼し、その費用を医療生協さいたまが負担することとなった。
2022年01月    当会メンバー(医療生協組合員)から、各監事自宅に、調査のお願いを送付。「役員の自己都合退職を決めたとき、理事長はセクハラの事実を知っていたのではないか」
2022年02月    事実調査委員会から被害者あてに再び調査の要請。「詳細な内容がわからなければ事実判定ができない」
2022年03月    監事会から返答なしを確認(3/15までの返事をお願いしていた)
2022年04月    理事長から、当会メンバー宛に「監事の住所をどう知ったか」と問い合わせ。生協内部からの漏洩でなく当会が独自に調査した旨を返答。
2022年05月    理事長から、当会メンバー宛に再度問い合わせ。「貴殿には、本人の同意なく個人情報を入手された方法を開示する責任があるものと考えます」
2022年05月    事実調査委員会が結果報告。セクハラの訴えについて「断定する根拠は、ないものと言わざるを得ない」とした。
 


この事件は、医療生協さいたまが持つ地域医療への貢献と対照的に、組織内での深刻な問題を浮き彫りにしています。

 

 

2.どうして被害者が党から除籍されたのか?

 

パトラとソクラ:医療法人さいたまの事件ではどうして被害者が党から除籍されたのですか?
 

Copilotの答え:


被害者が共産党から除籍された理由は、事件に対する対応や意見を表明したことが原因とされています。具体的には、被害者やその支援者が共産党に対して事件の説明や対応を求める意見や質問を送った際、党からの回答がなく、逆に除籍されるという対応が取られました。

このような対応は、事件の隠蔽や被害者の声を無視する姿勢が問題視されています。被害者の訴えに対して適切な対応がなされなかったことが、さらなる批判を招いています。

 

 

3.どうして共産党は事件を隠蔽しようとしたのか?

 

パトラとソクラ:この事件の過程でどうして共産党は事件を隠蔽しようとしたのですか?

Copilotの答え:


共産党が事件を隠蔽しようとした理由については、いくつかの要因が考えられます:

組織の評判保護: 事件が公になることで、党の評判や信頼が損なわれることを避けたかった可能性があります。特に、共産党は倫理や正義を重んじるイメージを持っているため、内部での不祥事が明るみに出ることを恐れたと考えられます。


内部の権力構造: 斎藤氏が重要な役職に就いていたため、彼の行動が公になることで、党内の権力構造や人間関係に影響を及ぼすことを避けたかった可能性があります。


法的リスクの回避: 事件が公になることで、法的な問題や訴訟リスクが増大することを避けたかった可能性もあります。


内部調査の不足: 事件に対する適切な内部調査や対応が行われなかったため、結果的に隠蔽する形になった可能性もあります。


これらの要因が複合的に作用し、事件の隠蔽が行われたと考えられます。被害者の声が無視されたことや、適切な対応がなされなかったことは、組織としての信頼性に大きな影響を与えています。

 

 

4.事実はどうだったのか?

 

パトラとソクラ:この事件に関して医療生協さいたまの経営者はどういう見解なのですか?
 

Copilotの答え:


医療生協さいたまの経営者は、前専務の職場内での性暴力行為について認識しており、再発防止に取り組むべきだとしています。

 

理事会はこの問題を真摯に受け止め、医療業界全体での予防制度の確立に向けたイニシアチブを発揮することを求められています。

 

 

パトラとソクラ:この事件で、事実調査委員会がセクハラの訴えについて「断定する根拠は、ないものと言わざるを得ない」としています。医療法人さいたまの経営者は事実を認定したのですか? 

セクハラを許さない医療生協さいたま組合員有志後援会が加害者と病院、共産党に送った公開質問状への答えはあったのですか?
 

Copilotの答え:


「セクハラを許さない医療生協さいたま組合員有志後援会」が送った公開質問状に対して、現時点では回答がなかったようです。後援会は、性暴力の根絶と再発防止を求めるために、共産党や医療生協さいたまに対して具体的な行動を求めていますが、回答が得られていない状況です。

 

 


 

 

『Q&A共産主義と自由――「資本論」を導きに』(志位和夫著)について、長久理嗣・日本共産党学習・教育局次長が書評を書いています。

 

『資本論』での洞察――人間が外的な義務から解放されて自由に使える時間が広がる、そこに「真の富」があることが力説されます。資本によって搾取され奪われている「自由な時間」を取り戻し、「人間の自由で全面的な発展」を可能にする自由な社会をつくろう、と呼びかけられました。

 

 

まあ、身内の提灯記事なんですが、この政党にはよくわかっていらっしゃらない方が多いように思います。

 

搾取の自由ってのは、資本家になる自由です。

経済活動の自由です。

それを禁止すると言うことは起業を認めないってことです。

まあ、中国型の社会主義を目指しますと言えばいいのですが、あれは搾取の自由を認めていて、国家のイデオロギーは別だというものです。

でも中国の社会主義も日本共産党は社会主義ではないって言っています。

 

 

ところで、楽天グループを起業した三木谷浩史氏の著書に『成功のコンセプト』があります。

 

少ない元手でサイバー上にモールを作った話が書かれています。

 

「ビジネスで成功する鍵は、仕事を最大の遊びにできるかどうかだ」
「面白い仕事はない。仕事を面白くする人間がいるだけだ」

 

三木谷氏はこう言っています。

 

仕事を面白くする、ビジネスを遊びと思う。

そういう人でないと起業はできません。

イノベーションはそういう志と競争のなかで生まれます。

 

共産党の人に綱領を読めと言われたので読みました。

 

社会主義・共産主義の日本では、民主主義と自由の成果をはじめ、資本主義時代の価値ある成果のすべてが、受けつがれ、いっそう発展させられる。「搾取の自由」は制限され、改革の前進のなかで廃止をめざす。搾取の廃止によって、人間が、ほんとうの意味で、社会の主人公となる道が開かれ、「国民が主人公」という民主主義の理念は、政治・経済・文化・社会の全体にわたって、社会的な現実となる。

 

 

いや、やっぱり搾取は廃止って書かれています。

マルクスが言った搾取の廃止は、資本主義の廃止であり、資本家の排除です。

『資本論』に貫かれている労働価値説、剰余価値論で資本主義を考察するとそうなるのが当然です。

 

つまりマルクスが目指したのは起業家がいない世界なのです。

 

志位さんの陳腐化された社会主義のお題目の本を読むくらいなら、コルナイ・ヤーノシュ『資本主義の本質』を読んだ方が本当の「自由の時間」を考えることが出来ると思います。

 

 

 

 

志位さん、起業家って不要なんですか?

 

 

安芸高田市長選挙の結果です。

藤本悦志(無所属・新)当選 6746票
熊高昌三(無所属・新)4541票
赤津誠一郎(無所属・新)1216票
森谷公昭(諸派・新)106票

藤本氏が前の市議会議員の熊高氏らを抑えて、初めての当選を果たしました。

 

 

 

藤本氏は安芸高田市高宮町出身で、旧高宮町の職員などを経て、安芸高田市にある吉田郵便局の局長を去年まで務めていました。

年齢は51歳。

選挙戦で藤本氏は、子育て世代への支援に加え、移動支援などの高齢者政策の充実を訴えたほか、前市長のもとでの市政は市民や議会との対話が不足していたとして「対話からの前進」を掲げていました。
藤本氏は「4年間の市政の評価はいろいろあると思うが、安芸高田市を良くしたいという皆さんの思いを束ねれば大きなパワーになる。市長派だとか、反市長派だとかで足を引っ張る時代ではないので、目の前にある多くの課題をオール安芸高田で乗り越えていきたい」と述べたとか。


投票率は58.07%で、前回、4年前の選挙と比べて1.09ポイント高くなり、市民の関心の高さがうかがわれました。

 

読売新聞は選挙結果についてこう報じています。

 

石丸氏は市長在任中、小中学校の給食無償化などに取り組んだが、市議会との対立を背景に、道の駅への生活雑貨店の誘致は頓挫した。石丸氏は辞職の際、後継指名はしなかった。

当選を決め、花束を受け取る藤本さん(午後9時11分、安芸高田市で)
 昨年11月に立候補を表明した藤本氏は「(市長と市議会が)ギスギスしている現状をどうにかしてほしいという住民の声に応えたい」と主張。多くの市議らから支援を受け、支持を広げた。

 

 

候補者4人の政策を比較すると、実際に得票数を激しく争った二人の内、熊高候補は市政の「継続と改善」を掲げ、もう一人の藤本候補は「対話からの前進、やっぱりあったかいまち」と石丸市政を継続しないことを公約に掲げています。藤本候補が高宮町議会議員、安芸高田市議会議員の議員経験があるのに対して、熊高候補は議員初挑戦でした。

 

 

 

要するに石丸市政の継続の争点で熊高候補が負けたことになります。

 

この票数の意味はどういうことなのでしょうか?

 

では、前回の石丸氏が当選したときの得票者数はこうでした。

 

石丸伸二   8,074

竹本みねあき 5,344

 

合計13,420でした。

 

石丸氏の後継は政党の組織票に負けたのだという意見もあります。

では、安芸高田市での政党の得票はどうなっているのでしょう?

 

○令和3年衆議院議員選挙(比例代表)

自由民主党 6,273

立憲民主党   2,396

公明党         1,872

日本維新の会1,133

日本共産党      420

国民民主党      347

れいわ新撰組   329

N国党            133

合計                 13,194

 

前回選挙では石丸氏の対立候補の竹本氏は自民党・公明党票の約8,000票に及んでいませんね。

今回の選挙でも勝った藤本候補の得票は6,746票。

まったく自民・公明の組織票に足りていません。

 

石丸伸二氏が挑戦する前の安芸高田市長選はどうだったのでしょうか?

 

平成28年の市長選挙はこういう結果でした。

 

浜田一義  6,973

やまね温子 6,498

有田清士   748

 

おっ、やまね温子って、あの石丸伸二氏に名誉毀損裁判で二審まで勝っている市議会議員ですよね。

 

 

 

やまね候補の得票数は6,498票、令和3年衆議院議員選挙(比例代表)の自由民主党の得票数6,273票に近いですね。

やまね議員は自民系の最大会派に所属しており組織票をがっちり掴んでいたことはうかがえます。

でも、やまね議員って市長になり損ねた人だったんですよ。

のろまな姿が印象的でしたが、街の名士だったんです。

 

その人をあんなにバカにしちゃ怒る市民もいるでしょうね。


政党の後ろ盾のない藤本候補が4,500票も取るんですから、浮動票というのは移り気な、でも政治の変化に敏感な市民層なのでしょう。

 

市長選は国政選挙や市議会の党は選挙と違って、都市でも地方でも浮動票ってのがあることが推測されます。

それは前回の石丸伸二候補のときもそうですし、今回の選挙も同じでしょう。

 

そこで、今回は前市政の継続か刷新かが争点だったことは報道からも明白です。

そこで3:2の得票差で石丸市政を継続すると謳った熊高候補が敗れたのです。

 

これも浮動票がカギだったのかもしれません。

安芸高田市の内外、とくに外ではYouTubeやXで盛り上がっていました。

炎上と言ってもいいかもしれません。

 

前市長が確執を深めた市議会への就任あいさつでは「幹部会議では、市議会との4年間の反省の上に立ち、関係を改善する話をした。関係を保ちながら、市民の負託に応えたい」と話した。

 就任会見では、前市長が基本構想策定費を専決処分した認定こども園の計画について、手続きを「いったん止めさせてもらいたい」と話し、方針を変える考えを改めて示した。

 前市長が予算執行を止めた市議会の広報誌「議会だより」についても「執行停止を解除したい」と話した。通常各世帯に配布される議会だよりは現在、ウェブ版のみ公開されている。

 前市長と市議会の応酬や記者会見の動画を編集した「切り抜き動画」がネット上で拡散している問題については「事実と違うものについてはそれなりの対応をする」と述べ、削除要請を検討するという。

 

 

認定こども園の計画も中止なんですね。

 

石丸劇場は第一幕で終わったということでしょう。

 

で、いったん始めた給食無償化などはどうなるんでしょうね?

 

安芸高田市の劇場現象、何かに似ています。


「自民党をぶっ壊そう!」と言って登場した人がいました。その人の派閥は最大派閥となり、政治資金を不記載の指令を出したお金が派閥に配られています。


搾取と不平等の廃止を唱えた革命が、ノーメンクラトゥーラと官僚による特権を生み、競争の排除と平等の追求がイノベーションを生まない社会になり、崩壊しました。


上っ面のスローガンに騙されるのは古今東西であります。

 

「○○を動かそう!」「かっこいい大人を見せつけよう!」


そう言っていた人がいます。

しかし、その人が前職の市長職で行ったことは、空虚な文句を語り、それまでの議会のあり方を否定しました。すると、議会はギスギスし、議員のひとりを名誉毀損したら、訴訟を起こされ、市長が敗訴する。ポスター不払いは最高裁にも支払を命じられる。

 

その石丸劇場は東京都知事選に舞台を移しました。

それは、そろそろ舞台を移さないと自壊していたからでしょう。

その後、市民は石丸氏の後継を否定しました。


もしかしたら、東京都民は石丸氏を選ばない選択をしたことが一番褒められることなのかもしれません。

 

 

 

戸谷洋志『SNSの哲学』(創元社)という本があります。

目次はこんなふうになっています。

 

1章 なぜSNSで承認されたいのか?
 1 「SNS疲れ」の正体
 2 私たちはなぜ承認を求めるのか?
 3 相互承認の境地へ

2章 SNSにはどんな時間が流れているのか?
 1 タイムラインに時間は流れていない
 2 SNSに時間を作りだす
 3 人間の生きる時間性

3章 SNSではどんな言葉が交わされているのか?
 1 私たちはなぜ「つぶやく」のか?
 2 「つぶやき」と炎上
 3 言葉とルール

4章 SNSに偶然はあるのか?
 1 SNSのアルゴリズム
 2 アルゴリズムと偶然性
 3 自分自身を創造する

5章 SNSで人は連帯できるのか?
 1 政治に利用されるSNS
 2 SNSがつむぐ連帯
 3 つながりに力を与えるために

 

 

 

 

高校生向けに書かれた本ですが、「哲学」というタイトルであるので、各章でひとりの哲学者のことばが紹介されています。

 

第一章の「承認」ではヘーゲル、第二章の「時間」ではハイデガー、第三章の「言葉」ではヴィトゲンシュタイン、第四章の「偶然」ではベルグソン、第五章の「連帯」ではアーレントです。

 

今日のブログで問題にしたいのは、第二章の「時間」でのハイデガーの考え方です。

 

ふだん人は時間をあまり意識しないか、意識するときは時計を使って、測られた尺度として意識します。

測られた尺度としての時間は、等質な「単位」としてとも言えるでしょう。

何時間働いたとか、何時間分奪われたというときの「時間」です。

でも、たいがいの人は日常、時間を忘れています。これをハイデガーはふつうに「忘却」と呼びます。ハイデガーの思想では「時間」と同じように、「死」もふだん人が忘れていることとして根本問題に据えています。

 

戸谷氏はこの本のなかで「SNSのタイムラインには時間は流れていない」と言います。

これはどういうことでしょうか?

戸谷によるとInstagramなどのSNSにアップされているデジタル情報は物質で表されているものがそこに刻まれているだけだと言います。タイムラインは「順番」に過ぎないというのです。記録が順番に並んでいるに過ぎないという主張です。

唯一、InstagramやFacebookで表現される「ストーリーズ」は一回で消えるもので、見た人と時間の共有ができるものだと言います。後で見返すことのできない貴重な時間の共有として捉えています。

 

私たちの生きている日々は、常に新しい可能性に開かれています。ハイデガーはこれを意識することを「到来」と呼びます。なぜ「到来」という表現になるかというと、ここにおいて私たちは、日常の繰り返しから離れ、いわばそのループから抜けだし、別の可能性へとやって来ることができるからです。

 

『SNSの哲学』p.56

 

日常がただの繰り返しだと思っている限り、その人の人生は他人の言葉をそのまま信じ、上司や上部組織の意のままに生きてきた直線的な人生のように見えます。

本当はその一瞬一瞬に他に開かれたいくつもの扉があったはずなのです。

 

「私」は、そうした別の可能性を秘めた扉をあえて開くことなく、今ある人生を送ってきたのです。

ハイデガーは、それでも「これが自分の人生」であると受け入れることを、「既在」(きざい)と呼びます。つまり、「今ここに既に存在する自分を、ありのままに引き受ける」ということです。

ハイデガーは「到来」と「既在」が一体となった現在のあり方を、「時熟」(じじゅく)と呼びます。難しい言葉ですが、ハイデガーがイメージしていたのは、チクタクと時計の針が回り続けることで経過していく時間ではなく、過去と未来が一つになり、「私」がいま生きているこの「現在」が厚みを持って成熟していくような、そうした時間のあり方です。それが私たちにとっての根源的な時間にほかならない、とハイデガーは考えたのです。

 

p.57

 

戸谷氏は難解なハイデガーの思想を必死にやさしく解説してくれています。

それでも難しいひとには難しいかもしれません。

 

戸谷氏は時間の「一回性」ということを言います。

ストーリーズはほかの投稿と違って一回しか再生できないという時間の一回性の価値を売りにしているのでしょう。それは人々が今という時間の稀少性、貴重な価値を感じるからでしょう。

 

「今、ここに生きている」という自分を感じることが「時間」を取り戻すことです。

それこそ時間と生活が言ったいになることです。

楽しいときは、単位としての時間を忘れています。

気がつくともうこんな時間。

でも、後悔することなくとても楽しかった。

一過性の楽しいゲームをしたときとは違う体験です。

そういう経験が誰でもあると思います。

 

マルクスが分析した自由に処分できる時間こそ大事なもので、それは資本家によって奪われたものだと主張する人がいます。

 

マルクスは経済学を徹底的に研究するなかで、搾取の秘密を解明。搾取によって人間と社会にとっての「真の富」である「自由に処分できる時間」が奪われていることを明らかにし、それを取り戻し、万人が十分に「自由に処分できる時間」をもつことで、すべての人間に「自由で全面的な発展」を保障する社会こそが社会主義・共産主義だということを明らかにしていったことを語りました。

 

 

でもこんなことを聞く人もいたそうです。

 

「『自由に処分できる時間』の大切さはわかったが、共産党には自由な時間があるのでしょうか」との質問も。志位氏が、共産党は、もともと各人の自由な意思で集う結社であるとともに、「自由に処分できる時間」の拡大は自然に起こるものでなく、たたかいによって勝ち取ってきたものであり、このたたかいを推進することが共産党の役割ですと回答しました。

 

「共産党には自由な時間があるのでしょうか?」

 

こう質問した人は哲学者かなにかでしょうか?

「自由な時間」とは何なのかという根源的な問いのような気もします。

 

共産党関係のニュースで、今本当に自分の時間を取り戻そうとしているのは松竹伸幸氏でしょうね。

彼はこの歳になって無駄な時間を使っているかもしれないとときどき思うなどと、ぼやいたりしていますが、今人生で一番、時間を忘れる生活をしているのではないでしょうか。

彼は明らかに目覚めたのです。

そして過去と未来を一つにして今を厚くしようとしている。

 

彼には実現したい未来があります。

自由に処分できる時間ではなく、その時間に何をしたいかです。

共産党での党首公選制で政党のなかにも民主主義を実現したい、核抑止抜きの専守防衛で平和な世界を実現したい。

彼はそのために「今、ここ」を生きているのでしょう。

 

自分の信じたマルクス、エンゲルス、レーニンが描いた世界が崩れたとき、なおかつマルクスの著書のどこかから現実に起きたことから目を逸らすフレーズを探す人もいます。

聖書の一節を取り上げて、これこそ正しいという宗教的な態度とどこがちがうのでしょうか?

 

現実に起きた失敗を分析し、もう二度と同じ事を起こしてはいけないと取り組むのは科学的態度でしょう。

 

志位氏は、旧ソ連や中国の問題の原因は、指導勢力による誤りとともに「両者に共通する問題は『革命の出発点の遅れ』です」と強調。発達した資本主義から社会主義に踏み出す日本では、高い生産力、自由と民主主義、人間の個性―など、「資本主義のもとでの豊かな可能性を引き継いで先に進みます」「『自由のない社会』など絶対にならないし、いたしません」と力説しました。

 

未だにこんなことを言っています。

では、革命前、チェコスロバキアや東ドイツは工業化が進んだ資本主義国ではなかったのでしょうか?

問題はそこにあるのではなく、国家や党組織の問題なのです。

今、異論を唱えたからと党組織から排除している行為そのものが、社会主義崩壊の原因だと気付かないのです。

 

不思議なのはこの言葉をおかしいと思うのではなく、信じている党員や知識のない若者が信じてしまうことです。

 

時間がただ過ぎているループから抜け出し、「到来」を感じることを期待します。

でも、自分の生きてきた時間、それを否定されたくない人が多数なのでしょう。

そして、これまでが正しかったのだと「既在」とする。

しかし、それは「時熟」なのでしょうか?

 

過去と未来が一つになり、「私」がいま生きているこの「現在」が厚みを持って成熟していくような、そうした時間のあり方なのでしょうか?

 

それはひとりひとりが考えなければならないことでしょう。

 

最近、ある政党が労働者が自由時間を資本家から取り戻すために社会主義革命が必要だと言っています。

労働時間を短くしたい → 社会主義革命 という短絡的な発想に驚くのですが、それを支持している人々もいるようなので、労働時間を短くするためにはどうすればいいのかを、パトラとソクラがステップを踏みながら考えてみます。

 

1.日本の労働者の労働時間はどのくらいなのでしょうか?

 

まず、日本の労働時間は本当に長いのでしょうか?

 

OECD(経済協力開発機構)の2021年の調査によると、日本の平均年間労働時間は1607時間で、これはOECD加盟国全体の平均年間労働時間1716時間よりも少ないのです。OECD加盟国中、日本は27位にランクしており、最も労働時間が長い国はメキシコで2128時間、最も短い国はドイツで1349時間です。

 

 

 


しかし、これらの数字は全ての労働者(フルタイム、パートタイム、非正規雇用など)を含んでいます。特に日本では、短時間労働者の割合が高く、その影響で平均労働時間が短く計算されている可能性があります。また、OECDの2020年の調査によると、有償労働時間が長いのは日本男性(452分)で、これはOECD平均の男性317分よりも長いのです。

 

 

 


したがって、日本の労働時間が他の国と比較して長いかどうかは、どの労働者のグループを見るかによります。

全体としてはOECD平均よりも少ないですが、特定のグループ(例えば、フルタイムの男性労働者)については、他の国よりも長い可能性があります。

 

 

2.労働時間が長いのはすべて経営者の責任なのでしょうか?

 


日本の労働者の労働時間が長い原因は多岐にわたります。経営者の責任だけではなく、以下のような要素が絡み合っていると考えられます。

生産性が低い:日本の一人あたり労働生産性は他の国に比べて低いとされています。生産性が低いと、同じ成果を出すためにより長い時間を働かなければならないことになります。

 

 

 

 

 

業務量の多さ:従業員一人あたりの業務量が多い場合、労働時間が増えてしまう傾向があります。これは、マネジメントの問題である可能性もあります。

 

 

 


人手不足:人手不足が深刻化している業界では、一人あたりの労働時間が増える傾向があります。


進捗管理がうまくできていない:プロジェクトの進捗管理がうまく行われていない場合、労働時間が増える可能性があります。


無駄な会議・ミーティング:効率的でない会議やミーティングが多いと、労働時間が増える可能性があります。


これらの要素は、経営者だけでなく、労働者自身や社会全体の問題とも言えます。したがって、日本の長時間労働の問題を解決するためには、これらの要素を全て考慮に入れた対策が必要となります。具体的な対策としては、業務の効率化、評価制度の見直し、勤務制度の見直しなどが挙げられます。また、法改正による労働時間の上限規制も進められています。これらの取り組みにより、労働時間の削減と労働環境の改善が期待できます。

 

 

3.労働時間を短縮して自由時間を増やす方法

 

(1)経営者が行うべきこと


経営者が行うべきことの一つに、個々の従業員の業務量を減らすことがあります。その方法の一つとして、従業員を増やすことが挙げられます。これにより、タスクをより多くの人々に分散させることができ、個々の従業員の負担を軽減することが可能です。

ただし、従業員を増やすことは、給与や福利厚生などのコスト増加を伴うため、経営者としてはその費用対効果を慎重に考える必要があります。また、新たな従業員を採用し、適切に教育するためには時間とリソースが必要となります。

その他にも、業務のアウトソーシングや業務の自動化など、従業員の業務量を減らすための方法はいくつかあります。これらの方法は、特定のタスクを外部の専門家に委託したり、ルーチンの作業を自動化することで、従業員がより重要な業務に集中できるようにすることを目指しています。

これらの方法を適切に組み合わせることで、経営者は従業員の業務量を減らし、生産性を向上させることができます。それにより、従業員はよりバランスの取れた働き方を実現し、組織全体のパフォーマンスを向上させることができます。労働時間の短縮は、組織の持続可能な成長に寄与します。それぞれの組織に最適な方法を見つけることが重要です。

 

 

(2)労働者が行うべきこと

 

労働時間を短縮するために労働者が行うことが出来る方法はいくつかあります。

タスクの優先順位をつける:全てのタスクが同じ重要度を持つわけではありません。タスクの優先順位をつけ、最も重要なものから取り組むことで、時間を効率的に使うことができます。


タイムマネジメントの技術を使う:ポモドーロテクニックやタイムボクシングなどの時間管理のテクニックを使うと、作業時間を効果的に管理できます。


デジタルツールを活用する:プロジェクト管理ツールやタスク管理ツールを使うと、作業の進行状況を一目で確認でき、労働時間を短縮することができます。


デリゲーション:自分一人で全てをこなす必要はありません。他の人にタスクを任せることで、自分の時間を有効に使うことができます。


休憩を取る:一見、時間の無駄に思えるかもしれませんが、適度な休憩は集中力を高め、生産性を向上させます。


それぞれの方法が各人の仕事やライフスタイルにどのように適応するかを見つけることが重要です。

労働時間を短縮することで、より多くの自由な時間を得ることができます。

 

 

4.社会主義革命によって労働時間は短くなるのでしょうか?

 

ソ連では1917年の社会主義革命によって労働時間は一日8時間になりました。この短縮は、労働者にとって一般的にはプラスの側面でしたが、一部の副作用もありました。

○プラスの側面


労働時間の短縮: 社会主義革命は、労働者の労働時間を短縮することを目指しました。これにより、労働者はより多くの自由時間を持つことができ、仕事と家庭のバランスを取りやすくなりました。


労働条件の改善: 労働者の権利と福祉が向上し、労働環境が改善されました。安全基準や休暇制度の導入などが行われました。


○マイナスの側面


経済的影響: 社会主義革命による経済の再編は、一部の産業や企業に影響を及ぼしました。一部の企業は国有化され、経営の効率性が低下することもありました。


生産性の低下: 労働時間の短縮は、一部の産業で生産性の低下をもたらすことがありました。これは、労働者が同じ時間内でより少ない仕事をこなすことになったためです。


総じて、社会主義革命は労働者の権利と生活条件を改善しましたが、経済的な課題も存在しました。

 

 

5.社会主義革命では自由な時間を手に入れられるのでしょうか?

 

社会主義国においては、一般的には経済的な平等を目指す思想・社会体制ですが、実際には経済格差が生じています。

社会主義国では、生産手段が公有され、土地も国有とされています。企業は国有・国営または協同組合が所有していることが多いのですが、小規模企業の私有や私営も認められている場合もあります。ただし、社会主義国においても経済格差が拡大する傾向があり、一部の特権階級に富が集中する状況が生じています。

 

 また、ソ連・東欧のように社会主義国は計画経済を推進していた時期もありましたが、現在は中華人民共和国のように市場経済への移行が進められています。市場経済では、国家計画ではなく市場の価格調整メカニズムによって資源が配分されます。しかし、競争原理が不完全な形で導入されていることもあり、格差が生じる要因や発生のメカニズムは資本主義国とは異なる特徴を持っています。 社会主義国においても、経済・社会の安定的かつ持続的な発展のために、格差の是正が重要な課題となっています。

ソ連・東欧の経済は「国家による計画経済」で運営されていました。企業は国有化され、全ての勤労者は公務員となり、国家が経済を統制していました。しかし、この中央集権的な体制は非効率で、物資の品質が悪化し、技術の進歩も鈍化しました。さらに1980年代には原油価格の下落も影響し、経済の停滞と物資の欠乏が深刻化しました。

 

 

 


社会主義国家で自由が抑圧される場合があります。

 

例えば、ソルジェーニツィン氏は、ソ連(ソビエト連邦)の強制収容所制度や政治的抑圧を告発した作家であり、彼の経験は社会主義国における表現の自由の制約を浮き彫りにしました。

 社会主義国でも表現の自由は重要な権利とされていますが、具体的な制約や規制は国によって異なります。

 ソルジェーニツィン氏のように政治的な批判を行うことは、当局にとって脅威となり、収容所送りになることもありました。

 

どうしてそうなるのかというと、社会主義革命によって生まれるプロレタリア国家は、資本家(ブルジョアジー)とブルジョア思想を排除しないと成立しないからです。

労働者階級しか存在しない国家と実現するはそういうことを意味します。

 

そして、労働者階級の社会主義国をつくるには共産党が主導的な役割を果たす必要があります。

そうしないと反革命により資本主義国家に逆戻りするからです。

そのために社会主義的な法律に作り替え、軍隊や警察も社会主義国家に従うようにすることになります。

その実現ため一党独裁になります。その理由は複雑ですが、以下の要因が影響しています。

イデオロギーと指導者の役割: 社会主義国家では、共産主義的なイデオロギーが強調され、共産党が指導的役割を果たします。指導者は一党のトップであり、国家の方針や政策を決定します。


組織的構造: 社会主義国家は中央集権的であり、政治的権力が共産党に集中しています。他の政党や政治的対立勢力は制限され、共産党が唯一の合法的な政治組織となります。


歴史的文脈: 社会主義国家の成立過程には革命や戦争が伴い、指導者はその過程で強力な地位を築きました。このような歴史的背景が一党独裁を助長することがあります。


安定性と統制: 一党独裁は政治的安定性と統制を維持する手段として機能する場合があります。指導者は政治的反対勢力を排除し、国家の方針を一貫して実行できると考えられています。


ただし、一党独裁は民主的な原則とは相容れない側面もあり、市民の権利や自由が制限されることがあります。

 

ソ連は社会主義革命で労働時間の短縮は進みましたが、「自由」という意味では社会主義革命によって、失ったことのほうが大きかったのです。

 

都知事選のポスター掲示板のことと言い、おそよまともな人間ではないと、パトラとソクラはN国党の立花孝史氏のことを思っていた。

 

しかし、このYouTubeでの石丸伸二氏と立花孝史氏とのやり取りを聞いていて、どっちがまともかといえば立花孝史氏のほうだとわかった。

その一部がこんなふうに報道されている。

立花氏の「このまま行くと、最高裁判所の決定が出ても、それは裁判所の判断で俺の判断、俺の考えとは違うからっていう考えを押し通そうということですよね?」との問いに対し、石丸氏は「押し通そうというか、そういう事実じゃないですか。もしそうだとしたら最初からそんなこと言わないですよ」と一歩も引かず。


「でも裁判で負けたら“ごめんなさい”をする人と、“いや、裁判所が悪い”っていう人で大きく違うと私は思いますよ」と続けた立花氏。その後もやり取りは平行線をたどり、「日本の司法がそう言ってるのに、“司法なんて関係ないよ”とかっていう行政の長とかが出てくるのはやっぱ恐ろしい」と締めくくった。

 

 

石丸伸二氏は二つの裁判を闘っている。

ポスター代不払いの裁判は最高裁が棄却して結審した。石丸氏の敗訴だ。

きちんとした契約もせずに発注した石丸氏が、業者が公選法の範囲内で印刷することを知っているのが常識だと主張した。石丸氏は印刷が終わるまでにそのようなことを相手に意思表示したことはない。

しかし、未だに自分が悪いとは言わない。

裁判ではメールや証言を裁判所がいちいち事実認定したのにだ。

 

もう一つの裁判は市会議員に恫喝されたとしてSNSで拡散したことについて、名誉毀損で訴えられた裁判だ。

録音もあるのだが、それは証拠としては一部の切り取りだとしてあくまで恫喝があったと主張している。

立花氏が恫喝の定義を「相手を畏怖させる行為」だと裁判所も言っていると指摘したが、それは石丸氏の定義とは違うと撥ねつけた。

 

ん?

これはどこかで聞いたやりとりだな、と思う。

そう、ドナルド・トランプのやり方に似ている。

自分に都合の悪いものはフェイクニュースと切り捨てる。国会突入事件でも煽ったわけではないと否認する。

 

トランプは演説の終盤に「ペンシルベニア大通りを歩いて行こう、私はペンシルベニア大通りが大好きだ、そして議事堂へ行こう」(”So we're going to, we're going to walk down Pennsylvania Avenue — I love Pennsylvania Avenue — and we're going to the Capitol...”)と呼びかけ、トランプの呼び掛けにより抗議集会に参加していた少なくとも数千人のトランプ支持者が連邦議事堂へ向けて行進を開始した。

 

 

この二人は、多くの人々とはなんらかの認知機能での違いがあるのだろう。

ドナルド・トランプも石丸伸二氏も自分の基準がそれほど強固なのだろう。

違いは石丸伸二氏のほうが論理的な装いができているということくらいか。

 

立花孝史氏がまともに見える。

これはパトラとソクラが立花孝史氏に少しは勝手な偏見があったからなのかもしれない。

いや、それほど石丸伸二氏は自身の価値観か認知のフレームが世の通常の人々より堅牢で修正がきかないのだろう。

 

立花孝史氏はこのビデオで自身は裁判で負けたら反省してやり直そうとしていたと言っていた。

意外だったが、考えてみるとそうともいえる。

判例のない分野、司法の判断していない分野に斬り込んでは騒ぎにしていたのだろう。今回のポスター掲示板事件もそうだ。

 

それに比べて、石丸伸二氏はそうではない。

判例や常識という分野でも自身の正当性を主張する。疑いをもつことはない。

立花氏が司法で最高裁の判決が出ても、謝罪をしたり立法したりすることのない政治家が出てくるのは危険だと言っていた。

 

立花孝史にそんなことをいわれるほど、石丸伸二氏は異常なのかもしれない。

 

石丸伸二支持者の方々は一度このビデオを見て目覚めてください。↓

 

 

 

 

マルクス・ガブリエルの近著『倫理資本主義の時代』では「倫理資本主義」について展開している。

パトラとソクラは、コルナイ・ヤーノシュが社会主義の失敗から資本主義の本質を考えていることをもとに、社会主義のやり方が間違っていたのか、それともマルクスが間違っていたのかについて考え、現代の経済学・哲学批判を行う予定だった。

しかし、その答えをマルクス・ガブリエルは簡潔にこの本のなかでまとめている。

 

 


1.倫理とは何か?

 

マルクス・ガブリエルはその思考の枠組みをまずこう述べている。

 

 本書は「倫理資本主義」という新たな概念を提唱する。経済的利益は道徳的に優れた行為の結果として得られる、またそうあるべきだという考え方だ。私たちが現在直面する複雑な社会的、経済的、政治的危機に対処するために、社会体制の変更や革命は必要ない。ただ、共通の目標を達成する方策にかかわる新たなビジョン、社会経済活動の指針となる「善」についての新たなビジョンは必要だ。つまり新たな価値観の地平、私たちが社会生活の意義を共有するためにともに追い求めるべき何かが必要なのだ。そのような方向性を提示すること、しかもこれから述べるさまざまな理想を実現するための具体的道筋まで示すことが本書の目的だ。
 この新たな世界を皆さんと足並みをそろえて歩んでいくために、現状分析や倫理資本主義の基礎の説明に入る前に、まずは基本的概念をいくつか定義しておこう。とりわけ「倫理」と「資本主義」について、さらに「社会」について共通の理解を得ておく必要がある。それぞれを見ていこう。

 

(p.24)

 

そして、まず倫理について述べている。

 

 同じ状況に置かれた人は何をすべきか、あるいは何をすべきではないかにかかわるのが「道徳的」事実だ。溺れる子どもの例でいえば、子どもを救う能力がある者ならば誰もが子どもを救うべきであるというのが道徳的事実である。子どもが誰であるかは関係ない。救われる子ども、子どもを救える人を誰に置き換えてもかまわない。それによって子どもを救うべきだという道徳的事実が変わることはない。こうした意味で倫理の要請は普遍的で、無条件に拘束力がある。人類共通の人間性にかかわる事実に基づいて、何をすべきか、すべきではないかを示している。

 

(p.26)

 

倫理とは人類が長い歴史のうえで社会的合意になってきたもので、奴隷制度が誤っていると今では誰でもが思う。

最近では、スウェーデンのグレタ・トゥーンベリが始めた「フライデーズ・フォー・フーチャー」の環境運動やミー・トゥ-(#MeToo)運動などが倫理観の変動に影響を与えている。

そして、その倫理を形作る道徳的進歩には対話が必要だと言っている。

 

 道徳的進歩には対話が必要だ。誰もが自分とは違う道徳観や倫理観を持つ人々に耳を傾けなければならない。世代、宗教、文化、言語、社会階級、政治的党派などの壁を超えた対話や会話は、道徳的事実を発見するための重要な手段であり、道徳的進歩の推進力となる。

 

(p.33)

 

ソ連・東欧で試された社会主義社会というのも間違いではなかったのか?

そういう対話が共産主義運動を担う人たちのなかでもヨーロッパでは起きて、社会主義が復活することはなかった。

 

 

2.資本主義とは何か?

 

次に「資本主義」とは何かということについてマルクス・ガブリエルはまず資本主義をこう定義する。

 

 一般的に「資本主義」は、経済の本質的特徴を表す言葉だ。経済の入門書や「資本主義」の伝統的な定義からは、資本主義の条件として次の三つが浮かび上がる。

・生産手段の私有
・自由契約
・自由市場

 一般的に生産手段とは特定の事業のインフラだ。伝統的には機械や建物といった工場のハ-ドウェアを指していた。機械や工場の建物、さらには機械を使って新たな財を生産する労働者を雇う金融資本を持つ者は資本家だ。資本家は資本を再投資して利益を生み出すことがこれは資本の蓄積と呼ばれる。こうして資本家の投資が物質的財やサービスの生産につながり、その結果経済は成長する。
 自由契約とは、労働契約の詳細を一元的に交渉する中央機関や独立した第三者が存在しないことを指す。言うまでもなく、自由契約は国家の規制や干渉と共存できる。なぜなら国家は契約や労働者の権利、そして資本家が労働契約を交渉するための基本的な法的枠組みに従って従業員を採用または解雇する権利を保護するからだ。自由契約の対極にあるのが、封建主義や奴隷制度といったきわめて搾取的で不道徳な隷属的労働だ。
 資本主義の定義の三つめの構成要素が、自由市場だ。一般的に市場は参加者に、交換したいモノについての価値判断を比較する場を提供する。私かリンゴを生産し、あなたがリンゴを買いたい消費者だとすると、私は自分のリンゴの価格を決めることで価値判断を下し、あなたはそれだけの値打ちがあるかという価値判断をする。市場に出されたモノの最終的に測定可能な価値を決定するメカニズムは、中央機関が計画したり規制したりするものではなく、その意味で自由だ。それはすべての市場参加者が示す多くの価値判断の比較から生まれる。自由市場は価値判断を交換するプラットフォームとして剰余価値を生み出す。市場は単に(カールーマルクスとその信奉者が考えていたような)工場労働者が生産する有形財を交換するプラットフォームではない。古典的工場のような会社において労働者と交渉して労働力を購入し、生産に投資するというのは、重要ではあるが剰余価値を生み出す一つの方法に過ぎない。

 

(p.33)

 

カール・マルクスが資本主義を分析した時代、市場は単に工場労働者が生産する有形財を交換するプラットフォームに見えた。

古典的工場のような会社において労働者と交渉して労働力を購入し、生産に投資するというのは、重要ではある。

しかし、それは剰余価値を生み出す一つの方法に過ぎないとガブリエルは言うのだ。

 

3.剰余価値とは何か

 

 では、人間が生み出す剰余価値とは何なのだろうか?

 

 一般的に「剰余価値生産」とは、次のような不可思議な人間の能力を指す。人間は何千年にもわたり、身の回りの自然(岩、石、樹木、河川、人間や人間以外の動物など)を変容させてきた。狩猟をし、道具をつくり、草花を育て、動物を家畜化し、それを基に複雑な文明をつくりはじめた。それを通じて身の回りの自然物の価値を変えた。自動車が部品の総額より高価なのは、価値を獲得したからだ。住宅には原材料を足し合わせたより大きな価値がある。コンピュータにソフトウェアを組み合わせるとコンピュータショップでハ-ドウェアを買ったときより価値は高まる。原材料と人間の経済におけるその価値との差が剰余価値だ。ざっくりいうと、マルクスと今日のネオ・マルクス主義者は、剰余価値を生み出すのは人間の労働だと考える。自動車部品を足し合わせた価格と最終製品である自動車の価格の差は、人間の労働による付加価値だ。マルクス主義者は、資本主義者(基本的には労働者に生み出させた資本を投資・再投資する能力を持つ企業の所有者)は労働者が生み出した価値の一部しか(賃金というかたちで)彼らに還元しないので、労働者を搾取していると考えた。

 

(p.35)

 

これがマルクスの考えた「搾取」の構造だ。

生産手段を私的所有している資本家は、労働者が生み出した価値の一部しか労働者に「賃金」という形で還元しない。

労働者は資本家に搾取していると考えた。そして、その剰余価値の大半は資本として蓄積される、と。

 

では、今の社会ではどうだろうか?

 

 ただ現代の知識社会、とりわけサービス産業やデジタル革命は、資本の蓄積という概念とその実態を大きく変えた。剰余価値は人間が自然を文化的産物に変えることで生まれるという事実は変わらないものの、すべての経済的剰余価値が人間の肉体労働から生まれるわけではない。人間が経済の基本的資源としてありのままの自然を使っていた時代は完全に過去のものとなったことに注目すべきだ。ありのままの素材(今日のインターネットやコンピュータテクノロジーに不可欠なレアアースも含む)に加えて、人間は文化をさらなる文化にも変える。たとえば芸術品の価格は芸術市場における投機によって上昇する。経済のうち知識など非物質的財やサービスが占める割合は相当なものだ。

 

(p.35)

 

パトラトソクラは、ピカソのドローイングが、その費やした労働時間とは関係なく、価格がつけられることを指摘し、『資本論』の分析が当てはまらない事例を示した。

大谷翔平の契約料(広義の賃金)が資本家の資本の蓄積を支えるものかどうかも検討した。

 

人間はマルクスの時代には、経済の基本的資源としてありのままの自然を使っていた。

しかし、それは完全に過去のものとなっている。

Facebookはインターネットを通じてユーザーの書き込みという無償の労働でFacebookというサービスを作っている。自然を加工して生産物を作り、それを市場で交換するという経済では説明できない。人間は文化をさらなる文化にも変えているのだ。

芸術品の価格は芸術市場における投機によって上昇する。

 

 

4.剰余価値生産は人間の価値判断の副作用


 かつてマルクス経済学の剰余価値説について限界効用説からの批判があった。

 

 今日、剰余価値生産の謎は限界効用理論を使って説明するのが一般的だ。これは現代の主流派経済学における重要な概念だ。この理論は、なぜダイヤモンドのほうが直接的効用の高い水よりも経済的価値が高い(そしてより高価である)のかという疑問に答えようとしている。主流派経済学は、それはダイヤモンドのほうが限界効用が大きいためだと説明する(だから〔限界効用理論]と呼ばれる)。〔限界効用とは、ある財を追加で一単位消費することで得られる満足度のこと。通常、水は世界中に豊富に存在するため限界効用が小さい。それに対してダイヤモンドは希少であり限界効用が大きい。総効用の大きさではなく限界効用の大きさによって価格が決まるとするのが限界効用理論〕


 これは経済理論のなかでもかなり専門的な概念だ。本書ではもっと一般的な概念を使おう。それによって主流派経済学を超越するのにも役立つ。この一般的概念によると、剰余価値生産は人間の価値判断の副作用だ。一ドルで買える物品のなかで、私か新鮮なリンゴに最大の価値を見いだす場合、私は一ドルをリンゴと交換する。他の人が同じような状況でリンゴにどれだけの価値を見いだすか、またリンゴの供給量がどれくらいかなど、実際のリンゴの価格はたくさんの価値判断の結果となる。価値判断のなかには、リンゴの生産者や販売者による「消費者はリンゴにいくら払うか」という期待がある。価格が高すぎればリンゴは売れず、ライバルがもっと安く売ってしまうかもしれない。この結果、実際の競争と思惑の競争が起こる。このようにモノやサービスの実際の価格は、価値判断、期待、文化的慣行、人間の基本的ニーズによる複雑なシステムを表すことになる。

 

(p.36)

 

限界効用説の批判に反論するためにカール・マルクスは微積分を勉強したという逸話もある。限界効用説の論争はそれほど専門的なのだが、ガブリエルは限界効用説でなく、「人間の基本的ニーズ」を超えるところからマルクス的な世界では説明できなくなることを述べている。

 

 このように経済は人間の基本的な生存ニ-ズに根差しているが、基本的ニーズがおおよそ満たされた途端、それを超えていく。人間が、ダイヤモンドをはじめ直接役には立だないが、自らのより大きな願望を投影できるようなモノを作りはじめるのはこの段階だ。共産主義下の生活が退屈なのは、労働者を搾取から守り、より良い世界(人間がダイヤモンドや消費財などのために地球環境を破壊するようなモノを生み出さない世界)をつくろうと、より大きな願望が生まれるのを抑制するためだ。
 しかし人間の経済の複雑化から生じる問題を解決するなら、もっと良い方法がある。それによって生活が退屈になることはなく、むしろ個々の消費者のニーズや魅力的なモノを大切にし、自由民主主義の活力や多様性に富む豊かさを増大させるような方法だ。重要なのは、自由市場の強みや、道徳ルールを守った競争から生まれる創造性を生かしつつ、善行から利益を得るにはどうすればよいかだ。

 

(p.37)

 

資本主義経済では、限りない欲望が不必要なものを大量に生産させて、自然を壊すという批判がある。

しかし、個々の消費者のニーズや魅力的なモノを大切にし、自由民主主義の活力や多様性に富む豊かさを増大させるような方法もあるのだ。

 

5.市場と国家

 

では、市場において国家はどのような役割を担うべきなのだろうか?

 

 自由市場も国家による規制と対立する概念ではないことを、もう一度指摘しておこう。市場は法的に保護された境界のなかで機能し、たとえば特定の商品は市場での取引から除外される(奴隷制度の廃止、あるいは民主主義の下では自分の投票権を売ることはできないなど)。自由市場の対極にあるのは、国家などの中央機関がどんなモノをどんな目的で生産し、どの価格で売るかまで完全に決定するような計画経済(厳密な意味での共産主義など)だ。資本主義と国家による規制は相容れないものではない。むしろ今日の自由民主主義の社会政治制度においては、国が私有財産を保護し、合法的な市場取引についての法的および社会的ルールを提供するという意味において、両者は補完的だ。国家による規制を一切受けない完全に無秩序な資本主義システム(「自由放任」と呼ばれることもある)は支離滅裂なたわごとだ。そのような体制においては私有財産や契約を保護する法的枠組みもなく、それは経済の弱体化につながる。

 

(p.38)

 

市場は法的に保護された境界のなかで機能する。

これがガブリエルの考えだ。奴隷制度の廃止、あるいは民主主義の下では自分の投票権を売ることはできないなどを例示している。

自由市場の対極にある共産主義国での計画経済では、資本主義のニーズを国家によって規制する。

今日の自由民主主義の社会政治制度においては、国が私有財産を保護し、合法的な市場取引についての法的および社会的ルールを提供するという意味において、両者は補完的になっている。

 

 

6.倫理資本主義の考え方

 

ソ連や東欧での共産主義をめざす社会主義革命は失敗した。

資本主義を批判し、それをひっくり返そうとした試みは失敗したのだ。

それは実はマルクスの『資本論』や『共産党宣言』が資本家階級と労働者階級で構成される社会を分析するだけでなく、その階級を解消を善とするビジョンが前提としてあったことが原因だろう。

マルクスは人間は資本主義の中では生きていけなくなると思い、階級をひっくり返すためにそれらの本を書いたのだ。

 

ガブリエルの倫理資本主義は、資本主義と言う経済の仕組みのなかでも人類は生きていけるというビジョンがある。

 

 倫理資本主義とは、倫理と資本主義を融合させられるという考え方だ。道徳的に正しい行動から利益を得ることは可能であり、またそうすべきである。資本主義のプラットフォームは人間性を向上させるため、道徳的進歩を遂げるために活用できる。今日の資本主義がサクセスストーリーとしてこれほど広範に受け入れられるようになった要因の一つがここにある。歴史の発展とそれに伴う社会政治的闘争を経て、資本主義は途方もない科学技術的進歩をもたらし、そこから生じる剰余価値の一部は産業、政治、市民社会で好ましい用途に使われる。

 

(p.43)

 

倫理と資本主義を融合させ、道徳的に正しい行動から利益を得ることは可能であり、またそうすべきである、という考えだ。

 

国家が道徳的に優れたサービス(医療、機会均等、あるいは無償教育)を提供するためには税収が必要で、その税収は経済活動の副作用として生み出される。要するに、道徳的に正しいことをして利益を得る(倫理資本主義)のと、道徳的に正しいことをするために利益を得ることの両方が存在する。そして両方を組み合わせ、道徳的に正しい行動によって得た利益を使い、道徳的に正しい行動をすることもできる。
 このように資本主義社会は根本的に不公平、搾取的、貪欲、破壊的である(単にそう思われているというだけでなく)という理由で体制変更や革命を求めるのは誤りであり、危険な考えだ。まず認識すべきこととして、厳密な意味で資本主義社会などというものはあり得ない。資本主義は常に経済活動の(重要ではあるが)一つの側面に過ぎず、また経済活動もはるかに大きい社会の一部に過ぎない。近代において、資本主義はより大きな自由主義的構想、具体的には社会全体の決定権や支配権を社会生活の単一のレイヤーに委ねないという構想に組み込まれている。あらゆる取引が市場で商品化される資本主義社会があったとしたら、それは全体主義的な悪夢のような世界だろう。そこでは人権を売ったり、政治家を買収したりすることまでできるはずで、どこまでも腐敗した社会だからだ。幸い、私たちの社会はそのようなものとはかけ離れている。マルクス主義的およびネオ・マルクス主義的急進左派が私たちは資本主義社会に生きていると盛んに主張するという事実は、それが彼らのイデオロギ-の一部だからだ。私は本書を通じて、彼らは社会に対して誤った概念、社会的現実への誤った認識を持っているだけだと主張していくつもりだ。
 もちろん資本主義も私たちの社会も、完璧ではない。私たちは暗黒の時代に直面し、世界史上まれに見る途方もないスケールの悪の脅威にさらされ、さらなる道徳的進歩が切実に求められている。うまく機能している自由主義の民主主義社会は現在おおよそ平和な状況にあるものの、不当な格差、人種差別、女性差別、家庭内暴力、悪質な経済主体、悪しき経営モデルが生み出した生態学的危機などに起因する問題はあまりに多く、今日の倫理的発達段階で足を止めているわけにはいかない。このような社会問題は解決する必要がある。倫理資本主義とは道徳的進歩を経済の推進力にも変えていこうとする考え方だ。

 

(p.44)

 

資本主義社会は根本的に不公平、搾取的、貪欲、破壊的であるが、そういう理由で体制変更や革命を求めるのは誤りなのだ。

ガブリエルは、「厳密な意味で資本主義社会などというものはあり得ない」という。

 

これは、ガブリエルには、資本主義は常に経済活動の一つの側面に過ぎず、また経済活動もはるかに大きい社会の一部に過ぎないという考えがあるからだ。

 

いまや資本主義はより大きな自由主義的構想に組み込まれている。それは社会全体の決定権や支配権を社会生活の単一のレイヤーに委ねないという構想だ。あらゆる取引が市場で商品化される資本主義社会があったとしたら、人権を売ったり、政治家を買収したりすることが当たり前の倫理になるはずで、腐敗した社会が資本主義のスタンダードになるだろう。

私たちの社会はそのようなものとはかけ離れているとガブリエルは言う。

マルクス主義的およびネオ・マルクス主義的急進左派が私たちは資本主義社会に生きていると盛んに主張するという事実は、それが彼らのイデオロギ-の一部だからであり、誤った概念、社会的現実への誤った認識を持っているだけなのだ。

 

 

7.資本主義の仕組みが存在する社会で大切なこと

 

では、資本主義の仕組みを含んだ社会で大切なことは何だろうか?

 

 資本主義の特徴としてとりわけ重要なのが、私的領域の余地を残すことだ。なぜなら私的領域は買うこと、売ること、そして消費への新たな欲求を生み出す余地をつくるからだ。こうした欲求が資本主義の燃料になる。対照的に共産主義は、経済的検討の対象とならない社会領域がほぼ皆無になるほど、政治と経済の領域を融合させようとする。共産主義は資本主義ほど私的領域に関心がない。むしろ共産主義は中央による経済計画によって予測が立てやすいように、人々の私的欲求の複雑さを抑える必要がある。だが資本主義も共産主義も(敢えて両極を挙げるが)、社会と経済を一致させることはできない。両者は常に異なる。そして社会と経済はそれぞれ他のシステムに組み込まれる。たとえば自然のシステムだ。自然は社会経済活動をとりまく環境となる。人間という動物は自然の資源が提供される環境でしか剰余価値を生み出すことができないが、自然の資源のすべてが社会経済的評価の対象となるわけではない。自然のうちどの部分が経済の一部となるか自体が社会政治的議論の対象であり、それゆえに国家の規制対象となりうる。気候危機の時代に、この事実は経済活動においてより重要性を増している。
 あらゆる経済は成長し、機能しつづけるために成長を必要とする。だからといってこれから見ていくとおり、資本主義が地球の限界を超えて成長し、地球を破壊するのが必然というわけではない。資本主義的な経済成長は、より多くの物質的資源を使用し、結果として地球の有限な資源を容赦なく消費し尽くすことと同義ではない。サービス経済や知識経済も経済の一部だ。ある会社の提供するサービス(私立学校あるいは私立大学の提供する教育サービスなど)には経済的価値(対価と潜在的利益)があるが、それに付随して地球の資源を直接消費するわけではない。もちろんこうした事業体の物理的インフラを維持するには資源の消費が欠かせないが、大学やインターネット企業をある種の工場のようにみなし、教育の剰余価値を隠れた物質的条件に還元してしまうのは誤りだ。
 このように、経済が社会と完全に一致することは決してない。人間のすることすべてに対価があり、経済的価値判断の対象となるわけではない。そのうえ資本主義は、私たちの経済活動のすべてとイコールではない。私たちが「資本主義」と呼ぶものは、市場で価値判断を交換するためのかなり穏やかな条件の集合に過ぎない。私たちの経済的生活や現実はもっと複雑なものだ。そこには決して完全に商品化することのできない倫理的、法的、政治的、宗教的、美的価値観など、数多くの非資本主義的条件や価値判断が含まれている。

 

(p.41)

 

マルクス・ガブリエルは、資本主義の仕組みを含んだ社会で大切なことは私的領域の余地を残すことだと言う。

その理由は、私的領域は買うこと、売ること、そして消費への新たな欲求を生み出す余地をつくるからだ、と。

 

こうした欲求が資本主義の燃料になる。

対照的に共産主義は、経済的検討の対象とならない社会領域がほぼ皆無になるほど、政治と経済の領域を融合させようとする。


そうマルクス・ガブリエルは言う。

 

 

共産主義は資本主義ほど私的領域に関心がない。むしろ共産主義は中央による経済計画によって予測が立てやすいように、人々の私的欲求の複雑さを抑える必要があるのだ。

それはパステルナークが革命後のソ連を描いた「トクトル・ジバコ」などを見るとよくわかる。

 

資本主義の限界についてもマルクス・ガブリエルは語っている。

 

あらゆる経済は成長し、機能しつづけるために成長を必要とする。しかし、資本主義が地球の限界を超えて成長し、地球を破壊するのが必然というわけではないのだ。

資本主義的な経済成長は、より多くの物質的資源を使用し、結果として地球の有限な資源を容赦なく消費し尽くすことと同義ではない。

 

また、サービス経済や知識経済も経済の一部だが、インターネット企業のサービスや私立大学の提供する教育サービスなどの経済的価値(対価と潜在的利益)が地球の資源を直接消費するわけではない。大学やインターネット企業をある種の工場のようにみなし、コミュニケーションというサービスや教育の剰余価値を隠れた物質的条件に還元してしまうのは誤りなのだ。
 

経済が社会と完全に一致することは決してない。人間のすることすべてに「価値」があるが、経済的価値判断の対象となるわけではない。資本主義は、私たちの経済活動のすべてとイコールではないのだ。

「資本主義」と呼ばれているものは、市場で価値判断を交換するためのかなり穏やかな条件の集合に過ぎない。

私たちの経済的生活や現実はもっと複雑であり、そこには決して完全に商品化することのできない倫理的、法的、政治的、宗教的、美的価値観など、数多くの非資本主義的条件や価値判断が含まれている。そういうものをすべて経済的な価値に還元してしまうのが大きな誤りなのだ。

 

 

7.日本の共産主義者の誤解

 

しかし、日本の共産主義者はマルクス・ガブリエルのようには資本主義の本質を考えない。

いまだにマルクスの『資本論』にすがろうとする。

まるで聖書かコーランだとでも思っているのだろうか?

 

日本共産党の志位和夫議長は、『Q&A共産主義と自由」―「資本論」を導きに』という本の出版発表記者会見でこのように語っている。

 

マルクスは『資本論』を作成していく過程で、資本主義的な搾取の秘密を明らかにしていくわけですが、そのなかでマルクスは、「それでは搾取によって奪われているものは何だろうか」ということを考え抜いていくわけです。彼の結論は、人間が搾取によって奪われているのは「モノ」や「カネ」だけではない、「自由に処分できる時間」―「自由な時間」が奪われている。マルクスは『資本論草稿集』のなかで、「資本家は自由な時間、すなわち文明を、横領する」という言葉を使って、そのことを告発しています。

 いま一つ、マルクスが考察したのは、「人間にとっての真の富とは何か」という問題です。もちろん富と言った場合に、物質的な富、これは人間らしい生活の基礎であり土台であり、それなくしてはいかなる「自由」も語ることはできません。同時に、マルクスは、それはあくまでも基礎であり土台であって、そのうえに、万人が「自由に処分できる時間」―「自由な時間」を持ってこそ、人間の「自由で全面的な発展」を実現することができると考えました。マルクスは「時間は人間の発達の場である」(『賃金、価格および利潤』)という有名な言葉を残していますが、『資本論草稿集』のなかでは「『自由に処分できる時間』こそ、人間と社会にとっての『真の富』である」ということがずばり語られています。搾取によって奪われている「自由な時間」を取り戻し、拡大し、万人が「自由な時間」を十分に持つことによって、自分自身の能力を「自由に全面的に発展」させることができる社会をつくろう。これこそが社会主義・共産主義だ。これがマルクスが『資本論』や『草稿集』でのべているメッセージです。

 

 

資本家から自由時間を取り戻せ!

ということだ。

社会主義革命によって確かにソ連では8時間が実現した。

そのことだけを捉えれば、労働者の働き方は革命によって改善された。

プラスの面ではある、しかし、マイナス面として、コルナイ・ヤーノシュの分析では社会主義革命にとって導入された自由経済から計画経済への転換でイノベーションは起きないようになり、物資の欠乏は常態化した。

それは社会主義の経済とイデオロギーは、欲望の私的領域までに介入することになるからだ。

プロレタリア文学とかプロレタリア絵画とかいろんな分野で文化が色分けされるようになった。

それはブルジョア思想を排除するためだった。社会主義社会にブルジョアはいてはいけないし、ブルジョア思想は要らないのだ。逆かもしれない。社会主義を標榜する国家にとってブルジョア思想の名の元に多くの人が収容所に隔離されり、処刑されたりした。

自由とは何かまで価値転換されたのだ。

労働者階級しかいないことになる社会主義社会ではそうなってしまうのだ。

 

志位氏にある記者がこんな質問をしたらしい。

 

 ――今回、この本で、時間に着目したのは興味深いと思っています。ジョージ・オーウェルの『パリ・ロンドンどん底生活』という本で、貧しい人たちは、休日、自由な時間があっても、有意義な使い方ができないということを書いています。時間ができても、のんべんだらりと過ごしている人たちも多いのでは。どう考えていますか。

 志位 マルクスを読んでいきますと、「自由に処分できる時間」を持つことの重要性とともに、それを「享受する」ことの重要性も言及しています。人間は労働によって、物質的な富をつくり、さらに「自由な時間」をつくりだしていくわけですが、そうした活動をつうじて、それらを「享受する」――人間的に活用する能力、有意義に使っていく能力も――もちろんそのなかには豊かな余暇ということも含まれると思いますが――、発展させていく、これがマルクスの大きな展望だと言えると思います。

 

志位氏の考えでは、自由時間の確保が先で使い方は二番目なのだ。

自由のために時間を確保するという考えだったら、AI革命によって労働時間を短縮させることが有効だろうが、そういう言及は一切ない。

時間の使い方について説くものはネットや書店にごまんとある。

志位氏には目的としての体制変革があるだけだ。

その体制変革によっていかに人々の自由が失わさせられたかへの反省はない。

 

ジョージ・オーウェルの名前を出したこの記者は、ジョージ・オーウェルが書いた『1984年』を意識させようとしたのかもしれない。多くのひとが知っているのは『パリ・ロンドンどん底生活』より『1984年』のほうだ。

ジョージ・オーウェルの『1984年』はイギリス共産党がスターリン主義に染まっていた頃の批判の書らしい。

あの小説をすべての共産党員は読むべきだと思うが、国家が私的領域に介入していく姿がSF小説として描かれている。

志位氏の講義に感動したとかいう若い人のコメントが「しんぶん赤旗」に載っていた。

このコミュニティーはどうなっているのだろうか?

 

オウム真理教に傾倒していった若者たちは、環境破壊や家族の問題を憂う人が多かった。

オウム真理教の教義と修行に共感した人たちだった。

自由時間が政治活動の社会主義革命によって得られるのだと誤解する主張がまかり通っている政党がある。

党員が異論を本に書くのも除名の理由になる。

こういう政党こそ変わらなければならないのではないだろうか?

 

パトラとソクラのブログを読んでいる日本共産党員は多くないと思う。

だからここに書くことはあまり意味がないのだろう。

共産党側からもこのブログが反共ブログなので読むなと言われることもないと思う。

無視するだけだろう。

 

しかし、こういう私的領域の主張は大事なことだと思う。

共産党の人たちがこのブログを読んで目覚めてほしい。

 

東京都知事選で160万票以上を獲得し、二位になった石丸伸二氏。

 

しかし、石丸氏はふたつの裁判で敗訴している。

そのうちのひとつ、安芸高田市長選の選挙ポスターに未払いがあった問題で、弁護士の紀藤正樹氏が自身のX(旧ツイッター)で言及した。
 

 石丸氏は2020年の安芸高田市長選で初当選したが、この時に製作した選挙ポスターをめぐり、広島市の会社が代金の未払いがあるとして約73万円の支払いを求め提訴。最高裁第2小法廷は5日付で、石丸氏側の上告を受理しない決定を出し、石丸氏に約73万円の支払いを命じた一、二審判決が確定した。

 紀藤氏はこの問題を報じた記事をXに貼付したうえで、「最高裁判決を前提とすると石丸氏はほとんどモンスタークレーマー」と敗訴が確定した石丸氏を斬って捨てた。

 

 

 

この裁判について、石丸伸二氏の熱心な支持者が第一審・第二審の判決文を入手し、自身のNoteにアップしている。

 

 

 

この高裁からの控訴を最高裁は受理しなかったので、この判決文で裁判結果は確定した。

この判決文を読めば、どういう事案がわかる。

何が争点だったのかもよくわかる。

 

見積書の提出もないまま石丸氏はポスターとビラの印刷を発注し、印刷業者はポスター・ビラの枚数や納品場所を具体的な指示のもとに納品した。

石丸氏は印刷業者が公費負担の範囲内で受注してくれると思っていた。そういう業者だと思っていた。

 

しかし、高裁判決文にはこう書かれている。

 

本件メール〔1〕や本件メール〔3〕の⽂⾯からも、控訴⼈(石丸氏)は、上記「相当な報酬」の額が本件公費負担額の範囲内に収まり、⼜は、これを超えるとしても⾃⼰負担額が多額に上ることはないと考えていたことがうかがわれる。しかし、そのような控訴⼈の認識が事前に被控訴⼈にしかと伝えられていた形跡はないのであるから、これが請負代⾦額に係る意思表⽰の内容とされていたなどとは認め難く、他にこれを認めるに⾜りる的確な証拠もない。したがって、本件において、控訴⼈が「相当な報酬」の具体的な額⼜は⽔準をどのように想定していたかは、「相当な報酬」を⽀払う旨の上記合意の成否に影響を及ぼすものではない。


契約は発注者と受注者の合意によって成立するものだ。

それくらいは石丸でもわかると思う。
では、今回の契約の合意はなんだったのだろうか?


石丸氏は、印刷業者は公費負担の限度でしか仕事をしないと思っていた。しかし、発注(具体的にポスターやビラの枚数を発注する行為)の前にそのことを業者に確認していない。印刷業者も同じだ。


業者が公費負担でしか請け負わないと思っていたのは、石丸氏の一方的な思い込みだったのだ。業者は選挙ポスター・ビラ制作に精通した業者ではなかった。

高裁判決ではこう書かれている。

 

C(印刷業者)はこれまで選挙⽤のポスターの製作をいわゆる直受け(候補者側から代理店を通すことなく直接発注を受けること)で2件担当したことがあり、その費⽤が全て公費で賄われたという記憶はあったものの、選挙に係る公費負担制度についての知識は乏しかった。

 

このように事実が認定されている。


もしも石丸氏が主張するように限度額について印刷業者が知っているのが常識だという認識が本当なら、石丸氏は具体的に発注するときに公費負担額を限度として支払うということを言うべきだった。それを怠ったのが発注者としての石丸氏の重大な過失である。
実際には印刷業者はこれまで2件しか選挙案件を受注したことがなく、知識も十分ではなかった。
しかし、石丸氏は印刷業者の見積もりで、「⾒積りは、宣伝媒体がビラ、ポスターであると確定しているのに企画料が計上されていたり、他の業務のために時間を使っていたのにその時間分が休⽇労働時間分として計上されたりしていて、およそ合理性があるものとは認められない」と主張している。

 

このNoteの石丸支持者も同じことを言っている。

しかし、判決文には明確にこう書かれている。

 

しかし、まず前者の企画料の点について⾒ると、ビラ、ポスターといった⽂書の作成等の企画に際しては、単に宣伝媒体の選定をすることだけでなく、表現⽅法や視覚的アプローチの⽅法、必要なフレーズなどといった所要の検討も経る必要があるところであり(このことは、甲9の記載からもうかがえる。)、こうした諸検討の成果を踏まえて相当額として企画料を求めることとしても、それには相応の合理性があると認めることができることは、前記2(2)イ(ア)のとおりである。 

 

石丸氏は見積書の提出を受けてその内容と額を確認せずに発注した。それは、印刷業者の言い値で支払うということになる。

印刷業者は実費用を請求しているだけであり、企画料を値引きする必要もない。
この案件は、石丸氏の誤認による契約でしかない。

石丸氏の反論はロジカルでもなんでもなく、単なるひとりよがりの強弁に過ぎない。

 

しかし、このNoteの石丸支持者は「消費者契約法」を引いて石丸氏を擁護する。

 

「個人vs事業者」の場合、事業者は消費者に対して事前に契約条件を明示しなければならないわけです。これは、感情論や個人的な経験論ではなく、法律論です。

 

見積もりを事前に明示しなければならなかったのは、中本本店です。

 

 

 

でも残念ながら、消費者契約法は保護対象者として、事業として又は事業のために契約の当事者になる個人は除かれているので、この場合は適用がない。

まあ、ポスターを発注しておいて、納品されてからクーリングオフにされてはたまらないことくらいはわかるだろう。

 

強烈に支持したりするのは信者が教祖を慕うことや、党員がその政党の中央を信じるのと似ているのかもしれない。

事実の認定とか法律の判断より、信じたい世界があるのだろう。